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「七人同志」
「西讃七義士傳」
(壮絶な内容のため、あえてネットに掲載させていただきます。)
(注:
白字
は判読難、特に意味が通らないものは右側に原本の字を添付した。ネットに表示できない漢字は同義語に置き換えるか、■で表示)
序
苛酷な藩政と飢饉に苦しむ農民を救うために今から二百五十年ほど前の寛延三年に丸亀多度津両藩において大規模な百姓一揆があった
参加農民は七万にも及び首謀者は次の者であった
大西権兵衛 帆山金右衛門 大野兵治郎
碑殿甚右衛門 三井金右衛門 天神弥一郎
南 嘉兵衛 大工 平九郎 虚無僧四郎右衛門
この件については既に佐々栄三郎氏が「西讃百姓一揆始末」として発表されているが、この度大西家の好意により故大西鳩居氏の詳細な手記を貸與されたので、改めて義士の心を深く偲びたく、宮川重市氏の尽力により「西讃七義士」として刊行したので茲に謝意を表します
昭和五十五年一月 筆岡郷土研究会 印
御領主京極家之略譜
京極氏は宇多天皇の後裔なり 天皇第七の皇子を敦実親王と申し奉り寛平四年壬子正月朔日御誕産被為世時安胎を祈るに生れ玉ふ日、鷦鷯(ショウリョウ、ミソサザイ) 産屋に入る故鷦鷯(ササギ)皇子と称す 一品に叙し、式部卿に任ず 仁和寺の宮と号し最も和琴に妙なり 流泉啄木等の秘曲此親王より世に伝ると云なり
康保三年二月二日薨ず 御寿七拾五齢にして近江国蒲生郡小浅井村に葬り佐々貴神社と祀り玉ふ 因りて子孫佐々貴氏を称す 其後右衛門佐(スケ)朝雅に至り戦功を以て六角東洞院と呼べる邸宅を賜り此所に移りなせしより又六角氏とも称せし事あり 子孫近江の南部一帯を領し屡々戦ひて武威四隣に輝き日の天に登る勢ありしが第八世義賢(ヨシカタ)に至り浅井朝倉等と結んで信長に抗し永禄十二年九月遂に大敗、将に亡びんとせしが天未だ其家を棄ず再び起て同国の愛知犬上阪田伊香浅井高嶋等の六郡を得、次で尾張豊浦の荘二万貫を賜りぬ 此時居を京極の邸に移す 之より京極を称するに至れり 後鎌倉の桐ガ谷に卜居せり 依て又桐谷とも呼べり 射るが如き月日は忽ち過ぎて子孫更に播州龍野城へ移りぬ 斯くて万治元年戌二月十五日敦実親王より三十一世の裔孫京極刑部少輔宰相公は徳川三代将軍家光公より讃岐丸亀城を賜り同年五月五日彼の龍野城より此城に移りたり 是ぞ飯野山西北平原の中に高樓白雲を衝て聳え築きたる亀山城に子孫が二百五十余年間太平の夢に栄華の花咲かせし丸亀城主京極家の始めなり 宰相公第四世の孫は京極佐渡守高矩(タカノリ)公にして其明君たるや疑ふべからずと云ふとも当時封建の悪弊必ずしも明主の志下に通ずるものにあらず赫燿たる日光猶暗雲に蔽るヽ事あるにあらずや 奸吏は間にありて君
一向
(ひたすら?)
を塞ぎ民情上聞に達せず領内四郡の民は朦々たる雲霧の中にありて君徳彼等を照さず奸吏の毒矢は百鬼夜行の夫よりも物凄く人の憂ひ民の苦痛は遂に堪え難くして茲に寛延三年午正月廿日領民相謀りて強訴事件を起しける之ぞ名高き西讃百姓騒動即ち所謂七人同志の世に知られる所以なり
総 説
却説旧丸亀領東西の境界をなせる鳥坂より前後すれば青疂の如き田園遠く数十哩に連なるを見ん之れ吾人が日々の糧を得て今日を楽しく送り明日を安らかに迎え得べく上天より恵まれたる天與の地なり 只に糧を得るのみならず又装ふに山水の美あり 見よ飯野山は遠く平野の中にありて威儀麗々延々たる河は麓を流れて共に此地を飾るにあらずや有明浜は白砂青松数里に亘り龍状の樹虎踞の石散々として尽る所を知らず月輪之を照しては金波海に輝き河に挫け金玉葉露に踊り見る者をして左顧右眄(ウベン)遂に暁に至るを覚えざらしむるものに非ずや其他佳香天を薫(クユ)らす下高野の桃源あり又阿讃の境にある逶■(いい)たる連山は霞棚引いて眉の如く人をして情に堪えざらしむ嗚呼景に於ても亦天与の地なり加ふるに海は穏かにして良港多く汽船白帆の去来隙なく陸には鉄道あり道路開け交通自在にして何の用を充さずと云ふことなし嗚呼楽園なるかな此地寵児なるかな今人、花笑ひ鳥歌ふ此地に住める人只栄華の夢に馴れて天寵を 縦(ホシイママ) にする今人誰か知らん百五十余年の昔陰雲朦々一度此楽園を蔽ふて悲雨惨憺たらしめたる事ありし事を、七義士は空しく草葉の露と消えて心なき草木独り春栄に耽ける事を、多度津港を去る東方約一里の所に丸亀城巍然として平野の一方を飾るを見ん、然れども之 野蛮の遺物なり封建時代の遺物なり嘗て専制時代ありしを示すものなり故に之れ決して光栄ある遺物に非ざるなり夫れ封建の世は専制至らざるなく上に道義なく下に自由なく奸吏は中間にありて破倫極悪を只己が腹を肥すを得くんば有らゆる手段を尽して省みず譬令明君上にありと云ふと雖も事を司る者は好吏なり魔魅横行する者ありと雖も君光寧(イズク)んぞ下民の上を照すを得ん而して其積弊は九代将軍重治公(家重の誤り)の御代即ち我京極佐渡守高矩公の時に至り遂に沸騰点に達せり夫れ当時は自由無視の時代なり厳正なる階級制度は一
毛
の境を犯す能はざりし時代なり下民は只労して其膏血を献納する労働虫と見られたり、然り物を生産する者は彼等にして腹を肥す者は奸吏なり憐むべき彼等は夜を日につぎて働けども残るものは袖を濕す涙の外は何物かある、一掬の糧を得るだに道なくして路傍の露と消えし餓鬼幾人ぞ嗚呼悪むべき奸吏憐むべきは彼等不幸なりしは彼等、嗚呼情ある者は左の十三ヶ条を読みて涙潜然たらざるを得んや
一、御未進方並に借銀借米共利留にて三十年の間年賦
一、御年貢上納方歩定銀米出来次第銀納の時の御歳相場
一、米御藏拂御役人手入無之而者御取不相成米廻し斗桝斗り切に被仰付候様に
一、日用銀大庄屋町宿並に諸費用等追年不相応にて迷惑仕り候此後日用帳面御上様より御吟味の上割負候様に
一、御拂藁並に縄御藁
蔵
にて御上納仕候外々へは御用捨
一、村々庄屋組頭御役儀被召上被下候様に尤も村々より則ち其人にても追て御願申上候品々御座候
一、年中御普請所品々下役人村々貰人足急度無之様に
一、村々庄屋歳暮年玉銀御無用
一、郷中御普請之節人足扶持方枕扶持に被仰付候様に
一、毎年御勘定之節町宿諸役人衆台処茶番賄御無用
右十ヶ条之趣聴届願之通り申付候
急々殿様一躰百姓困窮御苦労に被思召乍早速右之通り申渡候段御聞届被達候
一、御勘定村々庄屋直勘定只今迄米高歩に当り
一、新運上停止
一、御用銀卯暮己夏割銀も御返済無之儀迷惑仕候
右三ヶ条の趣追て宜しく取斗可遺候
右之通り此方共罷出申付候上は相違無之候間令安堵
