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蕉 門

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鈴木清風

 本名鈴木八右衛門、紅花商人で知られる。紅花取引のため、しばしば江戸に通い、芭蕉とは親しい交流があった。

紅花


 慶安4年(1651年)、 尾花沢に生まれる。

 延宝9年(1681年)、 俳諧おくれ双六』 (清風編)刊。

 貞享2年(1685年)、 『稲莚』 (清風編)刊。

 貞亨3年(1686年)3月20日、清風の江戸の屋敷で歌仙。

   三月廿日即興

花咲て七日鶴見る麓哉
   芭蕉

 懼(おぢ)て蛙のわたる細橋
   清風

 貞亨3年(1686年)、『俳諧一橋』(清風編)。

 貞亨3年(1686年)、大淀三千風は鈴木清風を訪ねたが、留守。

○かくて山形に袖辭(いとまごひ)し、暮秋念最上延澤、銀山ふもと、尾花澤に着く。當所には予が好身、古友あまたあれば、三十餘日休らひ、當所の俳仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都櫻に鞭し給ひ、いまだ關をこえざりしとなん。本意なみながら一紙を殘す。記は畧す。


 元禄2年(1689年) 5月17日(陽暦7月3日)、芭蕉は尾花沢の鈴木清風を訪ねた。

 尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折ゝかよひてさすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

『奥の細道』

清風は芭蕉を招いて歌仙を巻く。

すゞしさを我がやどにしてねまる也
   芭蕉

つねのかやりに草の葉を燒
   清風

鹿子立をのへの清水田にかけて
   曽良

ゆふづきまるし二の丸の跡
   素英

楢紅葉人かげみえぬ笙のおと
   風

鵙のつれくるいろいろの鳥
   風流

『繋橋』(幽嘯編)

 歌仙は須賀川の相楽家に伝来したもの。 石井雨考 が見つけ、文政2年(1819年)頃、『繋橋』(幽嘯撰)に収録。

 元禄5年(1692年)、 各務支考 は春から夏にかけて奥羽行脚。


 尾花沢
初雪をみな見つけたる座禅哉
   清風

 あり明寒き高藪のうち
   支考

(あひる)なく籠の掛がねはづさせて
   不玉

 紙すく町は寂しかり梟(鳬)
   風


 元禄9年(1696年)、天野桃隣は尾花沢を通りがかる。

是より尾花沢にかゝり、息を継んとするに、心当たる方留守也。


「心当たる方」は清風宅であろう。

 享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚。雨の中鈴木清風を訪ねるが、泊めてもらえなかった。

尾花沢鈴木清風といふものは旅の哀もしり我宿にしてねまる、といひしもあれはと尋しに、今は俳諧をやめ、又江戸よりの一封もしる人さたかならす、とむけなる返事にて、一宿をゆるさゝりけり。雨盆をくつかへし、空は墨を摺たるやうなるに、馬もあらはこそ、ゆたんに合羽おもきか上にからくして諾沢にとまる。


享保6年(1721年)1月12日、71歳で没。

 明治40年(1907年)10月10日、河東碧梧桐は大石田を訪れた。

 清風の家は屋号を島田屋という。代々の当主を鈴木八右衛門という。その家は連綿として今にこの地の旧家の一つに数えられておる。今の店は荒物屋である。清風は当時の紅花商人としては江戸に二なき羽振りをきかしたもので、清風の上府と否とは紅花の相場にまで影響したという。 ある時江戸の姦商が清風を陥れようとして、種々の姦策を弄した時、早くその策を看破して、却って姦商の胆を挫くため、倉にいくつか貯えてあった紅花を江戸の町外れで一炬に附した。そのため紅花の相場が遽然として高まった。その一炬に附した紅花というのは、実は江戸市中の古綿を買い集めたのであって、真の紅花は江戸近在の某所に隠したのであった。相場の上騰につれて、さそくに紅花を運んだので清風は却って巨万の利を占めた、などという話もある。


尾花沢に 芭蕉・清風歴史資料館 がある。


清風の句

五月雨や蓑よりのぞく袖の浦


   いかにせん

初花よ妻もたぬ身の詠なる


吸ものゝ工夫こまりぬはつ櫻


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