このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

虚子堂佛心寺〜碑巡り〜
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大宰府展示館の東側に仏心寺がある。

花鳥山佛心寺


勝手口のようである。

昭和30年(1955年)5月21日、 高浜虚子 は佛心寺を訪れている。

 靜雲和尚の花鳥山佛心寺に行く。そこに建ちたる虚子堂といふのを見る。

   虚子堂と名づけしことよ萩芒   立子

 帶塚も一見。この裏山は昔太宰府の時を打つ太鼓のあつたところであつて、それをなまつて今は月山といつてゐるさうである。

   帶塚は月山裾に明易き      虚子

 以上句碑、虚子堂、帶塚を見る事も一昨年來の宿題なりし。

「詫びの旅」

左手に高浜年尾の句碑があった。


冬耕の水城といへる野を急ぎ

高浜年尾は高浜虚子の長男。

昭和54年(1979年)10月26日、78歳で死去。

虚子堂佛心寺縁起

昭和24年ホトトギス同人で時宗の僧河野静雲は、此の月山の敷地を柳川の同人木下三丘子の嗣子木下潤氏から俳句の道場を建立せんものと提供されて、この地に庵を結んだ。

河野静雲の師である高浜虚子 は太宰府をこよなく愛し道場建立に尽力、多くの掛軸用の句を揮毫されて、その浄財と全俳人の貧者の一燈を捧げて、この寺を建立される。

高浜虚子により寺名は「花鳥山佛心寺」と名付けられ、又御堂を虚子堂とされた。

松尾芭蕉、 正岡子規 、高浜虚子との流れを汲む西日本唯一の俳句の道場であり、またホトトギス派の本山としてその名を留めている。

高浜虚子愛用の帯をこの地に埋め帯塚としており、俳人たちの崇敬を集めております。

星野立子の句碑


虚子堂と名つけしことよ萩芒

星野立子は高浜虚子の次女。星野吉人に嫁す。

昭和59年(1984年)、80才で歿。

稲畑汀子の句碑


あたゝかき旅の出逢ひとなりしこと

稲畑汀子は高浜年尾の次女。稲畑順三と結婚。

河野静雲の句碑


あかつきの清気真白の醉芙蓉

河野静雲の「病中吟」三句


スースーとめぐみの味や林檎汁
尚生きるよろこび胸に林檎汁
寒に堪え老妻(ばば)が手摺の林檎汁

河野静雲は時宗総本山 遊行寺 の執事を務める。

昭和49年(1974年)、86才で寂。

本堂の左手に 高浜虚子の句碑 があった。


帯塚は刻山裾に明易き

正面から写真は撮れない。

昭和34年(1959年)4月8日、虚子は85歳で没。

その奥に高木晴子の句碑があった。


刻惜み刻山裾の椎拾ふ

高木晴子は高浜虚子の五女。高木餅花と結婚。

平成12年(2000年)10月22日、85歳で死去。

皆、長寿である。

スズメバチに気をつけてと言われた。

 虚子翁の「わびの旅」には、

五月廿一日、汽車にて博多へ。

都府楼址の句碑 を見る。

天の川の下に天智天皇と臣虚子と   虚子

これも一昨年私の行くのを待って除幕するはずであつたもの。 観世音寺 も近く、花鳥山佛心寺もすぐそこにある。

とあった。俳僧静雲和尚の創建に成るその佛心寺の横に虚子堂が造営され、床には富永朝堂氏作木彫一尺四寸の虚子翁寿像が安置されて居る。鎌倉の虚子翁邸に在るものと同木同寸の一体である。尚、虚子堂の後ろの椎の林の中にはホトトギスや玉藻誌上にそのいきさつを書かれた虚子翁の古帯を埋めて、「帯塚」が建てられた。


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