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私の旅日記
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2013年
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小野神社
〜信濃の国二之宮〜
塩尻市北小野の国道153号(旧三州街道)沿いに小野神社がある。
天明3年(1783年)5月24日、
菅江真澄
は矢彦・小野神社を見ている。
道しばし経ていかめしきものあり。むかしまうで奉りし、
しなのなる伊奈の都と思ふには誰かたのめの里といふらん
とながめある憑の神のおほんみづがきなりけり。
誰もさぞたのむの神のみしめ縄かけて朽ちせぬちかひなるらん
としごとの葉月朔の日は、たのも祭とてかんわざのありて、なりはひを祈るみやしろなれば、神をたのめとも頼むとも里の名もしか言へり。
『伊那の中路』
小野神社
主祭神は建御名方命。
建御名方命は科野
(しなの)
に降臨し、しばらくこの地に留まり諏訪に移ったという。
永禄7年(1564年)、武田勝頼が戦勝祈願のため梵鐘を鋳造し、小野神社に寄進した。
天明4年(1784年)3月16日、菅江真澄は矢彦・小野神社に再度参詣している。
十六日 頼母の神にまうでて拝みめぐる。千枝百枝にてうつぼ木多く生ひしげりて、いと神々たる社の中路をふみわけて行けば、いろいろの薬あり。小野の御社の前には世にことなる鐘をかけて、大檀那諏方四郎神勝頼と書付け給へり。矢彦明神の拝み処、きよらかにたくみなしたり。めもあやなりなど言ひつつ、ぬさを捧げて出る。
『すわの海』
小野神社の庭園に歌碑があった。
ひらひらと峠越えしは鳥なりしや若さなりしや聲うすみどり
斎藤史
日くれ径幼きものら摘みためしほたるふくろに灯の点りこよ
武川忠一
さみどりの朴の新芽のひらく庭夢のごとくに母われを呼ぶ
岡野弘彦
平成8年(1996年)8月31日、全国短歌フォーラムin塩尻を記念して撰者3人の歌碑を建立。
社殿の裏手に芭蕉の句碑があった。
うきわれをさひしからせよかんこ鳥
初案は「
うきわれをさびしがらせよ秋の寺
」。
出典は
『嵯峨日記』
。
元禄4年(1691年)4月22日、芭蕉48歳の句。
小野神社と並んで矢彦神社がある。
主祭神は大己貴命・事代主命。
安徳天皇の御代、
木曽義仲
が宮材を木曽山林から伐り出し社殿を造営した。
矢彦神社の池の畔に芭蕉の句碑がある。
古池や蛙飛こむ水のをと
出典は『蛙合』(仙化編)。
貞亨3年(1686年)春、
深川芭蕉庵
で詠まれた句。芭蕉43歳の時である。
「後学雨路臨」とある。
矢彦雨路は北小野の人。小野素水に俳諧を学ぶ。晩年は矢彦神社の神官を勤めた。
大正9年(1920年)、89歳で没。
矢彦神社の境内は辰野町小野。辰野町の飛地である。
小野神社と矢彦神社は共に信濃の国二之宮。
中村伯先は姨捨の月を見に旅立ち、途中で小野神社・矢彦神社を参拝している。
巳の時過るばかり頼母の里をよぎる。あが信一州の一の宮八彦大明神・小野大明神両社立給ふ社なり。雨になやみて余所ながら拝しぬ。両社の間を御手洗川ながれて、筑摩・伊奈の境なるよし。
『姨捨紀行』
一之宮は
諏訪大社
である。
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