もっと詳しくいえば、百済からの「助けてつかあさい」ていうSOSに、大和朝廷は、天智2年(663)大援軍ば送り込んだっちゃが、白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍から、反対にヒチャガチャやられてしもうた。
這々の体で帰った後、こんどは日本本土ば攻められるとの怖さに、その翌年、大宰府防衛のために構築された山城のひとつが四王寺山の大野城やった。
こんとき同時に、
基肄城
(基山)・
金田城
(対馬)・
御所ケ岳
(みやこ市)・
鞠智城
(菊池市)やらも造られとるケン、それくらい新羅の侵攻には神経ば尖らせとった。
大野城の土塁の各所には、石垣が築かれとった跡がある。
北石垣・小石垣・大石垣・水の手石垣などがあり、中でも百間石垣は延長約180mで、大野城の中でも最も規模の大きか石垣ていうことになっとる。
百間石垣は、四王寺川ば塞ぐごと流路とほぼ直交に構築されとったらしく、発掘調査の結果、基底部の幅約9m、高さは最も良好に残っとる部分で約8m、花崗岩の自然石ば積み上げて造られとった。
壁面の傾斜が74〜76度もある堂々たるもんで、宇美から入ってくると車道から見ることがでける。
左・百間石垣は宇美からの道(宇美口)に沿うように東向きに築かれとった。
下・南から見上げると10m以上の高さには、かなりの威圧感がある。
また、百間石垣の四王寺川のそばには、現在道路が通っとるバッテン、その場所からは、昭和34年(1959)と昭和48年(1973)に、門礎3個が発見されとって、この場所に当時城門が築かれとったことが証明されとる。
こげなもんば誰が造ったかていうことやが、「造れ」云うたとは大和朝廷としても、実際工事に当たったとは、百済から亡命してきとったか、拉致されてきとったか知らんバッテン、百済人の技術系集団やったていわれとる。
土塁やら石垣に囲まれた城内へは、山城の各所にある城門から入るごとなっとった。いま、城門跡は、坂本口・水城口・太宰府口・宇美口(百間石垣)など7箇所が確認されとるバッテン、今後もさらに発見されていくかもしれんゲナ。
左地図・北を守って百間石垣・北石垣・小石垣が並ぶ。南を守った大石垣は大雨で崩壊して目下大修理中。
西の端が大城山で、その天辺に毘沙門天が祀られとる。東の端の大原山が標高は一番高っか。
下・石垣ば結んで連なる土塁が、山全体ばぐるりぐりっと取り囲んどる。
大野城跡では、現在城内と城外ば結ぶ城門が7カ所見つかっとるけど、現在最も遺構がしっかり残っとるとは、太宰府口城門(太宰府市)で、この城門は発掘調査の結果、初めは掘立柱形式の城門で、その柱穴からは、良好な状態でヒノキの柱根が検出されたとゲナ。
年輪年代法ていう分析の結果、西暦628+ ? 年ていう答えが出とって、日本書紀の記述にピシャリ合うことが分かたとゲナ。1400年も前のことが分かるなんて、科学の力ちゃ恐ろしかもんバイ。
いまは門柱の礎石ば残すのみバッテン、発掘調査によると2回建て替えられとったらしか。門の西側の谷間は、なしか石塁で塞がれとった。
主城原礎石群(しゅじょうばる)
大野城では、約70棟あまりもの礎石建物群が見つかっとるとバッテン、それらは城内各所7つの群に分かれてある。
なかでも主城原地区の礎石群は最も大規模なもんで、発掘調査によると19棟もの礎石があったていう。
通常、大野城内の建物は総柱式のもので、倉庫のような機能ば果たしとった建物バッテン、主城原にあったとは、掘立柱式じゃなか高級な建物やったらしく、ここは大野城の管理中枢やったて考えられとる。
名前の通り「司令官」がおんなったとこやろう。
増長天礎石群(ぞうちょうてん)
大野城跡の中では最も南側に位置する建物群で、現在は柱ば建てとった礎石だけが残っとるだけバッテン、礎石ば見れば、4棟の建物が向きば揃えて整然と並んどったとがよう分かる。
その規模は約10メートル×6メートルで、倉庫として使用されとったて考えられとる。
建物群のぐるりには、土塁が分 かりやすか状態で巡らされとった。
上・国分寺口城門跡
右2枚・城門の間をつなぐ急な斜面と土塁。
鏡池とけいさしの井戸跡
鏡池は、増長天礎石群のすぐそばにあって、円形の大きなくぼ地に水が湧き出しとる。平成6年(1994)に福岡県ば襲うた大渇水のときも、この小さな池が枯れることはなかったとゲナ。
