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31日(日) 「2000年」
ホームページの開設をはじめとして、今年1年いろいろな事がありました。残念ながらコロは21世紀に21歳になる前に亡くなってしまいましたが、ほんとうにありがとうございました。コロ共々お礼させていただきます。そして来年も、今まで以上によろしくお願いいたします。
30日(土) 「準備」
コロの仏壇周辺を掃除する。そして新年を迎える為に、コロの前にも鏡餅を飾った。橙は嫌いだと思うんだけれど。
29日(金) 「届くといいなぁ」
東京・日本橋にあるお店で売られている手取りはんぺん。はんぺんが大好きなコロに、1度は食べさせてあげたいと思っていたのだが、とうとう実現しなかった。今日、時々立寄るスーパーで、そのはんぺんが売られている事を発見する。手遅れかもしれないが、買ってみた。
28日(木) 「こんな場所にも」
今から20年前と言えばコンビニもファミリーレストランも少なく、お正月ともなると開いているお店も少なかったので、この時期には買いだめをするのが当然だった。それはつまり、コロの食べ物も買いだめをしておく必要があり、いつも決まったお店が毎年コロのために「なまり節」の一番いい所を用意してくれていた。
今年も残りわずか、お店に母が買い物に行くと、奥から「なまりあるよ〜」の声。わたしたちがうっかりしているところで、思い出す出来事がある。
27日(水) 「2ヶ月」
早いものでコロが亡くなってから2ヶ月が過ぎた。午後6時55分に牛乳を供え、久しぶりのお経を唱える。しばらくして、動物病院からいただいた11、12月分のカレンダーの片隅に、診察時間を手書きで書き込んだ文字を見つけた。これを書いている時には、今の現実を考えてはいなかったのだろう。その後、以前から編集をしていたコロビデオのマスター版が完成する。作業だと思えるからか、最近ビデオでは涙が出なくなった。
26日(火) 「お心遣い」
最近、家に来た人が必ず聞く言葉がある。「コロちゃんは?」 そう、亡くなった事を知らない方が、部屋の真ん中で寝ていないコロに気づくのである。でもそんな時、必ずお線香を供えてくれるので、うれしい。
25日(月) 「プレゼント」
今年のクリスマスプレゼントは1箱のお線香。それは、自分の為にでもある。
24日(日) 「Christmas」
もしもサンタさんがいるのなら、コロに5分、いや1分でもいい。逢わせてほしい。
23日(土・天皇誕生日) 「あれ?」
時々勘違いする事がある。昨日のように、コロはいない事を意識しているつもりなのだが・・・。自宅に帰る途中に、ふと家を見た瞬間。布団の上で暖まって眠るコロが待っているような気がする。
22日(金) 「お土産」
北海道から沖縄まで、日本各地の特産品を取り揃えたお店に立寄る。普段見かけないおいしそうな物がたくさん揃っている。あれも・・・これも・・・そんな風に選んでいたのは全てコロの好みだった。気がついた瞬間、わたしは店を後にした。
21日(木) 「Yuzu」
寝たきりになったコロは昨年、ゆず湯に入った。と言っても、お風呂の大嫌いなコロ。お湯に浸けるのは指先だけ。ちょこんとつけて冷えないうちにすぐに拭く。カボチャは食べなかったけれど、せめて風邪だけはひかないように。今日コロはゆず湯に入ったかな?お風呂の蓋は開けておいたのだけれど。
20日(水) 「悲しみにむかって」
まっすぐに進んでいるのかもしれない。いや、そうではないかもしれない。現実が現実だと思える時まで、ゆっくりと過ごそうと思う。時の過ぎゆくままに。
19日(火) 「食事」
霊園のコロの前には猫缶が2つと試供品のドライが1つある。自宅のコロの前には、毎日猫缶を2、3個あげる。そして夜にはコロが食べそうなおかずをコロの前へ。これだけあるのだから、たぶん飽きずに食べてくれている事だろう。いや、コロの事だから・・・なんて、しなくてもいい心配などをしている。食べ過ぎてお腹を壊すのも心配だけれど。
18日(月) 「にゃ!」
コロに牛乳を与えるのは母の役割だった。わたしが家にいる時や、夜飲んだ薬を吐かないように夜中に牛乳を与えた「牛乳作戦」以外のほとんどを母の膝の上で飲んでいる。買い物などから帰ると、コロは顔をあげて待っている。そしてコロの目線はずっと母から離れない。気づかずに夕食の準備を始めたなら大変だ。
