このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2004年
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下田内港
〜『伊豆の踊子』
下田に「
伊豆の踊子
別れの汽船のりば跡」があるというので、行ってみることにする。
下賀茂
(しもかも)
温泉
から国道136号で下田に戻る。
下田市観光協会で尋ねると、丁寧に教えてくれた。
近くに駐車場が無いというので、下田公園の駐車場に車を停めて、そこから歩くことにする。
下田市街を走るのは、カーナビが頼り。
ところが、カーナビは下田海中水族館の駐車場に連れて行った。
お茶ケ崎展望台に行く。
坂道の途中で、まだ2月だというのに菫
(すみれ)
が咲いていた。
お茶ケ崎展望台から下田港入り口を望む。
遊覧船サスケハナ号が見える。左に見えるのは須崎半島。
眼下に下田海中水族館。
ここから「
伊豆の踊子
別れの汽船のりば跡」まで歩くのは大変だ。
ペリー上陸の碑まで車で行く。
嘉永七年(安政元年−1854年)再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。条約締結により即時開港となった下田に、ペリー艦隊が次々と入港した。そして、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられた。
嘉永6年(1853年)6月3日(新暦7月8日)、ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊、
浦賀
沖に入港。
嘉永7年(1854年)1月16日(新暦2月13日)、ペリー、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再来。3月3日(新暦3月31日)、日米和親条約により下田が開港される。
ペリー艦隊来航記念碑
この記念碑のペリー像は、故村田徳次郎氏の作品であり、記念碑の前の錨は、アメリカ海軍から寄贈されたものである。
下田内港
下田内港は海ではなく、稲生沢
(いのうざわ)
川沿いにある。
大正2年(1923年)10月26日、
若山牧水
は東京
霊岸島
より伊豆下田港へ。
東京霊岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る
ほてり立つ瞳かき瞑ぢ乗合客の臭きにまじり海に浮べり
伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす
どどと越ゆる甲板の大なみ船室には五十のひとの生きてゐるなり
第7歌集『秋風の歌』
28日、下田港より灯台用便船に乗り、
神子元島
に渡る。
下田港より灯台用便船に乗りて神子元島に渡る、一木なき岩礁なりき
船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど涛黒くして進まざるなり
第7歌集『秋風の歌』
黒船来航で知られる下田は、踊子と主人公の別れの舞台となった港町です。ここはかつて東京〜大島〜下田間を就航していた汽船へ往復するはしけの乗船場所でした。踊子が主人公を見送りに来たところです。
「ああ、お月様、——明日は下田、嬉しいな。赤んぼうの四十九日をして、おっかさんに櫛を買って貰って、それからいろんなことがありますのよ。活動へ連れて行って下さいましね。」
芸人たちは同じ宿の人々とにぎやかにあいさつを交わしていた。やはり芸人や香具師
(やし)
のような連中ばかりだった。下田の港はこんな渡り鳥の巣であるらしかった。踊り子はちょこちょこ部屋へはいって来た宿の子供に銅貨をやっていた。私が甲州屋を出ようとすると、踊り子が玄関に先回りしていて下駄をそろえてくれながら、 「活動につれて行ってくださいね。」と、またひとり言のようにつぶやいた。
踊子が泊まった「甲州屋」は今でもあるが、当時の面影はない。
伊豆の踊子
別れの汽船のりば跡
はしけはひどく揺れた。踊り子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄ばしごにつかまろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それもよして、もう一ぺんただうなずいてみせた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打ち帽をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊り子が白いものを振り始めた。
踊子が学生を待っていた乗船場「藤井回漕店」大正中期頃
昭和9年(1934年)、
水原秋桜子
は下田港を訪れている。
下田港
大島の波浮の船来て炭を積む
伊豆の海の初鰤を獲し船かゝる
『秋苑』
昭和11年(1936年)4月23日、
種田山頭火
は
弁天島
から下田港を訪れた。
稲生沢川を渡ればまさに下田港だ、港町情調ゆたかであろう、私は通りぬけて
下賀茂温泉
へ。
『旅日記』
堂ヶ島温泉
へ。
「私の旅日記」
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