このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
物いへは唇寒し秋のかせ
昭和村森下にさつき食堂がある。
さつき食堂の庭の植え込みに芭蕉の句碑があった。
物いへは唇寒し秋のかせ
出典は
『芭蕉庵小文庫』
(史邦編)。
貞亨元年から元禄年間の句。
『蕉翁句集』
(土芳編)は「元禄四未ノとし」とする。
利根郡久呂保村沼田往還継立場森下宿の路傍にあったものといわれているそうだ。
鵞友建立。乙満書。
乙満は後の
藍沢無満
。
もう1つ芭蕉の句碑があった。
旅人と我名呼れんはつ時雨
出典は
『笈の小文』
。
貞亨4年(1687年)10月25日、芭蕉は亡父三十三回忌の法要に参列するために江戸深川を出発する。10月11日、
其角亭
で送別句会で詠まれた句。
文化9年(1812年)、久呂保山人建立。
『はせをつか』
(楓幻亜編)に収録されている。
利根郡に2基あるうちの一つが久呂保村森下の沢浦孝久氏方で築山の石になっているが、4尺2寸に1尺8寸の自然石で高吟の右側に細字でくどくどと謡曲張りの長文句は、貞亨4年の『続虚栗』にせんべつ会での吟と前書があるだけだから、文化9年に建立者久呂保山人某が自己宣伝に付加したものであろう。古文献通り同村三ツ谷天神社旧地にでもあればとも角、ところを得ていないため折角の好碑が少しも引立たない。
『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著)
昭和33年(1958年)11月、久呂保村と糸之瀬村が合併して昭和村が誕生。
芭蕉の句碑
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