このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
石井雨考
『青蔭集』
藤井晋流の門人二階堂桃祖に俳諧を学ぶ。須賀川の鎮守
諏訪神社
近くに住み、夜話亭と号した。
雨考 須賀川中町 菓子や石井久右ヱ門
『諸国人名録』②
寛延2年(1749年)、須賀川に生まれる。通称勝右衛門。
雨考は須賀川の相楽家に伝来した
「すゞしさを」歌仙
を見つけた。
文化6年(1809年)、
『繋橋』
(幽嘯編)刊。雨考 序。
成美
跋。
文化8年(1811年)、雨考のはからいで
多代女
は
鈴木道彦
に入門。
文化10年(1813年)11月12日、石井雨考の世話で江戸の如意庵一阿は
芭蕉の句碑
を建立。
文化11年(1814年)、
『青蔭集』
を刊行。
多代女
序。
成美
跋。
文化12年(1815年)10月13日、最上稲沢の稲州は東都遊行に出立。途次、須賀川の雨考宅に泊まる。
文化13年(1816年)、雨考と多代女は江戸に旅立とうとしたが、実現しなかった。
そもはいかいの旧跡須賀川に住は世の人の見つけぬ軒よりひとりは栗毛の馬に乗ひとりは笠の緒の玉さやさやと鳴らしてむさしへ旅たつは老人雨考と多代女なりけりうらやましいくら寝てつくはねのはるを見るそ幾日経てすみた川の鴎に逢ふそ
蝶のそく宿なら覗け道のほと
松窓乙二
『浅香市集』序
文政8年(1825年)8月、
芭蕉の句碑
を建立。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
文政10年(1827年)7月6日、79歳で没。
千用寺
に墓がある。
金剛山千用寺
吾命どの朝顔の露ならむ
門下に
市原多代女
がいる。
明治26年(1893年)7月21日、正岡子規は須賀川を訪れている。
須賀川に道山壮山氏を訪ふ此地の名望家なり。須賀川は旧白川領にして古来此地より出でたる俳人は可伸
等躬
雨考たよ女なり。
『はて知らずの記』
雨考の句
星の名を覚て戻るすゝみかな
『二度の笠』
物思ふ義人なるらんはるの立
『夢の花』
山あらめきくうる人の歸る道
『はたけせり』
それさへも嵐にあへり蓼の花
『萍日記』
箱根の山踏して
ほとゝぎす人も名のりをしつゝゆく
『繋橋』
花ざかりおもひ出しては風が吹
『物の名』
老けりな花見るまでを人まかせ
『物見塚記』
烏さへ鳴かず人目もかれ柏
『随斎筆記』
烏さへ鳴ず人めも枯がしは
『
俳諧
道中双六』
花ざかりおもひ出しては風のふく
『世美冢』
老けりな華見る迄を人まかせ
『三韓人』
明松
(松明)
の山え
(へ)
わかれてなくかはづ
『杖の竹』
花の夜か明かゝるなり雨なから
『的申集』
永き日のはしから出たり三日の月
『迹祭』
秋もはや間近き鷭の額かな
『あなうれし』
これさへも春の青みや豆腐串
『
俳諧
西歌仙』
萩の戸や家と申すもおこがまし
『河上集』
門掃くや麦の照穂の朝湿り
『さらしな記行』
さくにしていかにもせはし冬の梅
『椎柴』
順礼の鐘撞すてし若葉哉
『しをに集』
人にやる菊とて別の色もなし
『春秋稿』(第八編)
順礼のかね撞捨し若葉哉
『わすれす山』
寒空やいつ迄柿の鳴子引
『たねおろし』
しら雲の人よりいそぐ枯野哉
『五とせ集』
俳 人
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