このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

法然院〜野風呂の句碑〜
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京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町に 法然院 (HP)がある。


明治38年(1905年)9月20日、 長塚節 は法然院を訪れている。

   二十日、雨、法然院

ひやゝけく庭にもりたる白沙の松の落葉に秋雨ぞ降る

竹村は草も茗荷も黄葉してあかるき雨に鵯ぞ鳴くなる

善気山法然院萬無教寺


昭和28年(1953年)、浄土宗より独立し 単立 宗教法人となる。

梶田如是の句碑があった。

筒鳥は化物菩薩を呼ぶ音とも

如是は梶田信順、法然院二十九世貫主。

本堂の東側に鈴鹿野風呂の句碑があった。


鴬や今日の本尊にこやかに

昭和21年(1946年)4月3日、建立。

昭和21年(1946年)10月14日、 高浜虚子 は法然院に遊ぶ。

寺なれば秋蚊合点厠借る

      十月十四日 京都、東山、ミューラー初子邸。立子等と共に。
      法然院に遊ぶ。

『六百五十句』

 本坊書院の庭に高浜虚子「念仏の法のあやめのかへり花」の句碑があるそうだ。

山門の手前に松尾いはほの句碑があった。


椿落ちて林泉の春動きけり

 松尾いはほは本名巌。京大卒。高浜虚子・大谷句仏等に師事。京大医学部教授・同附属病院長。

昭和38年(1963年)、81歳で没。

昭和39年(1964年)11月22日、建立。

 昭和40年(1965年)6月、山口誓子は 金福寺 から鹿ヶ谷の法然院を訪ねた。

 金福寺を出て白川通を南下。鹿ヶ谷の法然院に着く。

 階を登って、左に進むと、左側に巨大な自然石が立っている。句碑だ。

   椿落ちて林泉の春動きけり

 「いはほ」とあるのは松尾巌。京大医学部の教授だった巌に私も診察して貰って、肺尖カタルの病名を附けられたことがある。一診の恩を受けたのだ。私の大学時代のことだ。

 しかし、この句碑はその大きさに於いて格を逸している。

 その辺から正面に見える法然院の小門はいい。

 本堂の庭には野風呂の

   鶯や今日の本尊にこやかに

の句碑が立っている。二三幹の松の下、低い句碑だ。本堂では如是師が導師となってお勤めがつづいている。木魚の音がいつまでもつづく。

 法然院を訪えば墓地へ足を向けざるを得ない。


法然院の墓地には河上肇や谷崎潤一郎の墓がある。

ある墓地の石灯台に芭蕉の句が刻まれていた。


おもしろうてやかて悲しき鵜船かな

出典は真蹟懐紙。

 貞享5年(1688年)、 『笈の小文』 の旅の帰路、岐阜の長良川で鵜飼を見て詠まれた句。

墓地には虚子、年尾の句碑もあったようだ。

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