このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


〜甲冑堂〜

国見町から国道4号で国見峠を越えると、宮城県。


馬牛沼を過ぎて旧道に入ると、田村神社がある。


祭神は 坂上田村麻呂

 桓武天皇の延暦年間、坂上田村麻呂が夷酋を討ち平らげた恩徳を慕い、祠を建てゝまつったと言う。

昭和3年(1928年)7月29日、 荻原井泉水 は田村神社を訪れた。

 興福寺旧跡と標した札が道端に立っているのもその近くだった。佐藤嗣信忠信鏡台の嫁が甲冑を着た像を祀った、甲冑堂というものが建っていたのもここだったという。『陸奥鵆』に

   軍めく二人の嫁や花あやめ   桃隣

とあり、この句は国定教科書にも載っていた筈だ。案内してくれた老人の談に、その堂は三十年ほど以前に焼けてしまった、それと並んでいた田村神社も焼けたが、神社だけは再建されたという。

『随筆芭蕉』 (短夜の空も明くれば)

田村神社の左手に甲冑堂がある。


 祭神は福島県飯坂 大鳥城 主佐藤荘司基治公の子継信・忠信兄弟の妻、楓・初音の二柱。

 文亀年間、佐藤左ヱ門亮信治が建立。二柱は源平合戦の時源義経の家来として活躍し戦死した継信・忠信兄弟の妻で、子に代り親につくした孝心を今の世に伝えている。古来より種々の文献に載録され、江戸元禄時代頃、人の鑑となるべき孝婦の像と全国に知れわたった。

明治8年6月下旬、
放火により焼失。

昭和14年12月3日、
再建落成。

 元禄2年(1689年)5月3日(新暦6月19日)、芭蕉は甲冑堂を過ぎって 白石 へ。

さい川ヨリ十町程前ニ、万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコブシト云岩有。二町程下リテ右ノ方ニ次信・忠信が妻ノ御影堂有。同晩、白石ニ宿ス。

『曽良随行日記』

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は甲冑堂を訪れ、句を詠んでいる。

 少行て右の方に寺有、小高き所、堂一宇、次信・忠信両妻軍立(いくさだち)の姿にて相双びたり。外に本尊なし。

   ○軍めく二人の嫁や花あやめ


桃隣の句碑


いくさめく二人のよめやはなあやめ

昭和14年(1939年)12月3日、甲冑堂の再建を記念して建立。

 享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上越王堂を訪れている。

それより 大木戸 、火の手山、左の竹藪の内を下紐の関あとゝいふ。貝田町の入口、仙台境、石大仏を過て、越王堂 佐藤兄弟か妻女の木像 あり。


 元文3年(1738年)4月23日、田中千梅は松島行脚の途上、甲冑堂を見ている。

坂を半くたりて草堂に婦人の甲冑したる二像を立或抄に甲冑堂と號ス里人は小姓堂といふ佐藤兄弟か室女乃像成よし


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、甲冑堂を訪れている。

鐙坂。鎧碎(よろひこわし)。鐙摺。の石は。さい川の入口なり。道細く右は山にして。左に大石あり。一騎打の難所。實に鐙も摺る程なり。此所右の方に一宇 有り。よりて見れば。佐藤次信忠信が二人の妻の姿なりとて。各甲冑を帶したり。如何なる故に此所に在るにや。殊に女の甲冑を帶したる姿。いと珍らし。古き像にて。彩色の剥げて。下地なる胡粉の白く見えたるは。

   卯の花や威し毛ゆゝし女武者

と云捨てさい川に到る。


 延享2年(1745年)、望月宋屋は「奥の細道」を辿る旅に出て、佐藤兄弟の妻の像を見ている。

   佐藤兄弟婦人像

里人もこゝへ手向よ紅脂

 明和6年(1769年)4月、蝶羅は奥羽行脚の途上甲冑堂で句を詠んでいる。

   古将堂

よろふたるかげや二人の妻あやめ
   蝶羅


越王堂  (十四)

越王堂刈田郡齊川村ニアリ、二女ノ木像アリ、烏帽子ヲイタゝキ鎧ヲ着シ、右ニ弓箭ヲ執リ、左ノ刀ヲ提ケタリ、田村麿・鈴鹿神女也ト云リ、又一説ニ佐藤次信・忠信カ妻ノ像ナリト云、又一説ニ、古ハ四王堂ト書リ、鐙毀坂ノ下ニ有、堂ニ木像二體アリ、何レモ烏帽子ニ鎧ヲ着テ壇上ニ腰ヲ掛、一體ハ弓矢ヲ持、「一躰ハ偃月刀ヲ横フ、」次信・忠信カ妻ト云、一説ニ賀茂次郎・新羅三郎ノ影像也、東夷此人ヲ畏ルゝ故ニ、此像ヲ立テ夷火ヲ鎮伏セシムト、又驛夫ノ物語ニ、此堂昔越河堂ト云ケルヲ、イツノ頃ヨリカ古四王堂ト云ナラハスト古老ノ説アリト云、

『平泉雑記』(巻之二)

甲冑堂の先が斎川宿。


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