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小林一茶ゆかりの地



小林一茶旧居跡

JR総武線両国駅東口を出て清澄通りを行き、二之橋北詰で馬車通りに入る。


小林一茶旧居跡の標柱がある。


 彼の29年に及ぶ江戸生活の中で、文化元年(1804年)から足掛け5年住んだこの相生町の借家は一番安定したすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は再び弟子や後援者の家を泊まり歩く漂泊の身となります。

 それまで一茶は別当 愛宕山大嶋寺勝智院 (新義真言宗智山派)に間借りしていた。

大島稲荷神社


   卅日 晴

一日も我家ほしさよ梅[の]花

『文化句帖』(文化元年3月)

 文化元年(1804年)4月9日、愛宕山大嶋寺勝智院の第九世住職栄順法印が亡くなる。

 同年9月26日一茶は、俳友 祗兵(ぎへい)とともに本所相生町の借家を下見に行ったようだ。

   廿六日 雨 昼ヨリ晴

祗兵とゝもに、相生町見に行かへるさ両国茶店にて、

橋見へて暮かゝる也秋の空

『文化句帖』(文化元年9月)

祗兵は上総の人。本船町に住む。橋は両国橋。

両国橋


 同年10月11日、一茶は馬橋から流山、12日布川、13日布佐、17日 田川 と巡り、20日江戸に入る。翌21日 双樹 より家財道具が届く。

   廿日 晴 江戸入

   廿一日 晴 家財流山ヨリ来

見なじまぬ竹の夕やはつ時雨

寝始る其夜を竹の時雨哉

『文化句帖』(文化元年10月)

 一茶が 愛宕神社 から本所相生町に移転したのは、この時であろう。竹が植えられていたようだ。

   十四日 晴

はつ雪や竹の夕を独寝て

『文化句帖』(文化元年11月)

 同年11月20日、松井が来て、炭一俵を送り届けた。

   廿日 晴 松井来 炭一俵送ル

『文化句帖』(文化元年11月)

   廿七日 晴 随斎会出席

はつ雪に白湯すゝりても我家哉

『文化句帖』(文化元年11月)

   九日 晴 布川元貞来 其寛来ル

来るも来るも下手鶯よ窓の梅

窓あれば下手鶯も来たりけり

『文化句帖』(文化元年12月)

 同年12月21日、25日、秋田の野松が一茶を訪ねた。

   廿一日 晴 油 立川通御成

梅がゝやどなたが来ても欠茶碗

   野松来 冬扇来

   廿五日 雨 野松来 夜丑刻雷 始雪

『文化句帖』(文化元年12月)

 文化2年(1805年)1月18日、25日、2月4日、18日、祗兵は一茶の借家を訪れる。

   十八日 晴 富次郎宿 祗[兵]来ル
   廿五日 文国来 祗[兵]来ル

   四日 晴 初午 世恒 梅寿 祗兵来ル
   十八日 朝雨 南風吹 祗兵来

『文化句帖』(文化2年正月、2月)

 同年1月22日、24日、2月28日、29日、 一白 は本所相生町に一茶を訪れる。2月29日は 古田月船 も訪れている。

   廿二日 晴 野松 二竹 一白来
   廿四日 晴 一白来ル

   廿八日 曇 一白来ル
   廿九日 曇 月船 一白来ル

『文化句帖』(文化2年正月、2月)

   八日 晴 霜

梅咲くや見るかげもなき己が家

   十日 晴 禁足

梅咲くや見るかげもなき門に迄

『文化句帖』(文化2年2月)

 同年2月25日、26日、 双樹 がやって来る。

   廿五日 菜植る記 双樹来ル ハンロ来ル

   廿六日 双樹 泉路来ル

『文化句帖』(文化2年2月)

 同年3月2日、 巣兆 、文国がやって来る。

   二日 晴 巣兆来 文国来

『文化句帖』(文化2年3月)

   廿六日 晴

五月雨におつぴしげたる住居哉

宵々はきたない竹も螢哉

『文化句帖』(文化2年5月)

   十二日 大雨

気に入らぬ家も三とせの月よ哉

『文化句帖』(文化3年8月)

灯のとぼる家、とぼらざる家のあちこち見ゆる比(ころ)、庵にかへる。

鴈下りてついと夜に入る小家哉

『文化三−八年句日記写』

一茶44歳の時の句。

 文化3年(1807年)9月9日、一茶が其日庵四世 野逸 と金町の 香取宮 に行に行った帰りのことである。

 同年9月22日、双樹がやって来た。

   廿二日 晴 流山双樹来

『文化句帖』(文化3年9月)

 同年12月18日、一茶は流山から江戸に入る。

   十六日 雪

   十八日 晴 江戸ニ入

『文化句帖』(文化4年3月)

雪ちるや我宿に寝るは翌(あす)あたり

16日は「雪」だから、16日に流山で詠んだ句であろうか。

 文化4年(1809年)元日、一茶45歳。

元日も爰(ここ)らは江戸の田舎哉

『文化句帖』(文化4年正月)

 同年3月9日、 竹里 が本所相生町に来て泊まる。

   九日 晴 竹里泊

   十九日 晴 在庵 竹里かへる

『文化句帖』(文化4年3月)

同年3月20日、双樹が来て泊まる。

   廿日 晴 かつしか判者披露 双樹泊

『文化句帖』(文化4年3月)

 文化5年(1809年)2月8日、郷里柏原から義弟 仙六 がやってきた。

   八日 晴 仙六来 菓子一袋

『文化句帖』(文化5年2月)

 同年6月8日、竹里 が来て泊まる。

   八日 晴 夜小雨 竹里泊

『文化六年句日記』

 同年12月18日、一茶が郷里の柏原から江戸に戻ると、住んでいた家が取られていた。

   十八[日] 晴 旧巣を売文別ニ有

けふに成て家取れけりとしの暮

行年を元の家なしと成り[に]けり

『文化五・六年句日記』(文化5年12月)

文化元年(1804年)から足掛け5年住んでいたわけである。

一日 寅刻ヨリ辰刻迄晴天 不二南吹 巳刻霰 午刻晴大風

思旧巣

梅さくや寝馴し春も丸五年

『文化六年句日記』(文化6年正月)

一茶は本所相生町の借家を追われ、 成美 のもとに身を寄せていたようだ。

 夜酉の刻の比(ころ)、火もとは左内町とかや、折から風はげしく、烟(けぶり)四方にひろがりて、三ヶ日のはれに改たる蔀畳のたぐひ、千代をこめて餝(かざり)なせる松竹にいたる迄、皆一時の灰塵(燼)とはなれりけり。されば人に家取られしおのれも、火に栖焼れし人も、ともにこの世の有さまなるべし。

元日や我のみならぬ巣なし鳥

随斎のもとにありて乞食客 一茶述

『文化三−八年句日記写』

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