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今年の旅日記
曩祖八幡宮
〜碑巡り〜
飯塚市宮町の旧長崎街道沿いの高台に曩祖八幡宮がある。
鳥居と石段
七五三の時季であった。
随神門
社記に曰く
神功皇后三韓より凱旋の砌大分にて論功行賞遊ばされし後鳳輦をこの地に駐めさせ給ふ
この地は清流を控へて一帶の沃野相連なり松杉森々巨樟空に聳えて幽邃なる淨域なりしかはここに齋壇を築きて曩祖及び天社國社の神靈を祀らせ給ひ戦捷を報告遊ばされしより此の社を曩祖の社と唱へ來り町名にも壇の上の名を存するは至れり
拝殿
御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・武内宿禰。
拝殿の右手に
高浜虚子の句碑
があった。
春深く稿を起さん心あり
昭和29年(1954年)4月29日に詠まれた句。
春深く稿を起さん心あり
四月十六日 句謡会。高木居。
『七百五十句』
昭和33年(1958年)4月27日、高浜虚子は曩祖八幡宮に参詣して斐川、年尾の句碑を見ている。
飯塚まで一時間強、自動車。斐川東道。八木山峠越。澤山の遍路に出合ふ。これを新四國といふさうである。菅笠を被り笈摺を著、遍路杖を突いた老若の男女が際限もなく現はれる。
山裾を來る遍路山下りて來る遍路
立子
古さとに似し山河かな遍路くる
同
わが郷里、伊豫松山在、
風早西の下
は私の當歳から八歳まで郷居した土地で、春先になると遍路が織るが如く家の前を通つた。それは本場の四國遍路であつたが、これは九州の新四國の遍路である。最前からこの福岡の山川人家のたゝずまひが郷里に似てゐると思つてゐた處に、この遍路の群の現はれて來たことはなつかしかつた。飯塚著。
曩祖八幡宮參詣。斐川、年尾の句碑を通りすがりに見、
北代邸
に入る。
なつかしき遍路のことをインタビウ
虚子
「關門トンネルを通る」
昭和34年(1959年)4月8日、虚子は85歳で没。
虚子の句碑の左に星野立子の句碑があった。
古さとに似し山河かな遍路くる
星野立子は高浜虚子の次女。
拝殿の右手に高浜年尾の句碑があった。
土器に浸みゆく神酒や初詣
高浜年尾は虚子の長男。
昭和32年(1957年)5月、飯塚ホトトギス会田中斐川建立。
昭和34年(1959年)、年尾は虚子の死により、『ホトトギス』の主宰を継承。
田中斐川の句碑があった。
人の行く侭に行きけり恵方道
田中斐川
(ひせん)
は本名保蔵。高浜虚子・年尾に師事。
明治20年(1887年)、田中斐川は飯塚に生まれる。
昭和32年(1957年)5月、飯塚ホトトギス俳句会・飯塚くくみ句会有志句碑建立。
昭和39年(1964年)、斐川没。
奥に桜木俊晃・登代子の句碑があった。
邪馬台はいづこ筑紫の秋深し
俊晃
火の国のこころ火と燃ゆ秋ざくら
登代子
明治27年(1894年)、桜木俊晃
(としあき)
は愛知県に生まれる。
昭和51年(1976年)、飯塚市で開かれた西日本俳句大会に参加。
昭和52年(1977年)11月5日、金本冬雲句碑建立。
昭和54年(1979年)、細木亡角星没後『獺祭』の主宰を引継ぐ。
平成2年(1990年)、俊晃
(しゅんこう)
没。
随神門の裏に河野静雲の句碑があった。
管鮑や花の盃とり交はし
河野静雲は福岡市出身の時宗の僧。
昭和24年(1949年)、大宰府に
花鳥山佛心寺
を創建。
随神門右手の石段に細木芒角星の句碑があった。
この土や桜咲く国わが住む国
吉田冬葉の句碑
蜩や雲を降りぬく杉の雨
左にもう1句刻まれていたが、よく読めなかった。
曩祖八幡宮の前に「
史蹟
飯塚宿宝月樓跡」があった。
飯塚の商人、古川直道の別荘。幕末の福岡の歌人大隈言道はここで嘉永2年(1849年)から10年間、飯塚の門弟達の指導をしました。歌人で勤皇家でもあった野村望東尼も訪れており、地域文化の中心地であった。
昭和46年(1971年)11月、飯塚文化連合会建立。
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