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春日野隧道 2007夏編
(旧国道8号線)
福井県越前市
2007・10・28 来訪

前回の探索より約2ヶ月後。
夏場は猛烈な植生にて道を覆い尽くそうとしていた草も
10月も終りに近づき、晩秋とも言える季節ともなると
すっかり落ち着いた様子をとなっていた。

この日、敦賀より金ヶ崎隧道、阿曽隧道と「兄弟隧道」を順にめぐり、
最後に前回、内部探索を見合わせた春日野隧道へ。



切り通しを抜け、山中の二股へと至る。
前回の通り右折が隧道への道である。

さて、現地ではまったく気にもしなかった左折の道。
単なる作業用の林道かと思っていたのだが・・・

実はこの道、春日野道開通以前に出来た「春日野新道」であるらしい。
(「新道」の方が古くて紛らわしい)

阿曽隧道のレポでも少し述べているが、
かつて蝦夷地とのニシン貿易で栄えた河野村と武生を結ぶ為に
地元の豪商によって春日野新道は開削された。
豪商言えど民間の力だけで山中に新たな道を開削するのは大変だったと思われるが
開通後きっちり通行料を取ってある辺りが商人らしい感覚である。

さてこの道、二股から分岐し山を下って行くとR305と合流する手前で
川に跳ね返されるように不自然に方向を変え再び山中へ。
そして、山深くにて唐突に道は終点となる。
(下地図参照・東北から下ってくる道がこの道)

詳しい地図で見る
恐らく、かつてはR305とは橋で繋がっていたのでないだろうか?
このままR305を下っていくと丁度、旧河野村の中心地に入り
春日野新道のルートと一致する。

ちなみに春日野隧道の上部にはかつての春日野峠があり、
二股〜峠間は「春日野道」も「春日野新道」も同じルートを通っていたようだ。

さて、話を「春日野道」の方に戻そう。
二股から少し進んだ先に、前回は草が茂って気付かなかったへしゃげた看板があった。
書いている内容は例の如く「隧道崩壊・通行止め」
二股からの先の旧道は相変わらず草に覆われているが、
それでも今回は人一人歩ける分のスペースがちゃんと見えている。
前回、草に隠れてコケそうにさせた倒木。
今回通った際は誰かによって切断され、通り易くされていた。
何となく山仕事の人がやったと言うより、オブな方によって作業されたモノのような気がする。
しばらく進むと一瞬、行き止まりのように見える急角度のカーブが現れる。
このカーブの先には当然、アレがある訳だ。
2度目の春日野隧道。
画像では夏の時とたいして変わらないように見えるが
植物の茂り方はかなり前回よりマシになっている。
通行止め看板のうしろ。
前回はこの辺一帯1m以上ある草叢に覆われ立ち入る事が困難であった。
また前は気付く事は出来なかったが、看板の後には坑口を封鎖するようにガードレールが敷かれていた。
武生側は4輪でもジムニー辺りだったら内部進行できそうだったが、ガードレールが邪魔でこちら側は2輪でも中々入りづらそうだ。
実は今回はバイクにて武生側へ抜ける予定であったが、少々進入が面倒そう。

とりあえず徒歩で進入。
坑内は綺麗なレンガ積み。
路面はダートで、水没と言うほどではないが、やや大きめな水溜りが出来、水深も足首が沈んでしまうぐらいある。
良く見ると水底の路面に幾筋もの線がうねる様に引かれ、数体の黒い物体が水の中で蠢めいている。

イモリだ。

薄暗い隧道内の水溜りの中を自由気ままに行ったりきたりしている。
路面の筋は当然彼らが這った跡。
小さい4足の足をばたつかせながら泳ぐ姿は何か可愛らしい。

彼らに極力迷惑をかけぬようゆっくりと水溜りを歩く。
隧道内部。
延長についての参照になるものが見つからず、一部のサイト「65m」と記載されているものがあるが、目測でも延長100m以上あるようにみえる。
yahoo地図で見る所 、流石に200m以上は無い様で、恐らく「165m」の間違いなのではないだろうか?

敦賀側坑口を振り返る。
水面に移る外界の緑が美しい。

さて、①で途中まで述べた明治維新直後の福井県史。
「敦賀県」は解体され、嶺北は石川県、嶺南は滋賀県に吸収されてしまった。
滋賀県となった嶺南地方では特に混乱も起きず、
むしろ鉄道開通によって琵琶湖方面や近畿地方との結びつきが強くなっており
この地域分けは自然に感じられたのかもしれない。

だが、石川県に吸収されてしまった嶺北地方では大騒ぎとなっていた。
徳川一族たる越前松平氏のお膝元であった福井が、
「加賀百万石」の属州とされてしまったのだ。
これは旧福井藩士のプライドをいたく傷つけたようだ。
当然、多くの旧藩士が中央政府に抗議をする。

もしこの時、福井藩士達が後先を考えぬ者ばかりで
強硬な手段を使い政府に対し反対運動し続けていたら今の福井県は無かったであろう。
恐らく、政府から三島通庸のような「武闘派」な人間が送り込まれ
徹底した弾圧が行なわれたに違いない。

だが、幸運にもそのような事態には至ることは無かった。
これは幕末における福井藩の「松平春嶽」の治世が大きいだろう。

春嶽が藩主の時代、広く人材を集め藩政改革に努めた。
その改革には当然教育も含まれ、藩校「明道館」に洋楽所を授け
新しく入ってきた西洋学問を藩士子息達に学ばせた。
この時の春嶽が蒔いた種が明治維新後に花咲く事になるのだ。

そしてその中でもっとも大輪を咲かせた人物が「伊藤真」である。

旧福井藩士であった伊藤真は明治維新後、そのまま県の官史となり
地元・福井の殖産興業に務めた。
特に繊維業界のインフラ整備に力をいれ、福井の地場産業として根付かせた。

福井・足羽・敦賀と目まぐるしく県名が変わりつつも、
己の郷土「福井」の為に伊藤は県政を支え続けたが、
敦賀県が解体され嶺北地方が石川県に吸収された所で官史を辞する。
さすがに福井が石川に吸収されるのは我慢ならなかったようだ。

ここで、伊藤は「郷土・福井」を取り返すために行動に出るのだが、
あえて「政治力」で政府に立ち向かうのではなく「経済力」で勝負に出る事にした。

伊藤は福井経済の中核を作るために「第九十二銀行」を設立。
運営を取り仕切るのは伊藤だが、頭取には元家老を立てているあたり
「己はあくまで福井藩の一家臣である」
と言う彼の信念が窺える。
「第九十二銀行」は地元産業に数多く融資し、産業の育成大いに活躍する。

伊藤の活躍は留まらない。
当時、県都たる金沢に商工会議所設立の動きがあったのだが、
それよりも早く「福井商工会議所」を立ち上げる。
「会議所は県内に一つだけあれば良い」
と言う流れがあったのを伊藤はスピードによって封じ込め
福井による福井の為の商工会議所を設立させたのだ。

さて、当時の石川県は現在の石川県の範囲に加え、
富山県と福井県嶺北地方が同一県とされていた。
元々地域文化が違う所をムリヤリくっつけた「連邦県」とも言えた状態で、
あっちこっち利害対立が紛糾。
とても真っ当に県政が行なえる状況ではなかった。

ついに当時の石川県令「千阪高雅」は音を上げ、
石川県を3県に分割する事を政府に提案する。

そして、ついに明治14年12月に福井県が復活。
敦賀県解体から5年、旧福井県消滅より10年後の事だった。

だが、すべてが終わった訳ではなかった。
滋賀県から再び福井県に戻された嶺南地方の人々の中には不満を持つ者もいて
嶺北・嶺南の対立が残されたままだった。

そこで伊藤真が再び立ち上がる。
「敦賀から福井を結ぶ新たな街道を開削する!」
そうぶち上げたのだ。

嶺北地方は伊藤が作り上げた繊維産業があり、
嶺南には鉄道と港といった流通基盤がそろっている。
これ等を結ぶには中世からの旧街道である険しい木ノ芽峠では役には経たず、
どうしても大規模輸送耐えうる新道開削が必要だったのだ。
距離は出来うるだけ短く、勾配はゆるく。

この際に目をつけたのが旧・敦賀県が計画した「東浦道計画」
これをべースにしつつ、さらに車道として活用できるようにリニューアルした道。

それが春日野道である。

明治18年8月、ついに新道開削が始まる。
この新道は一つの隧道の改修と、二つの新隧道の開削の必要があった。
改修隧道はもちろん、阿曽隧道。
そして新たな隧道は金ヶ崎隧道と春日野隧道である。

双子隧道である金ヶ崎と春日野は競うように建設されたと聞く。
少なからず
「嶺南(嶺北)の連中には負けられねェ!」
と言う気持ちがあったのではないだろうか?
しかし、この建設競争に暗いものは感じさせず、
工事関係者達の無邪気な張り合いに微笑ましさをすら感じる。
この建設競争、金ヶ崎隧道が明治19年11月、一月遅れて春日野隧道が12月
と金ヶ崎の方に軍配が上がっている。
延長も金ヶ崎の方が長いのに随分と頑張った物である。

ともかく、春日野道は全線開通し山によって隔てられた
二つの地域が隧道によって文字通り風穴が開けられたのである。
その隧道の扁額には幕末の名君であり、
近世福井の間接的な立役者である「松平春嶽」の文字が刻まれている。

だが、春日野道計画の発案者であり、
福井経済界の始祖とも言える伊藤真の功績を残す史跡は以外にも少ない。
やはり彼には「福井藩の一家臣」と言う思いが強く、
あまり表に出る事を良しとしかなったのかもしれない。

だが、今の「福井県の形」があるのは彼の活躍なくしてありえないのである。



昭和33年に現R8となる有料道路「敦賀道路」が開通。
その後、敦賀道路が昭和43年に無料解放。
かつて春日野道と呼ばれた道は旧道となり、
殆ど人が通らぬ忘れ去られた道となった。

武生側坑口に崩壊の危険性が出て通行止め処置が取られ車両が通れぬ隧道となる。

あれほど人々に熱望され開通し、多くの旅人が通り抜けた隧道も
今では山中で静かに風を通すのみ。

しかし、人に必要とされなくなった隧道に新たな住人が住み着くようになった。
水溜りに住むイモリ、内壁の亀裂を巣とした蝙蝠。

どれも近年になって人間に追いやられ個体数が減りつつある生き物である。
そんな命達が人間に放棄した隧道を拠り所にして生きているのは
なんか皮肉めいたものがある。

前述の通り、自分はバイクでの隧道通り抜けを目論んでいた訳だが、
下らない自己満足の為に彼らの楽園汚してしまうのは、
とても愚かな行為としか思えなくなった。

それに、この隧道の中は不思議と落ち着いた気分になる。
中心部はあまり光が届かず薄暗いのだが、何故かしばらく此処に居たい気持ちとなった

自分は優しい暗闇の中、小さな命を見つめ続けていた。



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