なんで水城(みずき)ていうとか、て云えば、土塁と外濠からなっとって、土塁は全長約1.2km、底の巾が約80m、高さ13mで、両端部の一部ば除いて、ほぼすべてが人工の盛土で造られとった。
堤の構築にあたっては、版築(はんちく)と敷粗朶(しきそだ)ていう工法が採られとって、版築いうたら、少しずつ粘土や砂などば交互に敷き詰めて、棒状の叩き道具で突き固めながら盛っていく工法でクサ、急な傾斜にも耐える強か堤ば盛ることがでけるタイ。
敷粗朶いうとは、土塁の下の軟弱な地盤のところに、植物の葉や枝ば敷き詰めといて透水性ば高め、基礎の滑りば押さえる工法ていう訳タイ。ともに、当時の朝鮮半島の最先端の技術やったげなケン、多分、百済から連れてきた、いうか、逃げてきた技術者集団が指導して造ったに違いなか。
そしてその堤の北(博多湾側)には、水ば張った幅60mもの濠があったケン、水の城で「水城」タイ。
右上から左下へ向かって延びる緑の帯が水城。
東門跡のそばには、大正天皇の大典を記念して、水城ば誇りに思う地元の青年会が建てた石碑があり、水城土塁の正確な実測結果が刻んである。写真・上
その一方で西門のほうは、発掘調査の結果、7世紀代は、瓦も葺かれとらん掘立柱式の門柱2本で扉ば支える冠木門があって、非常に軍事的な造りやったとい、8世紀以降になると、瓦葺きで八脚の礎石門になり、軍事的な機能よりも、外国使節ば迎かえる大宰府の表玄関としての機能が重視されていったて考えられとるとゲナ。
上・この尾根が水城から大城山に連なっとって展望所がある。下・最近国道沿いに新設された駐車場。
伝説
「ひともっこやま」と「父子嶋(ててこじま)」
むかし、水城跡の博多側・東門の付近には「ひともっこやま」西門の付近には「父子嶋」てよばれる小高い丘があったらしか。
いまは消滅してしもうとるバッテン、ここにはまったく同んなじごたあ伝説が残されとる。
その伝説とは、水城ば築造するとに狩り出された近くの農民たち(父子嶋の場合は父子)が、水城の土塁ば盛るために、もっこに土ば入れてクサ、くる日もくる日も運ばされとった。
ある日の夕方、あと少しで水城にたどり着くところまで来たバッテン、疲れで腰も立たんごとなっとったら、水城が完成したいう歓声ば聞いたもんやケン、からだ中の力が抜けてしもうてクサ、その場にもっこの土ば投げ出したまま、へたり込んでしもうたゲナ。
その土が、土まんじゅうのごと盛り上がって、小高い丘になったていうことタイ。
上左・水城のど真ん中ば九州自動車道と国道3号線が、ぶった斬ったごとして走る。
上右・堤の上は一直線の桜並木になっとって、格好の散歩道。緑の部分は、また一段と高い土塁になっとる。
下・東門跡から旧国道3号線越しに見た水城の南側。木製の水路跡などが発掘されとる。ウオーカーが多い。
大野城市
大野城跡と水城跡のある大野城市は、これらがあるケン、市の名前も大野城タイ。むかしから、博多(那の津)と大宰府ば結ぶ交通の要地として繁栄してきた。
明治22年の村制施行で大野村が誕生したときの人口は、3,855人やったゲナ。その後、昭和25年に町制ば施行して大野町になり、このころから福岡市のベッドタウンとして人口の流入が始まった。この傾向は昭和30年代の後半からさらに強まってクサ、人口の急増が続いたていう。
昭和47年4月には市制ば施行し、平成14年4月には市制30周年を迎えたいうケン、もうそろそろ40周年タイ。
平成21年1月の人口は、約94,200人にも達しとる。
大野城市役所の新館3階には、大野城市歴史資料室いうとがあって、大野城跡のことについての資料が展示されとる。タダやケン、興味があったら行ってみんね。
仲島遺跡から日本で初めて出土した「貨布」(写真・右下)やら、奈良時代後半(約1200年前)の土器で、墨で人の顔が描かれとる人面墨書土器(写真・左下)。
西暦239年に邪馬台国女王卑弥呼が、魏国皇帝から賜わったていう銅鏡百枚のうちの一枚かもしれん、ていう。直径21.9cmの「三角縁神獣鏡」など珍しかもんが並んどる。
小水城
太宰府市と大野城市にまたがっとる水城跡の西側には、牛頸山から延びるいくつもの尾根の間に小さい谷があって、その谷ば塞ぐごと小規模な防塁、通称「小水城」ていうとが残っとる。
この小水城は、水城跡と同じく西暦664年に築造されたものと推測されとって、これも大宰府防衛の一郭ば担うもんやった。 現在、土塁が現存する小水城には、春日市の大土居水城と天神山水城、大野城市の上大利水城がある。
これらも全て、水城跡とともに特別史跡に指定されとると。
春日市昇町の大土居(おおどい)水城は、土塁の推定高さ約8m、基底部の推定幅は約40mで、水城大堤と同じく版築により土が積まれとったらしか。
水城跡の西方約3.8kmの場所にある春日市の天神山水城や水城に一番近か上大利(かみおおり)水城も、大土居水城同様、土塁が比較的はっきりと残されとる小水城ていう。とくに上大利土塁は、昭和54年(1979)の発掘調査で、土塁下から、盛土の土留めとして、木の杭ば打ち込んだ形跡があったとゲナ。
右上、水城は大城山から牛頸山まで繋がっとるバッテン、ここらに西門の跡があった。
右下・ここは今、土塁が切り通されてJR鹿児島本線が、ひっきりなしに走っとる。土塁の北は南福岡自動車学校。土盛りの上も土手の両側もよか散歩道で、犬に引っぱられて歩きよる人の多か。
上・大土居の水城跡。国道505号線にちょん切られとるバッテン、ここに水城があった。
下・天神山の水城跡は、古墳の跡でもある。春日のこのあたり古墳が多かとは「奴国」のせいかも知れん。