このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

覚円院〜去来の寺〜
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真如堂 の塔頭に覚円院がある。


覚円院


向井去来 の菩提寺である。

俳人 向井去来

慶安4年(1651年)、長崎に生まれる。字、元淵。号を義焉子と名乗り、落柿舎・去来とも称した。

万治元年(1658年)、8歳の時、父元升と共に一家揃って京都に移住、中長者町付近に住み、父兄の家業(医師)を助ける。別に聖護院村に宅を構え、嵯峨に草庵を結び落柿舎と名付けた。30歳頃、 其角 を通じて俳諧を芭蕉に師事、 許六支考丈草嵐雪凡兆 らと交流。蕉門十哲の一人、俳諧奉行と呼ばれた。

妻河南との間に登美・多美の二女をもうけ、宝永元年(1704年)9月10日、没す。54歳。翌11日申の刻、眞如堂本堂の前にて葬儀が執り行われ、向井家の墓地に埋葬された。

『昔ぎく』に眞如堂なる向井去来先生の墓に詣でて

萩すすきむかしの嵯峨もかくやありし
   蝶夢

露深き道や嵯峨野に眞如堂
   鶏賀

また『菊のうはさ』に一とせ眞如堂の本廟にもうで

ゑこうして柿買過ぎよ塚の秋
   古声

と吟じているので、没後130年頃まで去来の墓は現認できたが、その後墓地整理によって失われたようで、今、供養塔が建っている。

山門の右に鈴鹿野風呂の句碑があった。


宝永元年九月の露の滋かりけむ

昭和38年(1963年)9月8日、建立。

山門の左手に小林月史の句碑があった。


忌につどふ去来の寺の栗の飯

昭和58年(1983年)1月、建立。

 墓は儒家の風で、形は「馬鬣封(ばりょうほう)」というが、今は失われている。「鬣」は「たてがみ」のこと。

   去來處士か八十年忌の秋、うら盆の日眞如堂 の墓
   に詣て

萩薄むかしの嵯峨もかくや有し


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