このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

『奥の細道』   〜東北〜


〜養泉寺〜

東北自動車道古川ICから国道47号(北羽前街道)に入る。


中山峠で山形県に入る。

国道47号(北羽前街道)を左折して県道28号に入る。

赤倉温泉を過ぎて山刀伐トンネルを抜ける。


元禄2年(1689年)5月17日(陽暦7月3日)芭蕉は 山刀伐峠 を越えた。

 あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。

峠の頂上には俳人加藤楸邨揮掌による 「奥の細道顕彰碑」 があるそうだ。

旧道は冬期閉鎖中だった。

国道347号(母袋街道)を越え、尾花沢市街に入る。


芭蕉・清風歴史資料館 がある。


尾花沢の町外れに養泉寺がある。

尾花沢は「芭蕉十泊のまち」。


 元禄2年5月17日(陽暦7月3日)、芭蕉は尾花沢の 鈴木清風 を訪ねた。翌日清風のはからいで養泉寺に移る。芭蕉は尾花沢に10泊したが、そのうち7泊は養泉寺で過ごした。

 十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。

『曽良随行日記』

境内に芭蕉の句碑がある。


涼し越我可宿にして祢ま流也

「涼し塚」と呼ばれている。

宝暦12年(1762年)夏、柴崎路水・鈴木素州建立。

「壷中居士」碑もあったようだが、気付かなかった。

壷中は林崎の素封家坂部九内。

寛延年間(1748〜1750)、立石寺に 「せみ塚」 を建立。

昭和40年(1965年)、 山口誓子 は養泉寺に句碑を訪ねている。

 句碑は本堂の手前右手、上屋の中にある。ひょろっとした自然石。

   涼しさを我か宿にしてねまる也

 芭蕉は、尾花沢に来て、清風の家に泊ったり、養泉寺に泊ったりした。この句は清風の家で出来た。

 涼しい。その涼しさをこの家で満喫して、くつろいでいる、と云うのだ。「ねまる」は方言。主として東北地方に分布する方言だ。

 句碑には、句のつづきに漢文を刻んでいる。その最後に「不朽ヲ謀リ、石ヲ立テ涼塚ト曰フ」とある。「不朽ヲ謀リ」とは、芭蕉の俳句の不朽を謀ったのだ。

 建立は宝暦十二年。

『句碑をたずねて』 (奥の細道)

歌仙の連句碑がある。


すずしさを我がやどにしてねまる也
   芭蕉

   つねのかやりに草の葉を燒
   清風

鹿子立つをのへの清水田にかけて
   曾良

   ゆふづきまるし二の丸の跡
    素英

楸邨書

 歌仙は須賀川の相楽家に伝来したもの。 石井雨考 が見つけ、幽嘯が書き写して 『繋橋』 (幽嘯編)に収録。

 養泉寺は明治28年の大火で類焼し、往時の面影はない。

外井戸だけが当時を偲ぶ唯一のもの。

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