このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
三崎公園
〜曽良随行日記碑〜
にかほ市象潟町小砂川字三崎に三崎公園がある。
三崎旧街道に「曽良随行日記碑」があった。
十六日 吹浦を立。番所を過ると雨降出る。一リ、女鹿。是より難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入には不入手形。塩越迄三リ。
「曽良随行日記」より
平成元年(1989年)8月1日、象潟町建立。
建立趣意
松尾芭蕉が奥の細道の旅をして元禄2年(1689年)の6月16日(新暦8月1日)芭蕉と曽良が
吹浦
を立ち午前中に三崎に入り昼過ぎ塩越に着く
こゝ三崎公園には芭蕉と曽良が実際に往来した三崎旧街道が現存し歴史的貴重な史跡となっている
芭蕉行脚300年を記念してゆかりの地三崎に曽良随行日記碑を建立する
三崎山旧街道
三崎山街道は、昔酒田より秋田に通る街道で大難所と称され、15世紀末日本海側の唯一無二の旧街道として道路変遷史上に重要な役割を果した。
この小路に築かれた一里塚(30M先)も交通史上高い価値をもつものである。
にかほ市教育委員会
史跡
一里塚の跡
一里塚跡
一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府が旅人たちの目印として、日本橋を起点に一里(4km)ごとに設置した塚(土盛り)です。
一里塚には榎(エノキ)などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。
三崎山旧街道のこの一里塚にも榎が植えられており、往時を伝える貴重な史跡です。
にかほ市教育委員会
大師堂
大師堂(三崎神社)は古木鬱蒼としたタブの林の中にある。貞観年中今から1200年前
慈覚大師
姓は壬生名は円仁の草庵を結ばれた所であって、当時この境内には23の寺院もあったとのことである。
大師は、承和2年請益還学生として支那に渡り、仏教学、梵学等を究めて同14年に帰国し、後天台宗の第2の座主となった。
大師の開山、中興に関わるもの全国に沢山あるが中でも
日光
、
平泉
、
恐山
、
山寺
及び三崎などはその重なるものである。
大師は独り仏教を広めたばかりでなく、到る所に殖産、興業を起し、道路を開き、交通の便を計るなど、ここ三崎の難所の大師堂も、大師がこの地の開発に力を用いた一端とも見るべきである。
遊佐町
羽後三埼灯台
元禄5年(1692年)、
各務支考
は
伊東不玉
、
図司呂丸
と共に大師崎を越えて象潟に遊ぶ。
大師崎
白波のたゝみあげしや雲の峯
清風
喜三太に涼しがらせん大師崎
支考
八熊やところどころの下もみぢ
呂丸
粟崎や雲と若葉のあはひより
不玉
『継尾集』
展望台から見下ろす。
新奥の細道
三崎峠からウヤムヤの関を訪ねる道
芭蕉が歩いた当時の街道を下ると日本海の荒波で削られた海岸に出る。小砂川の町道に出て真っ直ぐいくと小砂川海水浴場や樹齢50年をこす黒松や、溶岩のおりなす奇岩怪石の海岸美が目につく。更に峠の茶屋を過ぎると長い砂浜と
象潟
の先端が岬となった絵のような風景に出会う。先釜から砂浜に出て奈曽川手前から奥の細道でウヤムヤの関として知られる関村に入る。
嘉永5年(1852)閏2月23日、吉田松陰は福良を出て「武也武也關」を越える。
二十三日 晴。驛を出づれば關あり。女鹿に至る、又關あり。共に庄内侯の置く所なり。關を過ぎ山に登る、石路ガン
(※「石」+「含」)
ガ
(※「石」+「牙」)
、是れを武也武也關と爲す。乃ち鳥海山の脚を海濱に伸せるもの。關にて飛島を望めば甚だ近し。
『東北遊日記』
にかほ市象潟町関に「ウヤムヤノ関」という地名だけが残っていた。
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