このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

紀貫之邸跡〜高浜虚子の句碑〜
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南国市比江に紀貫之邸跡があるというので、行ってみた。

国府の碑


土佐のまほろば、ここに都ありき

国司館跡(紀貫之邸跡)

 奈良平安の時代から比江の地に土佐の国庁が置かれた。貫之は延長8年国司として来任、この地に居住した。地名を内裏(ダイリ)という。承平4年任満ちて京都へ帰る時の船旅日記「土佐日記」は特に名高く、歌人として第一人者であると共に、国司としても極めて優れ人々に敬慕せられた。

 ここに建つ碑は天明5年(寛政元年竣工)のものと大正9年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人 高浜虚子の句碑 もある。

紀氏舊跡碑


あふく世にやとりしところ末遠くつたへんためとのこすいしふみ

日野資枝(ひのすけき)の歌であるようだ。

天明5年(1785年)5月、建立。

千載不朽


文化6年(1809年)、源定信撰文。
大正7年(1918年)、大江正臣筆。

大正9年(1920年)、建立。

昭和6年(1931年)4月2日、 高浜虚子 は紀貫之邸跡を訪れている。

土佐日記懐にあり散る桜

      昭和六年四月二日 土佐国高知に著船。国分村に紀貫之の邸
      址を訪ふ。


高浜虚子の句碑


土佐日記懐にあり散る桜

昭和19年(1944年)4月3日、龍巻會建立。

昭和24年(1949年)10月20日、虚子は句碑を見ている。

わが終り銀河の中に身を投げん

      十月二十日。高知句謡会。林並木訪問。貫之邸址の句碑を見、
      要法寺に於ける玉藻句會に列席。

『六百五十句』

 この句碑は高知県長岡郡国府村国分の貫之館址にある。昭和十九年四月三日、竜巻会の建立にかかり、高さ六尺六寸、幅一尺、厚さ七寸の御影石角柱碑である。

 貫之は、附け加えるまでもなく古今和歌集の選者であり、平安時代前期の歌人として柿本人麿と共に歌聖と仰がれて居る。ことに「土佐日記」は、当時異色ある存在であった。延長八年正月、土佐守に任ぜられ、任地に下り、在任四年の歳月が満ちて承平五年都に帰った。「土佐日記」は即ちその道中の日記である。館址という場所には、いま建築物などもなく、畑地の一隅に桜の老樹が枝を張って居るに過ぎない。


わが終り銀河の中に身を投げん

高知句謡会。一寸の閑を父の旧友、林並木さんを訪問。夕月の下を貫之邸址の父の句碑「土佐日記懐にあり散る櫻 」も見て来た。駆つてゐる自動車の窓に金星が輝いて見えてゐた。その後の要法寺に於ける玉藻句会の句。

『虚子一日一句』 (星野立子編)

 昭和30年(1955年)12月、山口誓子は虚子の句碑を見ている。

 高知へ行ったとき、私もそこを訪ねた。橋詰延寿氏の案内だった。冬だったから、畑の、枯れた桑に透いてその館址が見えた。近寄ると、木立があって碑が立っていた。そして虚子の句碑が立っていた。

   土佐日記懐にあり散る桜

 風が吹いていたが、私は疲れていたので、枯草に腰を卸した。私は遠く配流されてそこに来ているような思いがした。

 虚子は、「土佐日記」をふところにして、花を散らす桜の木に立ったのだ。虚子は大学ノートを句帖にして、それをよく和服のふところにしていた。紀貫の館址を見ると云うので、「土佐日記」もふところにすることを忘れなかったのだ。

『句碑をたずねて』 (四国・九州路)

   紀貫之宅址

冬の土佐配流されて來しならず

『構橋』

「土佐日記」の碑


みやこへとおもふをもののかなしきはかへらぬひとのあればなりけり

さをさせどそこひもしらぬわたつみのふかきこころをきみにみるかな

 平成元年(1989年)10月14日、国府史跡保存会創立30周年記念に建立。

第30回土佐日記門出の祭り記念碑


平成25年(2013年)11月10日、国府史跡保存会建立。

女郎花が咲いていた。


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