このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
『奥の細道』
〜東北〜
〜芭蕉・清風歴史資料館〜
東北自動車道仙台宮城ICから国道48号(関山街道)で関山トンネルを抜けて山形へ。
天童で国道13号に入り、尾花沢へ。
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は山形から尾花沢にやってきた。
鈴木清風
を訪ねたが留守。
○かくて山形に袖辭
(いとまごひ)
し、暮秋念最上延澤、銀山ふもと、尾花澤に着く。當所には予が好身、古友あまたあれば、三十餘日休らひ、當所の俳仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都櫻に鞭し給ひ、いまだ關をこえざりしとなん。本意なみながら一紙を殘す。記は畧す。
『日本行脚文集』(巻之七)
芭蕉・清風歴史資料館がある。
3月末の思いがけない雪に驚いた。
元禄2年(1689年)5月17日(陽暦7月3日)、芭蕉は尾花沢の鈴木清風を訪ねた。
尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折ゝかよひてさすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
奥の細道150日の行程のうち、出羽の国(山形県)に40日にわたって滞在した。なかでも尾花沢には10泊し、3句を残している。
すずしさを我が宿にしてねまる也
這い出でよかひやが下のひきの声
まゆはきを俤にして紅粉の花
蠶飼する人は古代のすがた哉 曾良
清風は本名を島田屋・鈴木八右衛門といい、紅花商人で知られる風雅な俳人。紅花取引のため、しばしば江戸に通い、芭蕉とは親しい交流があった。
紅花畑
芭蕉・清風歴史資料館の建物は、旧丸屋酒造・鈴木弥兵衛家を清風宅の隣に移転復元したもの。
隣に酒屋があり、建物を貸しているのだと言っていた。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は尾花沢を通りがかる。
是より尾花沢にかゝり、息を継んとするに、心当たる方留守也。
[無都遅登理 五]
宝暦2年(1752年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で尾花沢を訪れている。
尾花沢 春
(ママ)
風かゆかり尋んと行に今はあとかたなし
紅の花俤踏ん散る紅葉
幾度歟行脚を泣す時雨哉
『宗祇戻』
「
春
(ママ)
風
」は清風のことであろう。
明治40年(1907年)10月10日、河東碧梧桐は尾花沢を訪れた。
清風の家は屋号を島田屋という。代々の当主を鈴木八右衛門という。その家は連綿として今にこの地の旧家の一つに数えられておる。今の店は荒物屋である。清風は当時の紅花商人としては江戸に二なき羽振りをきかしたもので、清風の上府と否とは紅花の相場にまで影響したという。 ある時江戸の姦商が清風を陥れようとして、種々の姦策を弄した時、早くその策を看破して、却って姦商の胆を挫くため、倉にいくつか貯えてあった紅花を江戸の町外れで一炬に附した。そのため紅花の相場が遽然として高まった。その一炬に附した紅花というのは、実は江戸市中の古綿を買い集めたのであって、真の紅花は江戸近在の某所に隠したのであった。相場の上騰につれて、さそくに紅花を運んだので清風は却って巨万の利を占めた、などという話もある。
芭蕉の書いたものもあった様子であるけれども、清風の家には、惜むらくは今断簡零墨も残っておらぬ。清風から三代目とかの当主が、放蕩家事を物ともしなかったので、分家の何某が貴重なものの保管をするというて持ち帰ったことがある。その時にでも散逸したのであろう。
『三千里』
昭和40年(1965年)、
山口誓子
は尾花沢を訪れている。
尾花澤
豪雪に寝て髪の毛の白くなる
『一隅』
芭蕉・清風歴史資料館に芭蕉像がある。
平成元年(1989年)4月、奥の細道300年記念に建立。
『奥の細道』
〜東北〜
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