このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
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中山道
槙ケ根一里塚
西行塚
から西行坂を上り、
中山道
を歩く。
槙ケ根一里塚があった。
槙ケ根一里塚
一里塚は、一里(約4キロ)ごとに街道の両側に土を盛り、その上に榎を植えて旅人たちに里程を知らせた塚である。戦国時代の末(16世紀後半)には、山陽道の備中の河辺から北九州肥前名護屋のあいだに築かれたといわれるが、一般的には、慶長9年(1604年)、徳川幕府が江戸日本橋を起点として、東海道や中山道などの主要な街道に設けさせ制度化させたものをいっている。しかし、180・90年後の天明年間(1780年代)のころには、姿を消したものがかなりあったという記録が残っている。
県内の中山道には、全部で32か所あったが、現在はそのほとんどがとりこわされ、現存しているのは、当市内のこの槙ケ根一里塚と
紅坂一里塚
のほかに瑞浪市内の権現山一里塚など5ヶ所の合せて7ヶ所にすぎない。また、全国的にも現存する数はきわめてすくなく、一里塚は江戸時代の街道の面影を今に残す貴重な文化財である。
この槙ケ根一里塚は、北の塚が高さ約3.5メートル、幅は9.9メートル、南塚は北塚より少し大きく高さは3.9メートル、幅は10.1メートルである。塚の頂上に植えられていたといわれる榎は両塚とも残っていない。
近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原型をとどめ往時の中山道を偲ぶことができる。
恵那市教育委員会
恵那ライオンズクラブ
享和2年(1802年)3月27日、太田南畝は一里塚から西行坂を下っている。
なをも山路をゆきゆきて又一里塚あり。はじめの道にくらぶればいと近し。松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂といふ。
『壬戌紀行』
「槙が根追分」
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