このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記2015年

當麻寺〜中将姫〜
indexにもどる

葛城市當麻に 當麻寺 (HP)がある。


當麻寺

當麻の名を知らせる名刹で、二上山のこんもりとした樹影を背景に静かなたたずまいを見せています。用命天皇の皇子麻呂子王が推古天皇20年(612年)に河内に建てた万宝蔵院に始まり、その後天武天皇白鳳11年(681年)に麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移してこの地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。金堂、講堂が南北に一直線に並び金堂の南方両側に東西2つの三重塔が建ち、さらに本堂、薬師堂、仁王門などが独特の伽藍配置で建ちならんでいます。とくに古代に建立された東西両塔が完備している姿は全国でも當麻寺だけとして有名です。宗旨としては初め三論宗を奉じていましたが、弘法大師が参籠してから真言宗にかわり、鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり、以後現在まで真言浄土の二宗を併立し、八ケ寺の塔頭(寺院)よりなる珍しいかたちとなっています。

また金堂にある弥勒菩薩坐像や日本最古の梵鐘をはじめ、数多くの貴重な寺宝を今に伝えており国宝・重要文化財に指定されているものも少なくありません。

ボタンの名所としても有名で4月下旬より境内にはボタンの花が咲き誇り、落ちついた雰囲気に色をそえています。

5月14日には、中将姫ゆかりの”練供養”が行われ、全国から集まった参詣者たちで境内は大変なにぎわいとなります。

   平成元年3月吉日

葛城市観光協会

仁王門


中将姫

 中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、ひばり山に捨てられてしまいました。その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより當麻寺へ入り、称讃浄土経の一千巻の写経を達成し、17歳で中将法如として仏門に入り曼荼羅(諸仏の悟りの境地を描いた絵図)を織ることを決意し、百駄の蓮茎を集めて蓮糸を繰り、これを井戸にひたすと糸は五色に染まりました。そしてその蓮糸を、一夜にして1丈5尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げました。姫が29歳の春、雲間から一丈の光明とともに、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。「練供養」は、その伝承を再現したもので、毎年5月14日に當麻寺において行われています。

塔頭中之坊の前にある来迎松


中将姫のお手植えと伝わる。

貞享元年(1684年)、芭蕉は當麻寺に詣で、来迎松を見て句を詠んでいる。

 二上山当麻寺に詣でゝ、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならむ、大イサ牛をかくす共云べけむ。かれ非常(情)といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬかれたるぞ幸にしてたつとし。

僧朝顔幾死かへる法の松


中之坊書院前に句碑がある。


僧朝顔幾死にかへる法の松

昭和9年(1934年)4月、建立。

本堂


高野山真言宗 の寺である。

本尊は「當麻曼荼羅」。

元禄7年(1694年)9月28日、 其角 は当麻寺奥院に泊まっている。

    当麻寺奥院にとまりて

小夜しぐれ人を身にする山居哉
   晋子

    当院に霊宝什物さまざま有。中に
    も小松殿、法然上人へまい(ゐ)らせら
    れし松陰の硯あり。箱の上に「馬
    蹄」と書て、野馬を画けり。硯の
    形がひづめに似たるゆへ(ゑ)成べし。

松陰の硯に息をしぐれ哉
   晋子


西塔


東塔


古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺だそうだ。

共に重要文化財である。

明和9年(1772年)、 加舎白雄 は當麻寺に参詣。

詣当摩寺

法のかたいと赫々たる一軸を拝む。いむ事をたもつ斗もたうさなるに、みやうかうの光りいとながき影みちさせ給ひし曼多羅一丈五尺、紡績の室はわづかに九尺、間のあたりのふしぎなみだこぼれて、

   おく物はひろき蓮の台哉


 昭和4年(1929年)3月、 水原秋桜子 は奈良に遊び、当麻寺を訪れている。

   当麻寺

牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ


 昭和30年(1955年)5月21日、 水原秋桜子 は再び当麻寺を訪れている。

   当麻寺

牡丹過ぎ芍薬石に倚り咲けり

卯の花のなだれて塞ぐ搭の前

母子草曼荼羅堂は壊(く)えむとす

『玄魚』

私の旅日記2015年 〜に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください