このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2013年

安国寺〜芭蕉翁柳墳〜
indexにもどる

北九州市小倉北区竪町に安国寺という寺がある。


安国寺本堂


安国寺

  曹洞宗 安国寺は、足利尊氏・直義兄弟の発願で全国に建てられた寺の一つで、豊前安国寺と伝えられています。

 当初、三本松(小倉北区古船場付近)にありましたが、慶長5年(1600年)細川忠興の 小倉城 築造の折、現在地に移りました。

 当寺の第27代住職・玉水俊コ(※「コ」=「交」+「虎」)は、旧陸軍第十二師団軍医部長として明治32年6月から約3年間、小倉に在住した 森鴎外 と親交を結び、彼の作品「二人の友」や「独身」にも「安国寺さん」の名で登場しています。

 庫裡の前には、元和8年(1622年)最上藩の内紛で細川家預かりとなった最上光直(墓碑には「捐舘 清雲院殿前甲州太守聖山壽賢大居士」と刻まれています)や寛文11年(1671年)伊達騒動に連座して小倉に配流中没した伊達宗興(事件の中心人物であった伊達宗勝の子。宗勝は伊達正宗の十男)、小倉藩の儒者篠原級長(しななが)(号は笠山)の墓があります。

 また、寺には木造松尾芭蕉翁像、柳墳、三世幾暁庵春波や四世文藻舎春渚の墓などがあります。これらは、いずれも小倉北区古船場にあった芭蕉門下ゆかりの寺、知鏡庵(昭和12年に知鏡寺と改称)から昭和36年に移設されたものです。

 芭蕉翁像は高さ25センチ程の坐像で、蕉門十哲の一人であった 森川許六 が芭蕉遺愛の桜を切って造ったものといわれ、宝暦年間(1751〜1764)の始めごろ、春波が九州行脚の折、笈(背に負う箱)におさめて持ってきたものです。

 柳墳は、文政のころ(1818〜1830)芭蕉の肉筆の短冊「八九間空で雨降る柳かな」や遺品などを埋めて建てた塚です。

北九州市教育委員会

芭蕉翁柳墳


『諸国翁墳記』 に「柳 塚 豊前小倉アリ 門人建」とある。

 左側面に「正徳二造立甲戌今年十九年」、碑陰に「再興寛延庚午冬十月十二日」とある。

正徳2年(1712年)、芭蕉の十九回忌に「柳塚」建立。

寛延3年(1750年)10月12日、「柳墳」再建。

「柳墳」の手前に「西華房・幾曉菴」と刻まれた碑があった。


碑陰に「享保十六年二月七日」とある。

西華房は 各務支考 。享保16年(1731年)2月7日、没。

幾曉菴は各務支考の門人三世幾暁庵 春波 。別号雲蝶。安楽坊。

 元文(1736−41)の初めから延享4年(1747年)まで11、2年の間、幾暁庵春波は九州一円を俳諧行脚。

芭蕉の句碑があった。


八九間空て雨ふる柳かな

元禄7年(1694年)春、芭蕉51歳。

『続猿蓑』 (沾圃編)巻頭の句である。

 天明7年(1787年)10月12日、 長月庵若翁 は柳塚を見ている。

爰に祖翁の塚あり。八九間の柳を霊とするよし。よりて柳塚と称すといへり

誹諧曇華嚢』

 昭和7年(1932年)4月24日、 種田山頭火 は芭蕉柳塚を見ている。

 四月廿四

日 夕方、そこらを散歩する、芭蕉柳塚といふのがあつた、折からの天神祭で、式三番叟を何十年ぶりかで見た、今夜はきつと少年の日の夢を見るだらう!

   ・晴れたり曇つたり籠の鳥

   曇り日、珠数をつなぐ


私の旅日記2013年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください