熈(※「冫」+「熙」)子の墓(光秀の子女、玉子嬢・細川ガラシャの母)
天正4年(1576年)11月7日寂
戒 名 福 月 真 祐 大 姉
作家の中島道子氏の「明智光秀の妻・熈子(ひろこ)」という小説序文に次のように熈子夫人のことが書かれている。
人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない哀惜を詠んでいる。その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。
比較的近年まで光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉その人であった。明智が妻の句は「奥の細道」の旅の途次、越前(福井県)は丸岡
に足を止めた折耳にしたことを後、伊勢の門弟山田
又玄
の妻に贈ったものである。
月さびよ 明智が妻の 咄せむ 芭蕉
まさにこの一句に人生感があらわれていると云えよう。
芭蕉の句碑
月さひよ明智の妻のはなしせむ
出典は「真蹟懐紙」。
平成5年(1993年)11月23日、芭蕉没後300年を記念して建立。中島道子書。
明智が妻
元禄2年9月11日、芭蕉は伊勢山田に至り、翌12日から西河原の島崎又玄方に滞在した。この句文は又玄の妻女のために草したもので、
『俳諧勧進牒』
『芭蕉庵小文庫』
、土芳
『蕉翁句集』
『一葉集』
に載るものである。
将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪をきりて、会の料にそなふ。明智いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿にものせんといひて、頓て云けむやうになりぬとぞ。
ばせを
月さびよ明智が妻のはなしせむ
又玄子妻にまいらす。
昭和8年(1933年)、
斎藤茂吉
は西教寺で歌を詠んでいる。
西教寺の晴れたる空にひかりつつ雲ほびこりしときはいつくし
私の旅日記
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