一向面
達所へ罷り帰り耕作無油断出精取続可申候
寛延三年午正月廿三日
大目附 加納又左衛門
御用人 斉藤右左衛門
御領分 百姓共
以上は十三ヶ条の願文聞届られたるを其侭に示せるのみ未だ以て当時の様を尽 せるにあらず 故(コトサ)ら若し当時の弊時を列記せんには尚更に多くの個條ある事を記憶せられよ而して之等好吏の毒矢は年と共に積りぬ加ふるに飢饉連年に亘り民の飢死する者日を追ふて数ふ可からず不平は囂々(ゴウゴウ)として野に満ち騒動は高潮 を逞ふして制すべからず此時に当り天は七人の救世者を下しぬ嗚呼読者諸君は 宜しく心して左の七義士の伝を読み玉ひ而して謝せよ吾人も又間接に於て同士 等に負ふ所多ければなり情に於て禁ずる能ざるものあればなり語られよ伝へよ 誇られよ此地の宝なればなり千秋に消えざる花なればなり
元大西氏義民権兵衛略伝
権兵衛氏は元禄十六癸未正月廿八
日
西讃三野郡笠岡村字天神に生る其祖先は阿 波国徳嶋の城主四国守護職たりし正四位下信濃守小笠原太夫清長第十一世の裔 小笠原弾正少輔武国応永廿一年正月仝国三好郡白地城主に封せられ始めて白地 大西城主と称す武国の孫大西備中守■養(アキヨシ)の長子上野介長清は天正十三年五月豊臣秀吉の上意として蜂須賀阿波守家政を以て同国の領治と為
す
に際し長清知行一万石を賜り仝国坂東郡勝瑞城に移る天正十七年故ありて一城離散す長清長子大西山城守頼春は仝国三好郡漆(シツ)川の荘を領す二男頼国は国畑石見守と称し性強大弓達人にして国畑の荘を領す三男頼光四男頼
渡
共に仝国馬路の荘に
分
れて住す父上野介長清は浪々の身と為り諸国を歴遊し終に西讃観音寺の領主高坂
丹羽
守の許に寓居し行年五十五にして病死す又五男頼
度
通称大西孫治郎は幼少なりし故母諸共叔父讃岐三野郡麻の城主大西左馬頭長頼の許に頼り撫育せらるゝ事となりしが不幸にして叔父左馬頭の家来深川孫太夫なる者の逆心の為落城左馬頭討死の悲運に際し母子及乳母諸共遁れて仝郡笠岡村に来り民間に住し後年此処に一家を興す頼度行年四十七才にして寛永三年丙寅七月十日卆す仝村字下津に葬り子孫大西大明神と崇み祀る是ぞ即ち笠岡村大西家の祖なり頼度の玄孫たる大西治右衛門は家富み夫妻睦まじく其日を送る中に玉かとまごふ男子出生せ り此れ即ち義民権兵衛なり母は仝郡大野村高橋氏の女にして綾野と呼べり権兵衛幼より父の業を助けて農を励み他道の志薄く
早
十六才の春を迎へ始めて仝村七尾山の麓に住み五穀を食せず只木の実草の葉或は根茎等を食する木喰仙人を師として読書算術を修め又経書に通せり齢廿才の頃より帆山耕雲斉と称する関口流の達人に従て剣柔二道を鍛へ三年の星霜を経て其奥義を極め其他軍学兵法に至る迄皆耕雲斉の教を受け奥秘の巻を授かり名声附近をなびかしぬ然るに生者必滅は定理にして享保七年二月父母共に寸暇の
惱
みにて黄泉の客となる後の弔ひおさ々々怠りなかりける其の暮耕雲斉の息女お米を娶り睦まじき中に四人の男子を挙げ一家団欒の楽み外目にも羨しき程なりしが延享二年の春より四ヶ年続きの旱魃にて一滴の雨だに降らず草木は悉く枯れはて地は割れて亀甲の如く五穀を種蒔するも実を得ず人々今は只家にありて一縷の望みを天の慈悲に繋ぎ雨よ水よと祈る其声を聞くたびにいと憐れなり今吾人の知る所ならずや今世の楽園地も嘗ては焼熱地獄にてありしなり嗚呼天は是なるか非なるか斯くて寛延二年中夏に至りて四年間の巨雨は一時に降れり河は溢れ山は崩れ地は一面の海にして人畜溺る者数を知らず かヽる天災に遭遇し民は赤貧洗ふが如く一家分散四方に流浪して悲惨なる大悲劇は此地に現出せられたり