このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

昔の旅日記

「念珠関」〜温海温泉「萬国屋」〜
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羽黒山 から国道7号(おばこおけさライン)に出て、日本海に沿って南下する。


道の駅「あつみ」がある。

 「日本海に沈む夕日を眺められる絶好のポイント」だそうだが、夕日はどうしてもきれいに撮れない。

朝の海ならきれいに撮れる。


国道7号をさらに南下する。

新潟県との県境近くに鼠ヶ関がある。
 

 現在は「鼠ヶ関」と書くが、古代は「念珠関」だったようだ。「念珠関」は 白河関勿来関 と共に奥州三関の一つである。「史跡念珠関址」の石碑があったが、「内務省」と書いてあるので、戦前のものらしい。

 また、ここは源頼朝に追われた 義経 が日本海を船で渡って上陸したとされる地だ。

 元禄2年(1689年)6月26日(陽歴8月11日)、芭蕉と曾良は温海町に到着。 鈴木左衛門宅 に投宿。翌27日に鼠ヶ関を越えた。

 鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

『奥の細道』の記述は、これだけである。

 国道7号から弁天島に行く道の分岐点に『奥の細道』(越後路)の俳文碑がある。

 天保4年(1833年)、碓嶺は鼠ヶ関で句を詠んでいる。

   鼠ヶ関

秋立やいま迄踏し越の山
   碓嶺


 嘉永5年(1852年)閏2月21日、吉田松陰は鼠ヶ関へ。

 羽州田川郡に入る、關あり、乃ち庄内侯の置く所なり。驛鼠關と名づく。濱熱海を過ぎ大道を離れ、村里に入ること半里許り、温泉あり、是れを湯熱海と謂ふと云ふ。


 明治40年(1907年)11月1日、河東碧梧桐は念珠関を訪れた。

 三里来て鼠が関に着く。ねずみの関と読まず、ねずが関という。町の入口の手前に、関の戸でも立てたであろうと思われる小高みの丘がある。丘には四五本の古びた赤松がごうごうと風に鳴っておる。丘を一歩過ぎると、弁天岩というこの辺で名高い岩の景色が目の前に展開する。島の上には枝を垂れた松があって、宮島のような小さな鳥居も打ちかける浪の白沫の中に見える。


 昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、鼠が關に立ち寄った。

 鼠が關に立寄る、關の跡は内務省製コンクリートの大きな碑立ちあり、すぐに濱邊で、一山脈の突端、關跡をめぐつて海に入る、出羽越後の境、相當要害の場所であつたらう、


 国道7号を少し戻って、県道44号に入ると、すぐ温海温泉がある。温海川に沿った小さな温泉町だ。

萬国屋に泊まる。


萬国屋のすぐそばに、 与謝野晶子の歌碑 がある。


さみだれの出羽の谷間の朝市に傘して売るはおほむね女

 昭和10年(1935年)7月1日、 与謝野晶子 は温海温泉を訪れ、名物朝市風景を詠んだ。他にも「長岡に今朝雨を聞き夕べには出羽の温海の吊橋を行く」等、温海温泉で10首ほど詠んでいる。

 国道345号を上っていくと、対向車が来たらどうするのか心配になるような山道になる。とても国道とは思えない。

道が広くなった所に「しな織りの里ぬくもり館」があった。


 お客は誰もいない。若い女の子が一人で織っていた。東京から来たという。こんな山奥で、冬になったらどうするのだろう。

「しな織りの里」のそばに「関川の戊辰役激戦地跡」という案内があった。



「味方の戦死55人」とある。

 ここで慶応4年(明治元年)9月11日から9月27日まで戦われた。関川口は荘内軍最後の激戦地だそうだ。

こんな山奥でも 戊辰戦争 が戦われたとは。

国道345号で鶴岡に行く。

気分が悪くなるほど暑かった。

山形自動車道で 秋保温泉 に戻る。

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