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私の旅日記
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2012年
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石手寺
〜碑巡り〜
松山市石手の国道317号沿いに
石手寺
(HP)という寺がある。
天平元年(729年)創建、
行基
の開基と伝えられる。
真言宗豊山派
の寺である。
四国八十八箇所霊場
の第51番札所。
参道の入り口に
正岡子規の句碑
があった。
南無大師石手の寺よ稲の花
明治28年(1995年)9月20日、日清戦争から帰還療養中の子規が、友人
柳原極堂
とともに石手川に沿って石手寺を訪ねた。たんぼの稲の花もたわわなころの51番札所の石手寺での感懐。『散策集』中の句。
昭和13年(1938年)遍路橋ほとりに自筆を拡大して建て、後ここにうつした。
松山市教育委員会
俳句の里 道後コース14番
参道の右手に地蔵院がある。
地蔵院に
山頭火の句碑
があった。
うれしいこともかなしいことも草しげる
昭和9年(1934年)7月1日、小郡の「其中庵」で詠まれた句。『其中日記(六)』に収録。
仁王門
国宝だそうだ。
仁王門を入ると、左手に与謝野晶子の歌碑があった。
伊予の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つ煙かな
昭和6年(1931年)11月3日、
与謝野寛・晶子
夫妻は石手寺に参拝している。
伊豫の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つけむりかな
別るべき伊豫の港よ松山の古町
(こまち)
の雨にぬれつこぞこし
「緑階春雨」
昭和50年(1975年)11月、建立。
宝物館の手前にも子規の句碑があった。
身の上や御鬮を引けば秋の風
明治28年(1995年)9月20日、日清戦争から帰還、二番町の愚陀仏庵で夏目漱石と同居、療養中に子規が柳原極堂とともに石手寺を散策した時の句。その時拾った御くじは「24番凶 病は長引く也」とあり、「わが身にひしひしとあたりたるも不思議なり」と
『散策集』
に当日の感懐を記している。
松山市教育委員会
俳句の里 道後コース15番
『寒山落木』
(巻四)に収録。
石手寺
秋風や何堂彼堂彌勒堂
石手寺
護摩堂にさきこむ秋の日あし哉
『寒山落木』(巻四)
三重塔
高さ25m。
国指定の重要文化財である。
三重塔の裏に「祭芭蕉翁塚」があった。
祭芭蕉翁塚
(花入れ塚)
宇知与利テ波奈以礼佐久戻牟女津波几
(※「テ」は「氏」の下に「一」)
(打ち寄りて花入れ探れ梅椿)
出典は
『句兄弟』
。
松山藩主松平貞直の藩医青地彫棠が、元禄5年(1692年)12月20日(太陽暦2月25日)、芭蕉・其角・桃隣・黄山・銀杏を迎えて連句の会を催したとき、席上に梅椿いけてあるのを見て芭蕉の詠んだ発句である。「花器にいけた梅椿に春の訪れを探ろう」という意味の句で、これをこれを彫棠は門人の越智擲瓢
(てきひょう)
に伝え、その孫青梔
(せいし)
が明和7年(1770年)芭蕉没後77年に石手寺の境内に埋め「花入塚」を建てて、
同名の俳書
を刊行した。
松山市教育委員会
俳句の里 道後コース16番
『諸国翁墳記』
に「
花入塚 伊豫松山石手寺
ニ
在 鳳枝井連中建
」とある。
鳳枝井は青梔の父、鳳枝井麦邑。
宝暦13年(1763年)春、没。
庭木に埋もれて「芭蕉翁」の碑があった。
花入塚を清浄し二百回忌をいとなむ
本堂
国指定の重要文化財。
本尊は薬師如来。
大師堂
以前は
夏目漱石
や正岡子規等多くの名士が落書きして、一名落書堂とも言われていたそうだ。
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