このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
春も漸けしきとゝのふ月とむめ
大分市八幡に柞原八幡宮がある。
柞原八幡宮の石段
石段を上ると右手に「ほるとのき」がある。
大分市の名木
この木は、享禄から天文のころ、豊後国主大友宗麟が盛んに外船を引き、神宮寺浦(今の春日浦)において外国貿易を営んだ際、ポルトガル人が持って来て移植をしたものなので、その名をとって樹の名前にしたと言う。
石段の左手に芭蕉の句碑があった。
春も漸けしきとゝのふ月とむめ
出典は
『薦獅子集』
(巴水編)。
元禄6年(1693年)1月20日、
深川芭蕉庵
から大垣の
木因
に宛てた書簡にある。
被陰に「
明治廿一年戊子夏 清風舎乙人書
」とある。
カンタンの花月旅館(もと貸席花月楼)の中庭に、この芭蕉句碑が建っている。裏面には「明治二十一年戊子夏清風舎乙人書」とある。カンタン港完成を祝って三塚清三(俳号乙人)が建立したものである。
カンタン港(大分港)が完成したのは明治十七年。「大分の町の振興は港の整備が根元だ」と大分町各界の有志が発起人となり、築港会所を設けて、さんざん苦労をしたあげく完成に導いたのだが、この築港会所の頭取となって、完成に最も精魂を傾けたのが三塚清三だった。
清三は京町で代々呉服商を営んできた資産家で、大分の発展のため多くの貢献をしており、大分市発展史にはその名を落とせない人だ。
しかしこの人は俳人乙人の名の方が通っている。
花月の庭の芭蕉句碑は、築港完成の喜びのあまり建碑を思いたったもので、「春も漸
(やや)
けしきととのふ…」の句をかりて、港の形態の整備されてきた姿に感慨をこめたのだろう。建碑は埋め立て地の中央を選んだものらしいが、遊廓街の発展につれて、句碑の位置が貸席の中庭となってしまったのである。
『大分今昔』(渡辺克己)
花月旅館は花月アパートに姿を変え、芭蕉の句碑は水江太一邸に移された。
昭和31年(1956年)11月、水江太一氏は株式会社
水江商店
初代の代表取締役社長に就任する。
昭和59年(1984年)1月、代表取締役会長に就任。
平成19年(2007年)春、芭蕉の句碑を柞原八幡宮に奉納。
「貸席花月楼」も「芭蕉の句碑」も、それぞれに歴史があるものだ。
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