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「七人同志」
康保三年二月二日薨ず 御寿七拾五齢にして近江国蒲生郡小浅井村に葬り佐々貴神社と祀り玉ふ 因りて子孫佐々貴氏を称す 其後右衛門佐(スケ)朝雅に至り戦功を以て六角東洞院と呼べる邸宅を賜り此所に移りなせしより又六角氏とも称せし事あり 子孫近江の南部一帯を領し屡々戦ひて武威四隣に輝き日の天に登る勢ありしが第八世義賢(ヨシカタ)に至り浅井朝倉等と結んで信長に抗し永禄十二年九月遂に大敗、将に亡びんとせしが天未だ其家を棄ず再び起て同国の愛知犬上阪田伊香浅井高嶋等の六郡を得、次で尾張豊浦の荘二万貫を賜りぬ 此時居を京極の邸に移す 之より京極を称するに至れり 後鎌倉の桐ガ谷に卜居せり 依て又桐谷とも呼べり 射るが如き月日は忽ち過ぎて子孫更に播州龍野城へ移りぬ 斯くて万治元年戌二月十五日敦実親王より三十一世の裔孫京極刑部少輔宰相公は徳川三代将軍家光公より讃岐丸亀城を賜り同年五月五日彼の龍野城より此城に移りたり 是ぞ飯野山西北平原の中に高樓白雲を衝て聳え築きたる亀山城に子孫が二百五十余年間太平の夢に栄華の花咲かせし丸亀城主京極家の始めなり 宰相公第四世の孫は京極佐渡守高矩(タカノリ)公にして其明君たるや疑ふべからずと云ふとも当時封建の悪弊必ずしも明主の志下に通ずるものにあらず赫燿たる日光猶暗雲に蔽るヽ事あるにあらずや 奸吏は間にありて君一向(ひたすら?)を塞ぎ民情上聞に達せず領内四郡の民は朦々たる雲霧の中にありて君徳彼等を照さず奸吏の毒矢は百鬼夜行の夫よりも物凄く人の憂ひ民の苦痛は遂に堪え難くして茲に寛延三年午正月廿日領民相謀りて強訴事件を起しける之ぞ名高き西讃百姓騒動即ち所謂七人同志の世に知られる所以なり
右十ヶ条之趣聴届願之通り申付候
権兵衛氏は元禄十六癸未正月廿八日西讃三野郡笠岡村字天神に生る其祖先は阿 波国徳嶋の城主四国守護職たりし正四位下信濃守小笠原太夫清長第十一世の裔 小笠原弾正少輔武国応永廿一年正月仝国三好郡白地城主に封せられ始めて白地 大西城主と称す武国の孫大西備中守■養(アキヨシ)の長子上野介長清は天正十三年五月豊臣秀吉の上意として蜂須賀阿波守家政を以て同国の領治と為すに際し長清知行一万石を賜り仝国坂東郡勝瑞城に移る天正十七年故ありて一城離散す長清長子大西山城守頼春は仝国三好郡漆(シツ)川の荘を領す二男頼国は国畑石見守と称し性強大弓達人にして国畑の荘を領す三男頼光四男頼渡共に仝国馬路の荘に分れて住す父上野介長清は浪々の身と為り諸国を歴遊し終に西讃観音寺の領主高坂丹羽守の許に寓居し行年五十五にして病死す又五男頼度通称大西孫治郎は幼少なりし故母諸共叔父讃岐三野郡麻の城主大西左馬頭長頼の許に頼り撫育せらるゝ事となりしが不幸にして叔父左馬頭の家来深川孫太夫なる者の逆心の為落城左馬頭討死の悲運に際し母子及乳母諸共遁れて仝郡笠岡村に来り民間に住し後年此処に一家を興す頼度行年四十七才にして寛永三年丙寅七月十日卆す仝村字下津に葬り子孫大西大明神と崇み祀る是ぞ即ち笠岡村大西家の祖なり頼度の玄孫たる大西治右衛門は家富み夫妻睦まじく其日を送る中に玉かとまごふ男子出生せ り此れ即ち義民権兵衛なり母は仝郡大野村高橋氏の女にして綾野と呼べり権兵衛幼より父の業を助けて農を励み他道の志薄く早十六才の春を迎へ始めて仝村七尾山の麓に住み五穀を食せず只木の実草の葉或は根茎等を食する木喰仙人を師として読書算術を修め又経書に通せり齢廿才の頃より帆山耕雲斉と称する関口流の達人に従て剣柔二道を鍛へ三年の星霜を経て其奥義を極め其他軍学兵法に至る迄皆耕雲斉の教を受け奥秘の巻を授かり名声附近をなびかしぬ然るに生者必滅は定理にして享保七年二月父母共に寸暇の惱みにて黄泉の客となる後の弔ひおさ々々怠りなかりける其の暮耕雲斉の息女お米を娶り睦まじき中に四人の男子を挙げ一家団欒の楽み外目にも羨しき程なりしが延享二年の春より四ヶ年続きの旱魃にて一滴の雨だに降らず草木は悉く枯れはて地は割れて亀甲の如く五穀を種蒔するも実を得ず人々今は只家にありて一縷の望みを天の慈悲に繋ぎ雨よ水よと祈る其声を聞くたびにいと憐れなり今吾人の知る所ならずや今世の楽園地も嘗ては焼熱地獄にてありしなり嗚呼天は是なるか非なるか斯くて寛延二年中夏に至りて四年間の巨雨は一時に降れり河は溢れ山は崩れ地は一面の海にして人畜溺る者数を知らず かヽる天災に遭遇し民は赤貧洗ふが如く一家分散四方に流浪して悲惨なる大悲劇は此地に現出せられたり かヽる惨状を度外視し無情にも丸亀藩の奸吏大庄屋等は無法なる税を課する外諸費諸掛り等年を追て増加しぬ例えば疂建具水車牛馬唐箕万石味噌醤油酒酢等の日用品に至る迄重き税を課し徴収を厳にして未納者あれば村の庄屋に呼出されて厳しき責を受け果ては郷倉の裡に呻吟する者いと多かりき かヽる場合にも上は益々圧制を旨とし民情を察せざるに至る 如何に穏順なる四郡<那珂・多度・三野・豊田>の民も忍ぶに忍びかねて日毎に突鐘を合図に所々に集散離合するもの多く世の中何となく穏かならざりき 此時権兵衛は密に四郡の内を見廻りて世状を視察し旁々貧者へは夫れ々々品物を施しけるかくて之等の風情早く上に聞えければ追手厳しく果は森の中谷の底神社の床の下などにて寄合い話し合い茲に評議纏り村々より人を撰びて其儀大庄屋へ歎願書を差出せり然るに大庄屋は其事己れに不利なるを見て書面をばわが手許に控へ表にせざりしより人々怒りて遂に義民権兵衛を推して主将たらん事を頼みぬされ共思慮深き仝氏は容易く聞べくも見えず又聞かざるにもあらず熟(ツ)ら々々考へけり去程に人々再び頼みければ情に冨み義に厚き仝氏は辞するに言葉なく直ちに諾しぬ之れより人々を退け返し独り室内に籠りて思へらく此度の儀は何れの大庄屋互に言ひかはして皆其書々を己が手許に控 へ表にせざるに相違なしさる時は今更同じ事繰り返さんも愚かなりよし後で己が骨身は碎かる罪あらんも之れ民の為なれば惜しき命も何かあらんいざ吾主導となりて四郡の民を引き連れ勢力を以て直様殿へ訴ふる所謂強訴の手段に出づるに若かじと、さはあれ之容易の事にあらねばさる人々に議らんと帆山金右衛門方さして赴きけりかくて再三再四談合の末遂に一味同胞七人を得、互に血判の誓紙を取りかはして寛延二年十一月下旬より其事に取り掛り翌三年午正月廿日愈百姓騒動即ち強訴の大事を起したり之より先此事早く官へ聞えければ大庄屋は手を換へ術を改めて権兵衛が心を釣込まんと金銭或は物品天神弥一郎迄送りたり又は威を以て服させんと厳しき捕手来りしなど様々策を運ばしたりされど仝氏は密に参籠して(当時字賀洲神社へ祈願数週間宮殿の床下に篭り神に誓ひ強訴を果せりと云ふ)只留守なりと云はしめしかば世人も仝氏が行先定かならぬに只驚く外はなかりけりかくて此十八日と云ふに至り突然四郡村々に端ばし迄一時に落文を以て「一、此度御役所へ願の筋に依て存立有之候其表被申談御発趣可有之ければ来る廿日巳の刻<阪西は本山河原、阪東は天霧山麓>まで罷出可被申候若不伺之処於有之者早速令輩は鎌鍬其余雨具等御持参可然候以上」と認め散らし置き仝日早天各所の鐘を合図に西部は本山河原に東部は雨霧山麓に人数を集め主導者権兵衛は其余六人は豫て用意の黒装束の晴着いかめしく揃ひに着なし権兵衛の指揮に依り甚右衛門金右衛門東部将となり西部は権兵衛自ら将となり金右衛門兵治郎弥一郎嘉兵衛の四名副たり(特随伴者新五郎平九郎)権兵衛は衆に告げて曰く、(今度の事は殿様に恨みあるにあらず只君の御側に居る好吏をのぞき民情を上に通ずるの途を開き苛税を 