今でもコロに夕方、牛乳を与えているのは母である。牛乳作戦はもう必要ないが、やはりほとんど母が牛乳を供えている。それでも最近、ついうっかりしてしまう事があるそうだ。夕食の準備などを始めた時に、はっと気づくらしい。たぶんそんな時には、今までどうりコロが催促しているに違いない。
17日(日) 「戸惑い」
毎日、ここに記入をしながらふと考える事がある。これでいいのか・・・と。毎日のように悲しむわたしの姿をここに書くのは変な事ではないのかなどと。例えば「男らしくない」と言われても仕方の無い事を毎日のように書き綴るわたし。(「男らしさ」が何であるのかは、わたしには答えられないが)実際の所、日常のわたしは元に戻っている。楽しく話したり遊んだり。でも、そんな日常のほんの一瞬、頭の中をコロがかすめる時がある。それは笑顔で過ごしている時にでも。
16日(土) 「突然」
早いもので先日の納骨から、1週間が過ぎようとしている。実は納骨直後に思っていた事があった。納骨しても、さみしさは変わらないであろうと。家にお骨が有っても無くても、コロはいないのだから。ただ・・・今日一瞬ふと落ち着いたとき、今までコロが寝ていたところを何気なく見た瞬間、さみしさが込み上げた。これはどちらのさみしさなのか。
15日(金) 「一日が過ぎ」
その日のコロの様子を短い文章にまとめていた日々、それがある日からわたしの心境を綴る毎日となった。つい先日までは、それも四十九日までにしようと心に決めていたのだが・・・ここでやめてしまったら、わたしも止まってしまいそうなので続ける事にした。
今日、新聞の折込み広告を見ていた時、片隅に小さく書かれていた犬猫展の広告に目がとまる。そんな瞬間気がついた事があった。今までこのような催しなどを気にする事は一度もなかった。やきもちコロのために、他の猫ちゃん達に触れる事を極力避けていたから。唯一の例外は旅先で立寄った「猫の博物館」くらいだ。たぶん、コロが今でも元気なら、この広告にも気づく事はなかったのであろう。
14日(木) 「四十九日」
あの日以来、一度も動かさなかったコロの食器に薄っすらとホコリが積もっている。今日はその食器に牛乳を注ぎコロに供えた。結局は与える事の出来なかったアイスも冷凍庫の隅から出して、これもコロに供えた。日付が止まったままになっていたコロのトイレ時間表のホワイトボードも、今日すべてを消した。母は今日、お墓参りに出掛けたらしい。午後6時55分、わたしは知っているすべてのお経を家で唱えた。夕飯を供えると、元気に食べたり飲んだりするコロの姿が、わたしの脳裏にうつる。
家の中がだんだんとコロのいない生活に移行していく。でもこれはコロを忘れてしまう事でもなく、思い出にする為でもない。コロはいつまでもずっと、わたしたちの心の中で元気に暮らしているのだから。それはたぶん、みなさんの心の中にも・・・。
13日(水) 「明日」
とうとう四十九日がやってくる。ただ日付が変わり、あっという間に過ぎて行く1日だろうが、大切に過ごそうと思う。
12日(火) 「何点?」
連日のように続く幼児虐待のニュース。1日にパン一切と水を一口しか与えられなかった子が亡くなったと伝えられていた。こんな時、つい自分に置き換えて考えてしまう。コロが痩せてきた時、食い止められる方法があったのではないか?などと。いくら考えても、その時に戻れる訳でもなく、また無理矢理食べさせようとしても、コロは食べなかったであろうとも思うのだが、果たしてそうなのか?この子の両親が、偶然この様な結果に終わっただけで、この世の中にはたぶん「100点満点の親」は存在しないのだと思う。つまり私も「100点満点の飼い主」ではなかったのだ。
11日(月) 「声」
今日のテレビで8歳の子に癌の告知をした内容が放送されていた。その子はお母さんに「死にたくないよ」「生きられるのなら何でもするよ」「ママでなくてよかった」そう言いながら短い命を終えました。そんな時ふと思います。コロはわたしに何を言っていたのだろう。
10日(日) 「納骨」
動物霊園でコロの納骨を無事に終えた。コロも安心して眠ってくれる事だろう。「 今日のコロ 」
