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私の旅日記
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2009年
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「堅田十六夜の弁」
〜俳文碑〜
浮御堂
から湖岸沿いの道を行く。
「堅田十六夜の弁」の俳文碑があった。
元禄4年(1691年)8月16日、前夜の
義仲寺
に於ける月見の俳座に引き続き、十六夜の月を賞すべく、芭蕉は数名の門人と舟で堅田に赴き、門人竹内茂兵衛成秀の家に遊んだ。前夜にもまして盛況だったこの夜の俳席の様を「堅田十六夜の弁」として記し、成秀に贈っている。
平成6年3月 大津市
堅田十六夜の弁
望月の残興なほやまず、二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。 「酔翁・狂客、月に浮れて来たれり」と、舟中より声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園中に芋あり、大角豆
(ささげ)
あり。 鯉・鮒の切り目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に櫂をならべ筵をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。 かねて聞く、仲秋の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山といふとかや。今宵しも、なほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡、南北に別れ、その間にして峰ひきはへ、小山いただきを交ゆ。 とかく言ふほどに、月三竿にして黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの曰く、「をりをり雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと切なり。 やがて月雲外に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」と、京極黄門の嘆息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、この堂に遊びてこそ。「ふたたび恵心の僧都の衣もうるほすなれ」と言へば、あるじまた言ふ、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に杯をあげて、月は横川に至らんとす。
錠明けて月さし入れよ浮御堂
やすやすと出でていざよふ月の雲
『芭蕉庵小文庫』
に収録。
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