このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芭蕉の句碑


いさゝらは雪見に轉ふところまて

大洲市大洲に市民会館がある。


市民会館の右手に芭蕉の句碑があった。


いさゝらは雪見に轉ふところまて

出典は 『花摘』 (其角著)。

 貞亨4年(1687年)、 『笈の小文』 の旅の途中、名古屋の夕道邸で詠まれた句である。

夕道は名古屋の書肆風月堂主人。通称孫助。

この碑は大洲の文学碑中最古のもので、宝暦4年(1754年)に大洲の俳人梅嶺が杣木の旧太子堂境内に建てた芭蕉翁の碑である。1世紀を経ったのち安政4年(1857年)肱川社中の俳人らによって同地に再建したものであるが、位置はその後二転三転して昭和60年ここに移されたものである。

住昔自義仲寺齋来 宝暦癸未 太子堂 安政四年丁巳肱川社中再建之

「住昔」は「往昔」、「齋来」は「齎来」であろう。

「宝暦癸未」は宝暦13年(1763年)。

『諸国翁墳記』 に「雪見塚 与州大洲アリ 梅嶺建」とある。

翁 塚 大洲城下ニ有、則芭蕉翁の碑也、宝暦甲戊年成ル、名付て雪見塚といふ、

 銘ニ

いささらハ雪見にころふ所まて
   梅嶺建

翁の伝略す、本廟ハ江州粟津 義仲寺 にあり、其後諸国ニ信仰してその遺骸をわけ、或ハ杖笠の類またハ筆跡なとを埋て碑を立、翁の霊跡を残す、則その一なり、

『大洲随筆』(大伴享編)

「宝暦甲戊」は「宝暦甲戌」であろう。宝暦4年(1754年)。

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