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私の旅日記2013年

西教寺〜明智光秀の妻〜
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大津市坂本に 西教寺 (HP)という寺がある。


西教寺の総門


この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が坂本城門を移築したと伝えられている城門で、昭和59年に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのまゝの姿で復元したものである。

西教寺の参道


文学ゆかりの地

小説「細川ガラシャ夫人」
著者 三浦綾子

鉦の音

 西教寺は、もう目の前にあった。しんと静まったあたりの空気に、本堂の方から鉦を叩く音が聞こえてくる。その音が、一層静けさを深めている・・・
 カーン、カーンと間をおいてひびいてくる。静かだ。いかにも静かである。
 やがて、光秀がいった。
・・・人間、この音色のように澄みたいものじゃが・・・・・・
「お父上様は、澄んでおられます。」
玉子はまじめな顔でいった。
「ほう、お玉の目には、父が澄んでうつるか?」
「澄んでおりませぬか」
・・・老僧はふり返りもしない。無心にただ鉦を鳴らしつづけている。
   (なるほど、不断念仏じゃ)

 小説「細川ガラシャ夫人」は女流作家三浦綾子先生が昭和48年1月から2年5ケ月に亘って執筆。初めての歴史小説。この小説の中に「鉦の音」「縁」の中に光秀が坂本城主になってから、西教寺の不断念仏の鉦の鳴る本堂へ、妻煕子、末娘玉子(細川ガラシャ夫人)、左馬助光春(家臣)、郎党を連れての参詣の様子が描かれている。

勅使門と寺標石柱


 西教寺は、聖徳太子が仏法の師である慧慈・慧聰のために開創された寺で、推古天皇の26年(618年)に大窪山の号をたまわり、天智天皇の8年(669年)に西教寺の号を下賜されたと伝えられている。

 寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念佛道場とした。その後、比叡山で修行された真盛上人が文明18年(1486年)入寺し、不断念佛の根本道場として、西教寺を再興された。

 明治11年(1878年)明治政府によって別派独立が公許、「天台宗真盛派」の本山となった。

 昭和16年(1941年)に天台三派合同となったが、終戦とともに、昭和21年(1946年)に天台宗三派、延暦寺(山門) 三井寺 (寺門)西教寺(盛門)が分離、天台宗真盛派を「天台真盛宗」と公称して独立、今日に至っている。

 この寺標石柱は明治11年(1878年)に建立されたものである。

西教寺本堂


 重要文化財
建造物 西教寺本堂 一棟

 本堂は桁行7間、梁間6間、一重、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面には3間の向拝を付けています。

 棟札によると、元亀2年(1571年)の織田信長の比叡山焼き討ちによる本堂焼失後天正2年(1574年)に本堂の再興棟上が行われたことがわかります。その後享保3年(1717年)に第二十世の真際上人が再建に乗りだし、門末檀徒から浄財を集め、元文4年(1739年)に落成したのが現在の本堂です。

 正面の欄間や須弥壇は、すべて欅の素木造りで豪華な彫刻を施し、それぞれ江戸時代の特色をよく表しています。

 昭和61年5月24日に国の指定文化財となりました。

大津市教育委員会

坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓


 織田信長が元亀2年(1571年)9月、坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き討ちした。西教寺も全山類焼の厄に遭った。すなわち元亀の平乱である。その後、再興に尽力したのは信長の将、明智光秀で、浜坂本に坂本城を築城、坂本城城主として坂本一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築、刻名入りの棟木も現存している。また天正2年(1574年)仮本堂を完成し、現在の本尊(重文丈穴の阿弥陀如来)を迎えている。

 それ以来、光秀の由縁はふかく、元亀4年(1573年)2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者、中間のへだてなく供養米を寄進したと言われている。また早逝した内室(熈(※「冫」+「熙」)子)の供養もされ、墓が安置されている。

 天正10年(1582年)本能寺の変のあと、山崎の合戦に破れて非業の最期をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと言われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。

 爾来、当寺としては光秀の菩提為毎年6月14日に光秀忌を営んでいる。この供養塔は左のように記されている。

秀 岳 宗 光 大 禅 定 門
南 無 阿 弥 陀 仏
天正十壬午年六月十三日

「明智光秀辞世句」碑


順 逆 無 二 門
大 道 徹 心 源
五 十 五 年 夢
覚 来 帰 一 元

 これは江戸時代の元禄6年(1693年)に書かれた「明智軍記」に因るもので、山崎の合戦で敗れた光秀公が、この偈を従士の溝尾庄兵衛に托して自刃したと伝えられている。歴史上の論議はありましょうが、公の「顕彰会」20周年を卜して、菩提寺である当山の墓所に碑を建立するものであります。

 大意は、修行の道には順縁と逆縁の2つがある。しかしこれは2つに非ず、実は1つの門である。即ち、順境も逆境も実は1つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。

 而してわが55年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。という意に解せられ、光秀公の深い教養と人生哲学を表しています。

 弘治2年(1556年)、道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三方であった為に義龍に明智城を攻められ一族が離散。

 永禄5年(1562年)頃から5年間ほど越前丸岡の 称念寺 門前で貧しく生活していた。

坂本城主・明智光秀の妻

(※「冫」+「熙」)子の墓(光秀の子女、玉子嬢・細川ガラシャの母)

天正4年(1576年)11月7日寂
戒 名  福 月 真 祐 大 姉

 作家の中島道子氏の「明智光秀の妻・熈子(ひろこ)」という小説序文に次のように熈子夫人のことが書かれている。

 人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない哀惜を詠んでいる。その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。

 比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は「奥の細道」の旅の途次、越前(福井県)は丸岡 に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の門弟山田 又玄 の妻に贈ったものである。

   月さびよ 明智が妻の 咄せむ   芭蕉

 まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。

芭蕉の句碑


月さひよ明智の妻のはなしせむ

出典は「真蹟懐紙」。

 平成5年(1993年)11月23日、芭蕉没後300年を記念して建立。中島道子書。

明智が妻

 元禄2年9月11日、芭蕉は伊勢山田に至り、翌12日から西河原の島崎又玄方に滞在した。この句文は又玄の妻女のために草したもので、 俳諧勧進牒』『芭蕉庵小文庫』 、土芳 『蕉翁句集』 『一葉集』 に載るものである。

 将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪をきりて、会の料にそなふ。明智いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿にものせんといひて、頓て云けむやうになりぬとぞ。

ばせを

 月さびよ明智が妻のはなしせむ

   又玄子妻にまいらす。

昭和8年(1933年)、 斎藤茂吉 は西教寺で歌を詠んでいる。

西教寺の晴れたる空にひかりつつ雲ほびこりしときはいつくし


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