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今年の旅日記
龍光院
〜芭蕉の句碑〜
宇和島市天神町に龍光院がある。
龍光院縁起
龍光院は、元和元年(1615年)伊達秀宗が初代藩主として宇和島へ御入部のみぎり、藩と領民の安泰図り
宇和島城
の鬼門に当たるこの地に鎮めとして建立されました。その際、寺領として百石を賜り、その後代々の藩主の信仰深く、伊達家の祈願所と定められました。寛永15年(1638年)京都大覚寺二品宮親王が龍光院にしばらく留錫遊ばされ、風光明媚を讃えて臨海山福壽寺の号を賜りました。
弘法大師が西国巡錫の際、都より遠く離れ文化の恩恵が少なきことを憂い霊場の開創を発願され、九島に鯨大師願成寺を建立されました。その後、当山に合わせ祀られ、四国霊場四十番奥之院、四国別格霊場第六番札所と定められ、南予の霊刹として信仰を集めています。
龍光院の石段
眼前に仰ぎ見る石段は、数にして111段なり。その数を鑑みるに108段は人間のもつ 煩悩の数にして、残る3段は三世をあらわす。
今を生きる人間にとって、三世は過去(先祖)・現在(自己)・未来(子孫)にあたる。
幸いにも我等は受け難き生命を既に享けておりおり、このかけがえのない生命から煩悩を一刻も速く覚醒する為に、この111の石段を踏み登り本堂に至って、大慈大悲の本尊と対面し祈りを籠め揺ぎ無い生命力
(いのち)
をいただくのである。
この石段こそはまさに、人生の修行にして、現世(此岸)より悟りの世界(彼岸)に至る道である。
顧みれば大正8年の昔、篤信の人々によって石積がなされ、敢えて111段に設定されしは、古人の人智の深さと仏への篤い思いが偲ばれるのである。
石段の途中に宇和島市最古の文学碑があった。
寶筐塔
市指定史跡
椎本芳室の寶篋塔
この寶筐塔は大坂の談林派俳諧の宗匠椎本芳室(寛文4年〜延享4年)の長寿と功績を賛四言六句の漢詩を刻した寿蔵(生前建立の墓)で延享3年に建立された。
建立者の谷脇恩竹は宇和島の商人で芳室の弟子であり芳室編の俳諧集「蓍
(めど)
の花」には句を附けている。
したがって俳諧の卑俗化、大衆化が進んでいた当時の都市の点者と地方の門人の親密な関係をこの寶筐塔は示したものと言える。
俳道大鈞
(諧道ノ大鈞ニシテ)
鴻烈存焉
(鴻烈焉ニ存ス)
鴻寿千鶴
(鴻寿ハ千鶴ニシテ)
行蔵万亀
(行蔵ハ万亀ナリ)
新文斯碑
(新タニ斯ノ碑ニ文シ)
眞遺後人
(眞ニ後人ニ遺ス)
(大意・芳室は俳諧の神であり功績は偉大、しかも長寿の生涯は千鶴万亀の如くめでたい。今、この碑を後世に残す)
また、寶筐塔は元来「寶筐印塔」と呼ばれ、40句の経を納める方法の塔を意味した。日本では江戸時代以降墓標として用い、基礎・塔身・笠・相輪からなるのが普通であり、この寶筐塔のように自然石のものは珍しい。
臨海山福寿寺龍光院
御本尊は十一面観世音菩薩。
高野山真言宗
の寺である。
本堂の右手に芭蕉の句碑があった。
父母能志き里に戀し雉子の聲
出典は
『笈の小文』
。
貞亨5年(1688年)春、芭蕉が
杜国
と高野山を訪れて詠んだ句。
〔碑陰〕
この高詠は吾祖翁高野にての吟にして、麓に碑あり。この寺も高野末派の寺なれば、依り処なきにあらずとて一東松雁献造し建立、こは永く翁の高徳を仰ぐとの意けらし。
弘化二年乙己夏素亭記
〔解説]
この句碑は弘化2年(1845)年に一東松雁が建立し、俳聖芭蕉を渇仰した旨を素享が記したものである。もちろん高野山と当寺は本末の関係ではあるが、蕉門の俳人
服部立芳
「芭蕉翁伝」によれば、「母ハ伊予国宇和島産桃地氏女云々」とあり、芭蕉の母は伊予宇和島の出身である。これにより門人達が祖翁と仰ぐ芭蕉と当地との深い縁にあることを前提に父母の句を建てた意図が読みとれるのである。
素亭なる人物は、静幽盧四代の宗匠であり、静幽盧とは蕉門十哲の一人其角の門人である半時庵
淡々
を初代とする宗匠の称で、二代魚亮は大阪の人であるが、三代以後八代迄つまり静山・素亭・雪鳳・魯丁・幽亭・雨亭は皆宇和島の人であった。
明治に入り、忘れ去られようとしていた蕉風をおこし「渋柿」を創刊した松根東洋城現在の主宰徳永山冬子もまた宇和島の人である。
時代はさかのぼるが寛文12年(1672年)の「大海集」や延宝7年(1679年)の「詞林全玉集」を編んだ先覚者桑折宗臣も宇和島の人であり、こうした俳句的土壌が古より脈々と当地に享け継がれていることを忘れてはならない。
「芭蕉忌や母は宇和島の人の由」
(小泉英)
宇和島城を望む。
真言宗
大覚寺派の寺である。
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