鏡池には雨乞いにまつわる伝説がある。
日照りが続くとき、この池の底に沈んどる鏡ば取り出して祈ったら、雨が降ってきたとか、また、池の中に鏡ば投げ込んで雨乞いばしたら、途端に雨が降り出したとか・・・・。
「けいさしの井戸」は、くぼ地の中に、円形に石組みされた直径50〜60センチメートルの井戸があり、今でも底に水ばたたえとる。名前の由来は分からんバッテン、警備とか偵察じゃなかったとやろうか。
山城の場合、城内の水は決定的に貴重なもんやったろう。
四王寺山の名前の由来はクサ、奈良時代に立てられた「四王院」に由来するとゲナ。
四王院いうとは、宝亀5年(774)に疫病が大流行したもんやケン、創建された寺やった。丈六の四天王が祀られとったゲナ。
歩いてみれば分かるバッテン、大野城の土塁線上には、四天王の毘沙門天、広目天、増長天、持国天て呼ばれる地域がある。
それぞれの地域から礎石建物や井戸などが見つかっとって、四王院との関連があるごたるけど、ほんなことは、誰も見とらんケン、謎に包まれたまんまタイ。
その四王院の跡地の一つ、山頂にある「毘沙門」には、現在、毘沙門天ば祀る御堂があって、古代の四王院とは関係はなかろうけど、毘沙門天が祀られとんなる。
そして、この毘沙門天では、毎年1月3日に、その年1年の幸運ば祈る「毘沙門天詣り」ていう行事が行われとって、これは宇美町の無形民俗文化財に指定されとるとゲナ。
毘沙門天詣りには、面白か風習があって、毘沙門天詣りの日に毘沙門天からお金ば借り、その翌年に2倍にして返せば、お金に困らず金運に恵まれるというものらしか。
毘沙門天は四天王のひとり、多聞天の別名で、北の方ば守る神ていわれとる。後には、ちゃっかり七福神に名ば連ねとんなって、財宝ば守るいうて人気の神様バッテン、この祭りの毘沙門天にかぎっては、貸した金ば1年で倍にして返せなんて、サラ金・ヤミ金も顔負けの高利貸しいうことになる。
大野山城がでけてから、大野山は大城山(おおきやま)て呼ばれとった。
太宰府政庁に下ってきた役人には、京都の有名な歌人たちが多かったケン、このへんは筑紫万葉時代の舞台でもあったていわれとる。
神亀3年(726) 筑前守として西下した歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌碑が、筑前国分寺の南側、国分天満宮の境内に建っとる。
「大野山 霧立ち渡るわが嘆く 息嘯(おきそ)の風に 霧たちわたる」
意味は「大野山(四王寺山)に霧が一面に立ち渡っとる。こらあ私の嘆く、嘆きの息によって一面に霧が立ち渡っとるとタイ」ていうこと。
大宰帥(だざいのそつ)大伴旅人は、着任間もない神亀5年(728)に、愛妻の大伴郎女(おおとものいらつめ)ば病のために亡くしてしもうた。
その旅人の悲しみに、筑前守として近くにおった山上憶良は、有名な「日本挽歌一首」ていう長歌と、それに続く反歌5首の長大な哀悼文ば贈って慰めたていう。この歌碑の歌は、その反歌のひとつやった。
今回は四王寺山ば、大野城跡として取りあげたバッテン、四王寺山にはこのほかにも歴史が山のごと(山やケン、当たり前)詰まっとる。
真ん中の岩屋山には、悲運の将・高橋紹連の岩屋城跡があるし、焼き米ケ原には、疫病退散の祈祷ばして、天然痘ば治めた筑前琵琶の開祖・玄清法印の墓がある。
東の大原山にかけては、33観音の石仏群が多く祀ってあるケン、1日かけての石仏巡りも面白か。
左・尾花礎石群は、炭化した米が出土した「焼き米(やきまいがはら)ケ原」のそばにある。
平成15年7月19日未明、太宰府地方は時間降水量99mmていう観測史上最大の豪雨に見舞われた。
山は崩れ、御笠川は決壊。その被害は甚大なもんやった。特に四王寺山と大野城跡の被害はすさまじく、山中の崩壊箇所はゆうに500箇所ば越えた。
一番被害ば受けたとは、百間石垣に次ぐ大きな遺跡の大石垣で、長さ約64m、高さ約8mば誇っとった石垣がクサ、たったの一晩で跡形も無く流れ去ってしもうたていう。
関係各市町では、平成16年度から5ヶ年計画で、大野城跡の修復に乗り出し、16年度は太宰府口城門跡と尾花・原地区の土塁ば修復。いま、大石垣の修復工事に取りかかっとんなる。
そやケン、いま(2009年3月現在)行っても大石垣は、立ち入り禁止で見ることはでけん。