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今年の旅日記

西ノ下大師堂〜高浜虚子の句碑〜
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 松山市北条の県道179号湯山北条線(今治街道)沿いに西ノ下大師堂がある。


 大正6年(1917年)、 高浜虚子 は何十年振りに風早柳原西の下に遊ぶ。

此松の下に佇めば露の我

      大正六年十月十五日 帰省中風早柳原西の下に遊ぶ。風早西
      の下は、余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。家空しく大川
      の堤の大師堂のみ存す。其堂の傍に老松あり。


   鹿島 に遊ぶ。何十年振りなり

鹿を見ても恐ろしかりし昔かな

      十月十六日。鹿島に遊ぶ。何十年振りなり


西ノ下大師堂に 虚子の句碑 があった。


この松の下にたゝすめば露のわれ

道の辺に阿波のへんろの墓あはれ

昭和3年(1928年)10月、建立。

 昭和5年(1930年)10月25日、虚子は句碑の前を通り過ぎた。

 七時過ぎ、松山驛から乘車。酒井黙禪君今治まで見送つてくれる。風早の大師堂の大松の下に私の「此松のもとに佇めば露の我」の句碑が立つてをるのを未だ見たことがないので、見ようと思つたが、句の話をしてをるうちに通つてしまつた。氣がついた時にはすでに鹿島が目の前にあつた。腰折、惠良の諸山が見える。幼い頃、朝夕目にあつた山だ。

「旅だより」

昭和10年(1935年)4月25日、虚子は句碑を見ている。

道のべに阿波の遍路の墓あはれ

      昭和十年四月二十五日 風早西の下の句碑を見、鹿島に遊ぶ。
      松山、黙禅邸。松山ホトトギス会。

『五百句』

鹿の峰の狭き繩手や遍路行く

      四月二十五日、風早西の下に句碑を見、鹿島に遊ぶ。伊豫松山、黙
      禪邸、松山ホトトギス會。

『五百句時代』

 この句碑は愛媛県温泉郡河野村柳原西ノ下の大師堂脇老松の根方に建っている。昭和三年十月の建設で、高さ約十尺、幅厚さともに一尺三寸位の柱状自然石、素朴な茶褐色の山石の碑である。碑陰には「高浜虚子君嘗て其幼時を過せし我西の下の地を見んとて大正六年十月十五日帰省の序を此地に来り遊ぶ 今其時になれる句を乞ひ石に刻してこの松の下に建つ 干時昭和三年十月中浣」と記されて居る。

 虚子翁は明治七年二月二日、伊予松山長町の新丁(今の同市港町四丁目)に生れたが、翌年、親父池内庄四郎氏がこの西ノ下に郷居帰農することになったので、共にここに移り、数え年八歳の時までこの地に育った、忘れ難い西ノ下の風光や、幼い日の思い出については、「虚子自伝」の冒頭に語られて居るばかりでなく、しばしばホトトギス誌上などにも筆を執って居られる。


昭和30年(1955年)、「道の辺の」の句を追刻。

 「この松の下にたゝすめば露のわれ」は、「ホトトギス」大正6年12月号に発表した句で、兄の法事のために帰省したとき、懐かしい西ノ下を詠んだもの。この句碑は、虚子の句碑第1号。

 「道の辺に阿波のへんろの墓あはれ」は、昭和10年4月25日、虚子は四国遍路の途上で病没した遍路の墓があるこの西ノ下大師堂を訪れ、鹿島に遊んだ。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

「高浜虚子之像」があった。


 昭和15年(1940年)3月24日、虚子は西の下の旧居を訪れた。

   風早西ノ下、舊居のあと

こゝに又住まばやと思ふ春の暮

      三月二十四日。風早西ノ下、舊居のあとにて。


左側面に虚子の句が刻まれている。


ここにまた住まばやと思ふ春の暮

 昭和15年、父の五十年忌のために松山に帰省、旧居跡を訪ねたときの感慨を詠んだもので、句は「高浜虚子胸像」の基壇にはめ込まれた石板に刻まれている。句の後に「旧居の跡を訪ねて 七十六歳虚子」とある。胸像は、昭和62年3月に建立。

 なお、西ノ下大師堂の北にある近くの空き地に「虚子先生生家池内邸址」の碑が建てられている。

松山市教育委員会

『俳句の里 松山』

虚子の松


「昭和天皇御手植」だそうだ。

 昭和33年(1958年)、 中村草田男 は虚子の句碑のことを書いている。

 「西ノ下」の地は、松山市の北西端からなだらかな山ろくの街道をすすんで、バスで一時間余りの行程、北条という港町から約半里の手前にある。すでに海岸に程近く小さい島ではあるが、名前どおりの神社がそなわり、全島にシカの生息する麗しい鹿島の姿も指呼の間に存在する。虚子師の生家がその端に位していた畑中の四軒家は後年とりこぼたれてすでに跡をとどめないが、いくさごっこ鬼ごっこを初めとしての、幼童の遊びと、あらゆる年中行事の思い出の中心の場所であった大師堂とその傍の何百歳かを経た巨松とは、昔さながらのおもかげをひっそりと残している。そして、

   此松の下に佇めば露の我

の虚子師第一句碑は、この場所のこの巨樹の下を卜して、旧友等数人のねんごろな手によって建立されたのである。碑石は、付近を海へと向かって注いでいる川の川上、雄御(おんご)山のから切り出してきた自然石であるそうで、茶かっ色の高さ約十尺、幅厚さともに一尺余の柱状をなしている。

「高浜虚子——文学碑めぐり

 昭和44年(1969年)9月、 富安風生 は西の下を訪れている。

    西の下 。師の“この松の下”の句、“道の辺に阿波の遍路”の
   句、心にあれば

その松とその道のべの昼の虫

墓撫でて吾も俳諧の一遍

『米寿前』

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