このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
〜
2015年
〜
内山観音
〜芭蕉の句碑〜
豊後大野市三重町内山の三国街道沿いに蓮城寺という寺がある。
有智山蓮城寺
高野山真言宗
の準別格本山である。
通称「内山観音」。
内山観音略案内
當山は欽名天皇15年(1400年前)に中国天台山より蓮城法師が渡来し、真名野長者(炭焼小五郎)の創建せる寺にして県下最古の寺院なり。
真名野長者(炭焼小五郎)は亡くなった娘の供養に中国の天台山に黄金3万両を献上、そのお礼に来られた蓮城法師からインドの祇園精舎の話を伺い、都から木彫りの仏師を大勢招いて彫らせたといわれている。これが
臼杵石仏
である。
山門の右手に薬師堂がある。
薬師堂の右手に芭蕉の句碑があった。
うめか香にのつと日の出る山路かな
元禄7年(1694年)春、芭蕉51歳の句。
『炭俵』
冒頭、
志太野坡
と両吟歌仙の発句である。
本堂の裏手に長者堂がある。
一寸八分観音
炭焼小五郎夫婦は、家運富み栄え、欽明帝より真名野長者の称号をおくられ、豊後の国司の宣旨を蒙る程になったが、子供には恵まれなかった。
貿易商の竜伯が持参した閻浮提金の一寸八分観音像を信仰した処、玉のような般若姫を授かった。般若姫は稀世の美女として遠く唐土まで聞こえ、欽明帝第四皇子橘豊日皇子(後の用命帝)と結ばれ、3年ほどして皇子は都に帰還されるが、般若姫も皇子の後を追って都に上る途中、山口県大畠浦で暴風雨に遭い、それが原因でこの地で亡くなられた。長者は大変悲しんで、般若寺を建立して、般若姫の菩提を弔った。般若姫は遭難の時、母の玉津姫から戴いた一寸八分観音像を海に投じて難から逃れたが、後一寸八分観音像は大魚の腹中から発見され、聖徳太子(用命帝の皇子)の命により、豊後国蓮城寺に差し戻され、現在に至っておる。毎年1月10日は御開帳があり、遠近の参詣者から安産又は海難予防の仏として厚く信仰されている。
長者堂の手前左手に芭蕉の句碑があった。
人の短をいふ事なかれおのれの
長をとく事なかれ
物いへは唇寒し秋の風
出典は
『芭蕉庵小文庫』
(史邦編)。
『蕉翁句集』
(土芳編)は「元禄四未ノとし」とする。
内山観音は九州八十八ヶ所百八霊場第27番札所である。
昭和5年(1930年)11月4日、
種田山頭火
は日豊本線重岡駅に降り立ち、三国峠を越えて三重町まで歩いた。
十一月四日 晴、行程十里と八里、三重町、梅木屋(三〇・中上)
早く起きる、茶を飲んでゐるところへ朝日が射し込む、十分に秋の気分である、八時の汽車で重岡まで十里、そこから小野市まで三里、一時間ばかり行乞、そして三重町まで八里の山路を急ぐ、三国峠は此地方では峠らしい峠で、また、山路らしい山路だつた、久振に汗が出た、急いだので暮れきらうち
(マヽ)
に宿へ着くことが出来た。
・秋の山路のおへんろさん夫婦づれ
日が落ちかかるその山は祖母山
『行乞記(一)』
途中蓮城寺(内山観音)にも立ち寄っているようだ。
私の旅日記
〜
2015年
〜に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください