このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

能登の風景

(2004年11月8日更新)

<ジャンプ!>  邑知潟地溝帯  |  碁石ヶ峰  | 厳門・ヤセの断崖  |  福浦  |  巌門  |  関の鼻海岸  
            曽々木海岸と真脇  | 長氏の残映
 |  その他(猿山岬、禄剛(ろっこう)﨑、見付島、千枚田)

彼方なる能登の岬は
こゑありて
波のはてに
日もすがら
呼ばれるごとし
彼方なる能登の岬は
(三好達治)

能登への旅の入口は、近畿方面からなら、まず千里浜からであろう。千里浜の波打ち際に、自動車を止め(千里浜ドライブウエイは、砂が細かいので、自動車で走ってもタイヤが沈んだり空回りすることが、ほとんどありません)、奥能登の方を見やると、まさに三好達治の詩にあるような感慨を覚えます。下の写真は、そんな千里浜の夕暮れと昼間(曇りの日の為、ちょっと暗いですが晴れた日は真っ青な海と空がとても美しい)の写真です。羽咋にはまだ沢山の観光スポットがあります。
千里浜の日の入り千里浜を走るバス

 下の写真は地理学的に有名な 邑知潟地溝帯 である。碁石ヶ峰の頂上付近から撮影した。この地溝帯の出来た経緯は科学的には、もともと平坦な台地だった所に2本の平行な亀裂が入り、逆ハの字型に横に広がって真ん中の部分が、ズリ滑り陥没したものである。日本では、長野のフォッサ・マグナについで、ここが有名である。東側の(写真では向こう側の山系)が美眉山山系である。名の由来も美人の眉のように山頂の高さが同じ山々が連なっているところから付けられた。この当たりが古代の能登の発祥の地であり、畝源三郎の生まれた土地でもある。
邑知潟一帯は、また昔、朱鷺(とき)が沢山生息していたことでも知られ、「朱鷺の里」として小説やドラマにもなったことでも知られる。

碁石ヶ峰

 一番左の写真は鹿島町碁石ヶ峰の最近できた風力発電である。碁石ヶ峰は県立自然公園で、標高461メートルの山頂からは立山連峰や能登半島など360度のパノラマが満喫できます。また山頂は、富山県氷見市と石川県羽咋市、石川県鹿島町の境界となっています。上の写真の手前の建物は、能登少年自然の家である。山麓の原山大池(右2枚の写真)周辺では、ハイキングやキャンプ、釣り、ボートなどが楽しめます(碁石観光) TEL:0767-77-2020
 碁石ヶ峰の名は、山頂にある5個の大石(花崗閃緑岩)に由来します。現在は、漢字の「碁石」をあてていますが、昔は「御石」「五石」も使われました。麓の羽咋市の神子原には、この霊石を祈る里宮としての御石神社があります。神子原・寺尾の人々がおこで雨乞いをしたとの言い伝えがああります。鳥居は寺尾口に建てられていました。鹿島町の高畠側からの登りが急峻で、高畠からは頂上の碁石ヶ峰がよく見えないのに対して、神子原・寺尾側からは、登りはなだらかな尾根伝いで、頂上もよく見えたことから、こちらの方が碁石ヶ峰に対する信仰が強かったのだと推測できます。
  石動山 から碁石ヶ峰までの峰続きは、「いするぎ験者(げんざ)」の廻峰行(修行の一種)の舞台でした。神子原の隣村、羽咋市福水の谷頭にアカ池と古い密教の法具の錫杖・鐃(にょう)・銅鋺(どうわん)が発見されました。峰入りにあたって灌頂した修行僧を思わせる遺跡です。鹿島町の久江原山の鎮守は、五社権現の剣宮(つるぎのみや)の末社でありました。井田の不動滝も水行の聖地で、尾根から下る道がありました。碁石ヶ峰の雨乞いの修法を実際にしたのも、里人の要望を受けたこうした修験者の可能性が高いと思われます。

 

福浦
 左上の写真は、福浦の灯台である。日本で最も古い木造洋式灯台だが、現在のものは明治9年に建てられた(以前のものは慶長年間に作られたものだった。おそらく、立て替えられても、今だに使われつづけて残っている灯台として日本最古という意味だろう)。右上と左の写真は、どちらもこの灯台が建っている福浦の町、右上の写真は、左の写真に写っている高台のあたりから撮影している。
 この近辺(福浦周辺)は、古代、極東の沿海州にあった渤海から度々使節が漂着し、そのために当時の日本の迎賓館である能登客院が建てられた地区でもある。江戸時代は、避難湊とし栄え、30数軒の遊女屋があったという。
巌門
 下の写真9枚は、松本清張の『ゼロの焦点』で有名になった厳門である。羽咋郡富来町にある。厳門とは、洞窟で、幅6m、高さ15m、奥行き60mある自然のトンネルとなっています。福浦からここまで自動車で数分の距離である。
↑厳門の一風景↑厳門の一風景
↑厳門の確か幸福の何とか橋という橋の上から撮影。↑厳門の洞窟をそこに降りる階段の途中から撮影。
 ←厳門の洞窟前の砂利石の浜(崖下に広く畳を敷いたように広がる波食台)から鷹の巣岩(尖った岩)の方向を撮影。岬のように見える先端の岩は、実は島で、碁盤島と呼ばれている。
 鷹の巣岩は高さ27mあり、岩肌に松が茂っている。昔、鷹が巣があったので鷹の巣岩と名づけられた。
 また、碁盤岩だが、高さ50mの岩島で、面白いことに島上中央に湧き水があり、中に碁盤形の岩の塊が沈んでいることからこの名がついた。
 源義経が、奥州へ下る途中、ここに来て隠れていた時、この碁盤島をしばしば訪れ、碁を楽しんだという伝説が今も語り継がれている。
 
↑厳門の洞窟(反対側にトンネルのように抜け出られます)↑厳門の洞窟(内部から外に向かってシャッターを切った)
←厳門から富来市街地方面へ向かう途中撮影した一枚
 ←厳門から北へ向かい富来町の中心街に行く途中、左手の海中に注連縄を張り渡した大岩・小岩がそそり立っています。機具(はたぐ)岩と呼ばれています。また三重県の二見岩に似ていることから、能登二見とも呼ばれ景勝の地です。
 能登上布の製法を教え、織物の神様として有名な能登比咩神社の神様が、賊徒に襲われた時、この海に機具を投げたら、たちまち機具に似た巨岩になったといいます。この伝説にちなみ、古人は、「織姫の立てしや磯の機具岩あや織りかくる波の数々」と詠んでいます。大岩の上には、能登比咩社神の小さな祠を祀っています。ただし祭神は、案内板を見ると、どういうわけか名木入比咩命(ぬなきいりひめのみこと)となっている。
関の鼻海岸
関の鼻海岸は、日本海側最大のカルスト地形で、石灰岩特有の穴の開いた岩肌がよく見られます。特に、かぶと岩や義経一太刀の岩、弁慶二太刀の岩などが見応えあり、また近くにはヤセの断崖や義経の舟隠しなどたくさんの見所があります。 
 
 左上写真は、ヤセの断崖である。 日本海に突き出した高さ約30mの断崖です。ここも松本清張の「ゼロの焦点」の舞台となりました。断崖の先端に立って海を見下ろすと、思わず足がすくみ、大自然の凄さを見せつけてくれます。地名の謂れには、土地が痩せていたからとか、この断崖の上から海を見下ろすと、痩せる思いがするからとか、というところから名づけられたといいます。右上の写真は、どこか忘れたが関の鼻海岸の一風景である。
 この写真は、ヤセの断崖のすぐ南側にある玄徳崎である。どういう名のいわれかは知らないが、三国志の熱狂的ファンである私は、その主人公でもある蜀の劉備玄徳を想い、好きである。↑ヤセの断崖に近いところで撮った関の鼻海岸の風景である。
 玄徳崎の向こう側(南側)には、義経の舟かくしと言われる両側に屏風を立てたように深く入り込んだ海の入江がある。見たとおり断崖がまるで、真っ二つに裂けたように、両方から迫った入江の地です。ここに48艘を隠し、義経一行が潜んでいたといわれています。
 義経主従が、頼朝の追捕を逃れ、能登を通って奥州平泉に逃避行する途中、海難を避けるため、能登のこの関ノ鼻付近の海岸の絶壁の岩の間に、船ごと入れ、難を避けたと言われています。
曽々木海岸   真脇
↑上の写真は、輪島市曽々木海岸にある窓岩の夕暮れの風景です。奥能登の仕事の帰りに立ち寄り撮影してきました。明るい時も結構綺麗なんですが、立ち寄った時間が、時間なので、悪しからず!↑上の写真は、能都町真脇の風景です。この麓の方(写真では見づらいですが、円筒形の茶色い建物のちょっと向こう側あたりに縄文時代の 真脇遺跡 があります。全国でも珍しい巨木のサークルを検出するなど全国的に注目を浴びている遺跡です


<長氏の残映>
下の写真は、歴史のコーナーで将来的に七尾以外の能登の歴史も紹介しようと思い、取材を兼ねて撮影してきたものである。

上の写真は、穴水町の長谷部神社のものである。ここは、能登国大屋荘(おおやのしょう)の地頭で、「平家物語」でも著名な鎌倉武士の 長谷部信連(はせべのぶつら)公 を祀る神社である。信連公が健保(けんぽ)6年(1218)に逝去に先立ち自作の肖像を刻んで穴水町字大町・来迎寺(らいこうじ)の御影堂(みえいどう)に安置したのが、当社の起こりである。江戸時代には武健大明神と称し、昭和10年、縁の深い穴水城の麓の現在地に移した。寛永21年(1644)建立の本殿は神社建築に特異な禅宗様で、殿内の宮殿は漆塗りに極彩色を施した唐破風(からはふう)の精緻なものである。7月の例大祭(長谷部まつり)は、多彩な行事で賑わう。上の写真は、穴水城(本丸)跡の写真である。穴水城の名は、天正6年(1578)の長連龍宛・柴田勝家書状の「穴水城」が文字の初見。「長家家譜」によれば8代正連から21代連龍まで約200年余りの長家の居城として知られる。天正4年(1576)より同8年(1580)にかけて幾度か穴水城の攻略奪回が繰返されたが、同9年(1581)に 前田利家 が能登に入部し、支配権が及ぶ中、領内は安定し、同11年(1583)まで穴水城の存在が確認できるが、その後時代的役目を終え、間もなく廃城となった。


門前町 に入る手前、鹿磯という港町から海岸沿いに少し歩くと、海からおよそ300m、まっすぐそそり立つ断崖が見える(下の右の写真を少し向こう側に回ったあたり)。能登半島国定公園中、最も規模の大きい海食崖である。この一帯には昔、猿が沢山いたと言われるので、猿山岬と呼ばれている。断崖は約4kmにわたって続き、主として第3紀の礫岩よりなっている。最後部に近いところにあるのが、左下の写真の猿山岬灯台である。
このあたりは、能登随一の釣り場であり、鯛や鱸、メバルなど、四季を通じて豊富な漁獲が楽しめる。
 下の写真は、輪島の千枚田の写真です。能登の有名な棚田です。実際には、1.2㌶ほどの土地に二千枚以上あるそうです。それで千枚田というそうですが、別の説では、どれもこれも狭い田圃ばかりなので、「狭いだ、狭いだ(狭い田)」が千枚田となったというものもあるようです。中には一枚1㎡ほどのものもあるそうです。そんな狭い田を物語るエピソードを一つ。
 “蓑の下耕し残る田二枚”
 昔、百姓夫婦が田植えの準備の田起こしを終えて、さあ帰ろうとして念のため自分の家の田圃を数えてみると、どうしても2枚足りない。不思議に思って傍に置いてあった蓑を取り上げたところ、下に2枚隠されていたという話です。
 最近、農作業(田植え、稲刈りなど)の人手がなくなり、体験田植え(あるいは稲刈り)と称して、輪島市民や、観光客、さらには外国の大使館の職員にまで、協力してもらっているようです。

 もう一つ俗謡を
 “二百十日も事無くすんで 婆さ出てみて南無阿弥陀仏(なんまいだ)、爺さ出てみて千枚田”

千枚田での私(畝)の記念撮影


 下の写真は、珠洲の見付島である。昔、弘法大師が布教の途中、佐渡から能登に渡られた時、まず目についたのがこの島だった、というところから見付島と呼ばれるようになったという伝説がある(なぜなら弘法大師は実際には能登に来ておらず、これは作り話にすぎないからだ)。では、弘法大師が来ていないところに、誰がそのような伝説を広めたか?それは地元石川出身の泉鏡花の作品にも出てくる高野聖が、そのような話しを各地で作って布教に努めたのである。話しは戻って、見付島は能登内浦に広く分布している珪藻土泥岩よりなり、高さおよそ30m、頂上に帽子のように常緑樹を載せている。正面から見上げると、まるで軍艦の舳先から見た姿にソックリ、ということから軍艦島というあだ名も付いている。

見付島(珠洲)

下の写真は、能登半島の先端禄剛崎の岬である。禄剛(ろっこう)とよばれるようになったのは、いつ頃かわからないが、この地は古くから狼煙(のろし)と言われている。それは昔、この地には北海警備の要衝として狼煙台が設けられ、北海道がここに通じており、事ある時にはここで狼煙たいて急を知らせたのだということである。現在は岬の台地に白亜の灯台が建っている。台地は海岸段丘と言われ、かつて波打ち際に形成された平坦な堆積面が、その後の隆起によってもちあげられたもので、高さおよそ50m、殆ど垂直に屹立しており、根元に広大な波食台を広げている。晴れた日には台地上から、遠く佐渡ヶ島を望むことができる。この日も佐渡がかすかながら見えたが写真には撮ってない。かつてこの沖合いは、北海道から佐渡沖を経る日本海沿岸の航路にあたり、ちょうどこのあたりが風の変わり目になるところから、白い帆を張った沢山の帆船が、水平線を埋めるかのように風待ちをしていたものだという。
禄剛崎で海をバックに私(畝)が記念撮影禄剛崎灯台をバックに私(畝)が記念撮影

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください