このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
今年の旅日記
今治城
〜藤堂高虎公〜
今治市通町の今治城へ。
御金櫓
今治城は
日本100名城
No79である。
鉄御門
(くろがねごもん)
に向かう。
堀(海水)
今治城は
高松城
、
中津城
と共に日本三大水城の一つ。
勘兵衛石
今治城で最大の石
城主の権威を示すために目立つ場所に据えられた巨石(鏡岩)で、今治城の入り口の正面にあります。
石の名前は、今治城の築城奉行と伝わる渡辺 勘兵衛に因んだもので、江戸時代には既に「勘兵衛石」と呼ばれていました。
鉄御門
藤堂高虎公
平成16年(2004年)9月、今治城築城・開町400年祭実行委員会・今治市建立。
藤堂高虎
公は、弘治2年(1556年)近江の国に生まれた。
羽柴秀長・豊臣秀吉などに仕えて
宇和島
・
大洲
8万石の大名となり、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦功によって、徳川家康から今治12万石を加増され 伊予半国20万3千石の領主となった。
今治城は、高虎公により慶長9年(1604年)に竣工を見た。三重の堀に海水を引き入れ、舟入りを持つ日本有数の海城である。五層の天守は層塔式で白漆喰が映え、近世城郭のモデルとされた。築城に合わせて城下に町割りを行い、地名を今張から今治に改め、現代の今治市の原型がつくられた。
築城の名人と称された高虎公は、多くの天下普請の城を築き、慶長13年(1608年)
伊勢
・
伊賀
に転封された。そして大坂の陣のあと、朝廷と幕府間の斡旋役を務めるなど徳川幕藩体制の基礎固めに大きく貢献し、寛永7年(1630年)75年の波乱の生涯を閉じた。築城400年に当たり、この像を建て、高虎公の業績を子々孫々まで伝えるものである。
像の制作は、文化功労者・日本芸術院会員の中村晋也先生、題字は、文化勲章受章者村上三島先生の揮毫による。
今治城と藤堂高虎公
五層の天守
今治城沿革
藤堂高虎公は慶長5年(1600年)
関ヶ原の合戦
に東軍徳川家康方の先鋒として戦功をたて伊予半国20万3千石を与えられた。当時諸大名中随一の築城の権威であった高虎公は内海において海陸の要衝である今治を城地と定め、渡邊勘兵衛を築城奉行に木山六之丞を普請方として慶長7年より間9年にかけて城壁高さ6間乃至8間を築き、本丸には五層の天守閣その他には櫓城門等20数棟を配し三重の城濠をめぐらして、それに海水を導入して、当時としては他に類例のない一大平城を構築した。また公は家康に新任され、慶長13年伊勢の
津
に国替え増封されたが、天守閣は公が家康から丹波
亀山
の築城を命ぜられた時、献じて亀山城に移築した。その後今治城は義子高吉が2万石で維持し、更に寛永12年(1635年)に伊勢長島より久松定房が入城し、後3万5千石で世々十代を経て明治維新となった。
現在の天守閣は昭和55年10月10日今治市制60周年記念として再建され往時の偉容を再現するに至った。
今治城跡は昭和28年10月9日愛媛県教育委員会から史跡として指定を受けている。
今治市教育委員会
天守から松山方面を望む
山里櫓
今年の旅日記
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください