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北の脅威におびえて大和朝廷が築いた最前線の砦    「長崎県」の目次へ

 対馬は東側が日本海と対馬海峡、西側が朝鮮海峡に面した、南北82キロ、東西18キロの縦に細長か国境の島。
 それば韓国から見たら丁度、2匹の馬が並んどるごと見えるとゲナ。対の馬に見えるケン、対馬タイ。
 古代の対馬に緊張状態ばもたらしたとが、663年の
白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いやった。

 当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立しとったとバッテン、唐・新羅の連合軍から日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、「助けちゃんしゃい」ていうてきたもんやケン、百済再興のために天智天皇の大和朝廷は援軍ば送ったとバッテン・・・。
 天智2年(663)その日本軍は
白村江の戦いで新羅と唐の連合軍にひちゃがちゃ負けて逃げ帰ってきた。

「さあ今度は日本が危なかぞ」ていう怖れがあって、大和朝廷は日本国防の最前線として、対馬・浅茅(あそう)湾の南岸にそびえる城山(じょうやま)全体ば石垣で囲うて金田城ば作らせた。

 日本書紀、巻の二十七、天智6年(667年)11月の条に「是ノ月ニ、倭国ノ高安城、讃岐国山田郡ノ屋嶋、対馬国金田城ヲ築ク」て書いてある。

 だれに造らせたかていうと、朝鮮からいっしょに逃げてきた大勢の百済貴族やら兵隊たちタイ。城造りの専門家が指揮ばしたとのごたる。そやケン、造り方が朝鮮式山城(さんじょう)ていう訳タイ。

 谷ば抱くごとして、城壁が廻っとるケン「抱谷式山城」てもいうとゲナ。
 天智3年(664)、大和朝廷は対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(のろし)ば置いたことも、昔の記録にちゃーんと残っとる。

                                
上から「三ノ城戸」「二ノ城戸」「一ノ城戸」

   

 またこの年、筑紫に 水城 ば築き、さらに翌年には筑紫に 大野城基肄城 ば造っとる。続いて天智6年(667)には、讃岐に屋嶋城、大和に高安城ば築いて北の脅威から日本ば守ろうて、おおわらわやった。
 その最前線拠点になったとが金田城いう訳タイ。そして兵站基地が 鞠智城 やった。今から1340余年も前のこと。

 城山(日本の山名で一番多かとは城山)は標高275m、空気がよかったら、遠く朝鮮半島まで見える。

 山頂部に石塁。山の周囲ば取り巻くごと石垣が築かれとる。

 南東は比較的緩やかな斜面で、海に通じる三本の谷には、城壁の跡が残っとって、北の湾口から順に一の城戸、二の城戸、三の城戸ていう。

 一の城戸と三の城戸には水門跡も明瞭にのこっとった。

 石塁の延長は約6kmあり、城壁は低いところで2m、高いところでは5m、谷なんかは6〜7mに達するところもあるとゲナ。

左・黒瀬湾に面した自然の城砦。右・二の城戸から10mも急な坂ば下りれば、もうそこは海岸やった。

 石垣はたいがい崩れてしもうて、どの城戸も修繕中ばっかし。そらそうタイ。1300年以上もの風雪に耐えてきたとやもん。

 また、二ノ城戸と三ノ城戸の間の「ビングシ山」あたりからは、複数の建物跡が発見されとって、どうも防人たちの宿舎やら、館などの中枢機能があった場所やろうていわれとる。

 昭和57年(1982)3月、県内で最初に国の特別史跡に指定され、平成5年度(1993)から発掘調査が始められとるもんやケン、あっちこっち掘ったくっとんなるバッテン、出土品から多くの史実が明らかになってきとるとゲナ。

 現在、金田城跡には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たに違いなか朝鮮半島方面の水平線ば臨むことができる。

 最近はトレッキングコースとしても人気のあるげなバッテン、歴史のロマンに思いば馳せるために、ぐるりぐるっと廻りよつたら、たっぷり2時間は汗ばかかないかん。

 地元では「かねだじょうし」なんて云わんでクサ、
「かねたのき」て全部訓読みしてしまう。始めて「かねたのき」て聞いたときは、これが金田城趾とはどげんしても繋がらんで往生こいた。

 この城山は対外防備の山城として、格好の条件ば備えとったもんやケン、中世から近世まで対馬の防衛の中枢として機能し、日露戦争の前、明治33年〜34年(1900〜1901)には、頂上付近に砲台と弾薬庫が築かれた、山頂までの道は軍道として使うため、こんとき広げたらしか。
 実戦では一発も撃たんで、捨てられてしもうた砲台跡は、陰気臭うして哀しか。

上・ここが城山の登山口。左へ行けば直接山頂へ。右に行くと三の城戸、二の城戸、ビングシ山、一の城戸て、反時計回りに一周する歴史探訪のコースになっとる。

右・城山の南東は大きな陥没によってできた入り江で黒瀬湾。そうタイ。黒瀬の人々は、防人の子孫ていう言い伝えがある。

 写真左は、黒瀬湾の入口で、金田城ば守っとるような大吉戸(おおきど)神社の鳥居。岸壁と石段ば持つ船着き場があって、荷揚げ場やったごたる。ここから城山に上がっていくと一ノ城戸の北側に出る。
 
大吉戸神社いうたら、寛平5年(893) 宇多天皇が、源能有・藤原時平・菅原道真・大蔵善行・三統理平にいうて編纂ば命じなった平安時代の歴史書「日本三代実録」にも載っとるぐらい古か神社ゲナ。

 
右は、城山のトイメンにある鋸割岩。水面から高さ40mば超える巨大な石英斑岩。ほぼ垂直に立ち上がっとって迫力満点。直下の水深も40mあり、特に水色が深か。

                    対馬の名山「州藻 白嶽」(すも しらたけ) 519m
 
白嶽は双耳峰。西峰が雄岳で登山可能。山頂のテラスから雌岳を中心に、浅芽湾のパノラマ。左が湾口。右に空港の滑走路がかすかに見えとる。右端は対馬海峡。金田城跡のある城山は、どうも雌岳に隠れとるごたる。

 金田城趾ば取材した日は、1便で対馬へ飛んで、まず九州百名山の「白嶽(519m)」に登り、ついでにと思うて欲張ってクサ、城山さい足ば伸ばしたっちゃが、そん時はもう3時やった。それから歩き出したもんの、1周するとの長か長か。登ったり下ったりして、最後の山頂へ急登するときは、もう足が悲鳴ばあげよった。

 薄暗うなった山頂の砲台跡までかろうじて撮し、走るごと下りてきたとバッテン、登山口に着いたとは5時ばかなり過ぎとった。初めて泊まる民宿ば探しよったら、とうとう日が暮れてしもうた。

 
筑紫の 水城大野城 、佐賀の 基肄城 。菊池の 鞠智城 と、この4本は朝鮮式山城シリーズやケン、セットで読んでつかあさいや。

 場所・長崎県対馬市。対馬空港から国道382号線ば約2km南下。鶏知(けち)の信号ば県道24号線へ右折する。西へ約6kmで右手に「城山入口」の案内板があるケン、右折。離合もでけんごたる山道ばごねごねと3kmで登山口に着く。フェリーで厳原からやったら、国道382号線ば約9km北上。鶏知の信号で左折する。  取材日 2008.10.15

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