寛(ユルヤカ) にせられん事を嘆願するにあり故に不仁なる大庄屋を懲しめ無実に郷倉に苦しみ居る百姓を救はん為なれば我等七人は思ふところあり十三ヶ条の願文を草す強訴の許(カノ)ふたる時は死刑は覚悟の事七人の外誰人にも難儀かけぬ為協議をせざりし義と知り玉へ)と語れば七人の高義に感じ血をすヽりてそむかざる事を約す将大西権兵衛は郡民を引き列伍正しく岡本村庄屋へ押寄たる所庄屋太郎兵衛は降参せり是より同村百姓の先鋒にて観音寺坂本郷なる大庄屋前谷四郎右衛門屋敷へ押寄せ瞬時に家屋残らず巻潰し其勢琴弾山麓に集りぬ彼等は皆抑圧を怒りて起れる者なれば不言の内に一致して其勢ひ餘の一揆とは自然趣きを異にせりかくて丸亀藩より取押の兵士三百余人早馬にて厳しく塵を蹴て本山川迄馳せ来りしが制止する見込相立ざれば空しく城下へ引き返されたり又東部の勢は不仁の聞えありし三井村なる須藤三郎大庄屋の居宅 を巻倒せり翌々廿二日東西両勢合同して善通寺村大庄屋楠助五郎方へ押寄たる所早くも弘法大師誕生所なる善通寺客殿を仮陣となし殿の御代使として軍奉行兼大目附役加納又左衛門勝重其他御用人衆中数十人御出陣せられたるを聞き茲にて殿の御代使と判断を開き前に掲げたる十三ヶ条の願文を奉りたれば願の通リ直ちに許可を賜りたり依て一揆は一先づ望みを遂げて夫々家路を指して帰られたり斯く強訴の事件は光栄ある結果を以て局を結ばれたり之れ只に下民の疾苦を救ひたるのみならず亦丸亀藩の弊政を一変したるものにして其功労は千歳の下尚銘じて忘れざるべきに如何せん当時専制の世は理を非に代えて責呵する事珍しからずかくて千載の英魂が此の不運に遭ひし悲惨なる物語は尚次に描き出さるヽなり
虎の子は猛獣を噛むと古き譬の如くなるがさてお米は剣道達人帆山耕雲斉の息女にて大西家へ嫁せしより孝道は勿論夫に貞、婦節旦日の如くにして四人の子を撫育せる至らざる処なかりしが悲運の人にやありけん夫権兵衛が強訴の首魁者なりとて召捕りと成るに際し冤罪に因り子供と共に<次男源次郎三男平七四男亀之介(助の誤り)>捕れとなれり此くてお米は日々深き牢獄の下に坐して行儀責なる苦を受けたり然れども此お米と云ふは最も心強き女なればそれをも意とせず早幾日と云ふ数知らぬ日数を経て肉落ち顔はやつれて只死を待つより外はなかりけりかヽる時にも子を持ての親心何時とて我子を忘れやるべきさる程に或日獄吏の耳語(ササヤ)き噺に権兵衛は一族残らず斬罪と定まりたると云ふ事を聞き己が身を忘れて泣き伏し漸時(シバシ)頭も揚げざりしが遂に心や定めけん小指を噛切り滴る血にて側なる壁へ亀之介一人は助け玉へと文字明らかに書き残し自らの頭を牢柱に擲つけ微塵となしてぞ果てたりける嗚呼焼野の雉子夜の鶴いかでか我子を思はざりき此くて此事早くも御目附役の御聞きに達し亀之介一人は助けやりたしとの思召を以て笠岡村庄屋大西千右衛門を御呼出と相成り亀之介と申するは権兵衛の孫には無之哉と其子たる事は克く知りながら然りと云はしめん斗に仰せありしも御前を恐れ震へる庄屋は何の意味やらと寸時(シバラク)答をなさず恐入てありければ稍ありてまた克く受け賜はれ彼の亀之介は助けやり度くは思はるヽも一旦定めた掟は破る事出来がたく若し亀之介が権兵衛の伜とあれば余儀なく刑に処せねば成らず彼は孫であらふと仰ありしが庄屋は其意を解せず頭をあげ亀之介は権兵衛の倅(セガレ)と承知して居り升と正直一辺に云ひ放したり嗚呼正直も此所に至りては愚のそしりを免るべからずやんぬるかな豎子(ジュシ)遂に事を誤れり哀れや亀之介は刑吏に引れ金倉川の刑場にて父兄と共に朝の露と消え失せたり却説お米は惨死を遂げられしも女義徹貞女の鑑と世の諸人に賞せられ誉れは今に残りける「目で見る 中讃・西讃の100年」(和田 仁 監修、2000.7.7 郷土出版社 発行)によれば、




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