このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

長建寺〜碑巡り〜
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一草庵 から長建寺へ歩く。

長建寺山門


単立の寺である。

山門に大島梅屋の句碑があった。


子規子選
壓巻
 門前に野菊咲きけり長建寺

碑陰に「松風会に於ける子規の選句ならびに書」とある。

大島梅屋(明治2年(1869)−昭和6年(1931年)

 梅屋は松山市生まれ。松山市立松山高等小学校教員。 愚陀仏庵 南隣に住み、同庵に漱石と同居とていた子規に教えを受けに日参した松風会員の一人。

 明治28年(1895年)10月上旬の『松風会稿抜草』(子規選)では、この句が「圧巻」と朱書きされて、その子規の文字のままでこの句碑が建立されている。昭和36年春建立。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

山門を入ると、左手に高橋一洵の句碑があった。


母と行くこの細徑のたんぽゝの花

 高橋一洵先生は松山に生まれ、大正14年早大卒業後、33年間松山商大に教鞭をとり、古代印度の宗教社会政治の研究・聖徳太子・一遍上人の讃仰等多数の論文を発表す。佛教の実践 名講演は青年と大衆の心を打つ。俳人山頭火を敬愛し、その最後を見守る。昭和33年1月26日歿。山翁と共に59歳なりき。

 昭和十四年十月、山頭火は松山に来て、一洵に会い、以後、道後温泉に近い 一草庵 に定住、一洵とそのまわりの人々との往来は、山頭火の生涯にとって第一の楽園だった。

 赤貧洗うが如き一洵の天衣無縫の姿をこの地上に残したいと、一洵句碑建立を発願し、多数の人々の声援を得て、「母と行くこの細径のたんぽゝの花」の句碑を建立。

 この句碑と対面して、真友山頭火の句碑「もりもりもりあがる雲へあゆむ」を建立して妙好人一洵と自然児山頭火の歓喜遊戯の姿を地上に再現したのであった。昭和五十一年一月二十六日建立。二人共に五十九歳で没したのであった。

『山頭火句碑集』

右手には 種田山頭火の句碑 があった。


もりもりもりあかる雲へあゆむ

 山頭火の句は昭和15年の俳誌「層雲」12月号に発表された最晩年の句。

 母と行く——の句は、句碑建立の中心となった今治市の篤志家の所持する画帳の中の一洵自筆の文字の拡大したものである。

山頭火は天下の自然児、一洵は天衣無縫の妙好人。昭和14年10月、この二人は松山でたちまちに肝胆相照らし、一洵は山頭火の最期を温かく見守った。

 その二人の句が、ここで向かい合っているのである。共に昭和51年1月26日の建立。この日は一洵の一九回忌に当たる。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

 『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、17番目の山頭火句碑である。

山頭火の句碑の奥に庭園がある。


庭園の手前に 子規の句碑 があった。


筆に声あり霰の竹を打つごとし

 明治31年(1898年)の句。

『子規全集』(第三巻) 「俳句稿」 (冬 天文)に「新聞ノ一」として所収。

庭園の奥に芭蕉の句碑があった。


よくみれば薺花さくかきねかな

出典は 『続虚栗』

貞亨3年(1686年)、芭蕉44歳の時の句。

薺は春の七草のひとつ。ペンペン草のこと。

 貞亨3、4年(1686、7年)ごろ江戸深川での作。ナズナの花はほとんど人の目につかないかき根などにつつましく咲くものである。その目立たないナズナの花を見つけた驚きと喜びとを素直に表現している。その驚きの心には深い愛情があって、おのずからわき出したものであろう。初五「よくみれば」に千鈞の重みがある。建碑年は不詳。

松山市教育委員会

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