このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道中山道


槙が根追分

槙ケ根一里塚 から 中山道 を行くと、「槙が根追分」があった。


左伊勢名古屋 右西京大坂

槙が根立場

 ここは中山道槙が根追分である。

 東へ七本松坂や西行坂を下って中野村を過ぎ、阿木川を渡れば 大井宿 であり(この間約1里)、西へ約2里半(約10キロメートル)深萱立場や炭焼場の十三峠を越せば大湫宿である。

 ここで中山道に分かれて西に下る道は、竹折や釜戸を経て内津峠を越せば名古屋や伊勢方面に行くことができ「下街道」と呼んでいた。

 江戸時代ここは中山道の通行者に加えて、木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺や伊勢神宮等の参拝者が行き交い、付近一帯に道をはさんで多くの茶屋があり、巻が根茶屋とか槙が根立場と呼んでいた。

 享和2年(1802年)3月にこの地を通った太田南畝は、著書 「木曽の麻衣」 にこのあたりの様子を次のように書いている。

 「石ばしる音すざましき流れにあり、わたせる橋をみだれ橋という。みたらしの坂というを上る事五六町にして、山のいたゞきより見れば、左右の山ひきく見ゆ、ややくだりゆきて右の方に石の灯籠ふたつたてり。いせ道と石にゑれり、ここに仮屋して伊勢大神宮に棒納の札をたつ。道のへに一重桜さかりなるは遅桜なるべし。一里塚をへて人家あり。巻かね村という。追分立場というは木曽といせ路の追分なるべし。こゝにもお六櫛をひきてひさぐ。なおも山路をゆきゆきて又一里塚あり。はじめの道にくらぶれはいと近し。松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂という。左の山の上に桜の木ありて 西行の塚 ありという。円位上人は讃岐の善通寺に終わりをとりぬときくに、こゝにしも塚あることいかがならん。折から谷の鴬の声をきくもめづらしく、頃は弥生の末なるに遺覧在野という事も引いでつべし。砂石まじりに流るゝ水にかけし板橋を渡りて中野村あり……」と。

 中山道の整備は初め慶長7年(1602年)、徳川幕府役人大久保石見守を総奉行としてなされた。

 その時の道はこの槙が根追分から西に下り、竹折−釜戸を経て御岳宿へ出た。ところがその翌年こゝから西へ真っ直に行く道が改修され、慶長9年(1604年)十三峠を越す道が完成し、大湫宿が設置された(細久手宿の設置は慶長11年である)。

 その後一里塚を築き塚の上には榎や松を植え、街道の両側に松などの並木を植えて完備した。

 その後にこの地の藩主や村々の農民の手による補修により、江戸と京都を結ぶ幹線道路として、その機能をはたしていた。

中山道文化庁・恵那市教育委員会

槙が根立場の茶屋

 江戸時代の末頃ここには榎本屋・水戸屋・東国屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が9戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みして、また旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)。

 これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度に変わり、脇道ができ、特に明治35年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。

 そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。

伊勢神宮遥拝所

 京都から江戸へ旅をした秋里離島は、その様子を文化2年(1805年)に「木曽名所図会」という本に書いた。

 そしてその挿絵に槙が根追分を描き、追分灯籠の横に注連縄を張った小社を書いている。

 ここにある礎石は絵にある小社遺構であろう。

 伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ行ったが、伊勢までの旅費や時間のない人は、ここで手を合わせ遥拝したという。

『木曽路名所図会』(大井驛)


「槙が根追分」部分

下街道

 中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。

 下街道は、竹折・釜戸から高山(現土岐市)・池田(現多治見市)を経て名古屋へ行く道である。

 この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多い。そのうえ名古屋までの距離は上街道より4里半(約18キロ)近かった。そのため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者も多く大変にぎわった。

 しかし幕府は中仙道の宿場保護のため下街道の商人荷の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返した。

乱れ坂 へ。

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