このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

平和通り〜句碑巡り〜
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 松山市の平和通りには「松山城」や城下周辺に縁のある句が選ばれ、句碑が整備されている。

まず、上一万から平和通り南側を西へ歩いてみる。

正岡子規の句碑 が9基続く。



杉谷や有明映る梅の花

『寒山落木 巻五』 (明治二十九年 春)に収録の句。



杉谷や山三方にほととぎす

『寒山落木 巻一』(明治二十五年 夏)に収録の句。



天狗泣き天狗笑ふや秋の風

『寒山落木 巻一』(明治二十五年 秋)に収録の句。「御幸寺山」とある。

 御幸寺山(みきじさん)は松山市街の北部にある標高164.6mの山。昔からこの山には天狗が住むという言い伝えが残り、古来から人々の恐れる山だったそうだ。



餅を搗く音やお城の山かつら

『寒山落木 巻五』(明治二十九年 冬)に収録の句。



草の花少しありけば道後なり

 明治28年9月20日、子規は漱石の 愚陀佛庵 で療養していたが、いつになく体調がよく、この日はじめて散歩に出た。秋風がここちよかったという。友人の柳原極堂が一緒だった。「散策集」より。



四方に秋の山をめぐらす城下哉

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 秋)に収録の句。



杖によりて町を出づれハ稲の花

 明治28年9月20日。愚陀佛庵で療養していた子規は、いつになく心地がよかったので来合わせた 柳原極堂 と俳句を作りに散策に出かけた。 「散策集」 142句中の最初の句。



秋の日の高石懸に落ちにけり

『寒山落木 巻四』(明治二十八年 秋)に収録の句。



山城の廓残りて穂麦哉

 明治27年夏の句。山城の廓は北の出城、北廓、高石懸ともいう。慶長7年(1602年)加藤嘉明が城の北側防衛のために築いた。一部が残っている。「寒山落木」より。

河東碧梧桐の句碑


門構へ小城下ながら足袋屋かな

  河東碧梧桐 (1873〜1937)明治38年12月冬の句。松山は十五万石の小城下である。城北方面は職人や商人の町でにぎわっていた。 「碧梧桐句集」 より。

 伊予鉄道高浜線古町駅まで行くと、正岡子規の「古町より外側に古し梅の花」の句碑があったようだが、 平和通り北側 を東へ戻る。



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