このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2008年
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中禅寺湖
〜男体山〜
東北自動車道日光ICから日光宇都宮道路へ。
日光口PAで東国三葉躑躅
(つつじ)
がきれいに咲いていた。
東国三葉躑躅
国道120号でいろは坂を上り、立木観音駐車場に車を停める。
日光山中禅寺
日光山輪王寺の別院、
天台宗
の寺院である。
本尊は十一面千手観音菩薩(立木観音)。
板東三十三所観音霊場
第18番札所である。
文明18年(1486年)、道興准后は中禅寺に登り通夜している。
この山の上三十里に中禅寺とて権現ましましけり。登山して通夜し侍る。今宵はことに十三夜にて月もいづくに勝れ侍りき。渺漫たる湖水侍り、歌の浜といへる所に紅葉色を争ひて月に映じ侍れば、舟に乗りて、
敷島の歌の浜辺に舟よせて紅葉をかざし月をみるかな
『廻国雑記』
中禅寺湖
日光白根山(標高2,578m)がかすかに見える。
男体山(標高2,484m)
男体山が中禅寺湖に映っている。
男体山山頂に二荒山神社奥宮がある。
遊覧船がやって来た。
中禅寺湖は遊覧船でもなければ、絵にならない。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は日光から中禅寺湖まで登っている。
馬返迄二里、上一里ハ難所、巓
ニ
権現堂・立木観音・牛石・神子石・清滝・湖水。
黒髪山、則此所也。三四月にも雪降。
[無都遅登理 五]
宝暦5年(1755年)6月2日、南嶺庵梅至は中禅寺に参詣した。
此程は長雨古木を埋むて海中のことし六月二日一天霽渡りぬけふや中禅寺 へ詣んと里羽子か先達して懐より取出し冠るを見て
白雨に出ものみせん畳笠
乗らぬ積りの舟に涼風
里羽
『奥羽の日記』
明和6年(1769年)4月、蝶羅は嵐亭と共に中禅寺を訪れている。
中禅寺 歌の浜といへる湖水有
岩が根や登れば法の苔清水
嵐亭
風薫るこもり人床し歌の浜
蝶羅
『松のわらひ』
嘉永5年(1852年)4月1日、吉田松陰は中禅寺のことを書いている。
ここを去ること三里、中禪寺あり、詣り觀ざるを憾みと爲す。社は率ね二十年を以て修造し、費用は四十萬金許りなり。社領は一萬三千石。
『東北遊日記』
大正3年(1914年)、
高浜虚子
は中禅寺湖を訪れた。
中禪寺湖畔の蔦屋といふのに著たのは十時前であつた。中宮祠に參拜して湖畔を歩いて見る。山上の湖は何處も似寄たものであるが、湖畔の樹の間に散在してゐる多くの貸別莊が大方西洋の大公使といふやうな人に占領されてゐるといふ事や、瑞西の畫葉書で見るやうな三角の帆を張たボートが湖面を走つてゐることなどは自然に此の中禪寺湖の特色を爲してをると言つていゝのであらう。
「汽車奥の細道」
昭和7年(1932年)6月11日、
与謝野晶子
は中禅寺湖湖畔の
米屋旅館
に泊まった。
中禪寺立木佛の千の手のゆびざすところことごとく霧
とほき世に勝道法師やまの木を佛身に變へ大悲閣成る
「冬柏亭集」
二荒山神社中宮祠
へ。
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