9日(土) 「最後の夜」
昨夜、布団に入って考えた。なんて俺はバカなんだろう、納骨の日付けを決めなくても良かったのに・・・と。だけど、コロの遺骨は霊園に行くが、コロの魂はずっといてくれる事だろう。そう考えると、少しだけ気分が楽になった。しかし、やはりコロに話し掛ける度に涙が出る1日だった。そして、その涙は夜まで続くのである。「 今日のコロ 」
8日(金) 「あと少し」
コロの納骨の日が近づいてきた。こんな事を言うと父に怒られるかもしれないが、父の四十九日までの日にちより短く感じられるから不思議だ。明日は納骨準備の買い物と今日オープンした「ねこぶくろ」に少し寄った後、日曜日のお昼、出発までの残された時間を、コロとゆっくり過ごそうと思う。
ねこぶくろ・・・東京池袋の東急ハンズにある猫のテーマパーク
7日(木) 「笑顔」
日曜日の納骨に向けて、いろいろな準備がある。今日は家と納骨堂に飾る写真を用意した。今まではコロの食べ物や用品を購入する為に出掛けていたが、コロが亡くなってからはこの様な形で出掛ける事が多い。写真を飾るフォトフレームも、先日コロが気に入ってくれそうな物をやっと見つけられた。用事はあと少しとなってしまったが、たぶんこんな時間が楽しいんだと思う。
6日(水) 「涙よ 止まれ」
突然、強い悲しみに襲われる事がある。どうしようもない事なのだが・・・。それはたぶん、昨夜布団に入るギリギリまで、コロのビデオの編集をしていたからなのであろう。部屋を暗くした途端に、コロがいない現実に気がついてしまった。あの時、ああすれば・・・などの後悔も。なかなか寝つけなかった。
先日いただいたメールの中に、このような文がありました。『突然ですが、DOOGENさんは“花*花”の「さよなら大好きな人」という歌は、ご存知ですか?
私がこの歌を初めて耳にしたのは、コロちゃんが亡くなった後のことでした。
そして、この曲を聴いて、最初に思い浮かべたのは、
コロちゃんとDOOGENさんの事でした。
この歌を聴く度に、コロちゃんのことを思い出してしまうのです。
ある歌番組の中で、“花*花”さんは言っていました。
「大切な家族が、亡くなった時に創った曲です」
ああ、やはりそうだったのだ、と私は思いました。
亡くしてしまった「大切な誰か」を想った歌であったのだと・・・・・・。
私は納得がいって、ちょっぴり嬉しいような、なんだか切ないような気持ちで、
今も時折、「さよなら大好きな人」を聴いています。』何度か耳にした事はあったが、意識して聴いていなかった。そこで今日CDを購入した。
コロが亡くなる2日前、10月25日に発売されたCDだ。
早速、帰りの車中でCDを聴いてみた。
前がはっきり見えなくなったけれど、繰り返し聴いてみた。
今は泣かない方がいいんだなと思った。
5日(火) 「あの時の」
10月27日と28日のビデオを見る。やはりちょっと辛かった。
4日(月) 「残像」
オフ会で出逢えた方々やコロに逢いに来ていただいた方々にお渡ししていた物がある。それはいつものコロを知っていただく為に、転落事故前から今年3月までのコロの姿を収めたビデオだった。今、そのビデオを新しい物につくりなおしている。よって、毎日元気なコロを見ているのだが・・・。振り返るとそこには、コロがいるような錯覚を覚える。
3日(日) 「残された時間」
自分で決めた事だが、コロが・・・コロの遺骨が家で眠っていられるのも、あと1週間となった。今までコロを撫でていたように、骨壷を撫でて話し掛け過ごしていた毎日。その対象物が無くなってしまう事は、やはりさみしい。
2日(土) 「きっと」
今までのビデオを見ていたら、すぐそばにコロがいるような気がした。そう感じた途端に、ピンポン玉を転がしてみた。牛乳も床に置いてみた。楽しんでくれている事だろう。
1日(金) 「悲しみって」
いろいろな猫ちゃんの写真を見ていると、ついコロの顔を思い出す。その次の瞬間、涙があふれてくる。それはたぶん、コロを思い出した途端に、コロがいない事も思い出すからだろう。コロがいなくなって既に1ヶ月が経過した。やはり本物のいない辛さは、なかなか乗り越える事はできそうにない。
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