かヽる惨状を度外視し無情にも丸亀藩の奸吏大庄屋等は無法なる税を課する外諸費諸掛り等年を追て増加しぬ例えば疂建具水車牛馬唐箕万石味噌醤油酒酢等の日用品に至る迄重き税を課し徴収を厳にして未納者あれば村の庄屋に呼出されて厳しき責を受け果ては郷倉の裡に呻吟する者いと多かりき かヽる場合にも上は益々圧制を旨とし民情を察せざるに至る 如何に穏順なる四郡<那珂・多度・三野・豊田>の民も忍ぶに忍びかねて日毎に突鐘を合図に所々に集散離合するもの多く世の中何となく穏かならざりき 此時権兵衛は密に四郡の内を見廻りて世状を視察し旁々貧者へは夫れ々々品物を施しけるかくて之等の風情早く上に聞えければ追手厳しく果は森の中谷の底神社の床の下などにて寄合い話し合い茲に評議纏り村々より人を撰びて其儀大庄屋へ歎願書を差出せり然るに大庄屋は其事己れに不利なるを見て書面をばわが手許に控へ表にせざりしより人々怒りて遂に義民権兵衛を推して主将たらん事を頼みぬされ共思慮深き仝氏は容易く聞べくも見えず又聞かざるにもあらず熟(ツ)ら々々考へけり去程に人々再び頼みければ情に冨み義に厚き仝氏は辞するに言葉なく直ちに諾しぬ之れより人々を退け返し独り室内に籠りて思へらく此度の儀は何れの大庄屋互に言ひかはして皆其書々を己が手許に控 へ表にせざるに相違なしさる時は今更同じ事繰り返さんも愚かなりよし後で己が骨身は碎かる罪あらんも之れ民の為なれば惜しき命も何かあらんいざ吾主導となりて四郡の民を引き連れ勢力を以て直様殿へ訴ふる所謂強訴の手段に出づるに若かじと、さはあれ之容易の事にあらねばさる人々に議らんと帆山金右衛門方さして赴きけりかくて再三再四談合の末遂に一味同胞七人を得、互に血判の誓紙を取りかはして寛延二年十一月下旬より其事に取り掛り翌三年午正月廿日愈百姓騒動即ち強訴の大事を起したり之より先此事早く官へ聞えければ大庄屋は手を換へ術を改めて権兵衛が心を釣込まんと金銭或は物品天神弥一郎迄送りたり又は威を以て服させんと厳しき捕手来りしなど様々策を運ばしたりされど仝氏は密に参籠して(当時字賀洲神社へ祈願数週間宮殿の床下に篭り神に誓ひ強訴を果せりと云ふ)只留守なりと云はしめしかば世人も仝氏が行先定かならぬに只驚く外はなかりけりかくて此十八日と云ふに至り突然四郡村々に端ばし迄一時に落文を以て「一、此度御役所へ願の筋に依て存立有之候其表被申談御発趣可有之ければ来る廿日巳の刻<阪西は本山河原、阪東は天霧山麓>まで罷出可被申候若不
伺
之処於有之者早速令輩は鎌鍬其余雨具等御持参可然候以上」と認め散らし置き仝日早天各所の鐘を合図に西部は本山河原に東部は雨霧山麓に人数を集め主導者権兵衛は其余六人は豫て用意の黒装束の晴着いかめしく揃ひに着なし権兵衛の指揮に依り甚右衛門金右衛門東部将となり西部は権兵衛自ら将となり金右衛門兵治郎弥一郎嘉兵衛の四名副たり(特随伴者新五郎平九郎)権兵衛は衆に告げて曰く、(今度の事は殿様に恨みあるにあらず只君の御側に居る好吏をのぞき民情を上に通ずるの途を開き苛税を 寛(ユルヤカ) にせられん事を嘆願するにあり故に不仁なる大庄屋を懲しめ無実に郷倉に苦しみ居る百姓を救はん為なれば我等七人は思ふところあり十三ヶ条の願文を草す強訴の許(カノ)ふたる時は死刑は覚悟の事七人の外誰人にも難儀かけぬ為協議をせざりし義と知り玉へ)と語れば七人の高義に感じ血をすヽりてそむかざる事を約す将大西権兵衛は郡民を引き列伍正しく岡本村庄屋へ押寄たる所庄屋太郎兵衛は降参せり是より同村百姓の先鋒にて観音寺坂本郷なる大庄屋前谷四郎右衛門屋敷へ押寄せ瞬時に家屋残らず巻潰し其勢琴弾山麓に集りぬ彼等は皆抑圧を怒りて起れる者なれば不言の内に一致して其勢ひ餘の一揆とは自然趣きを異にせりかくて丸亀藩より取押の兵士三百余人早馬にて厳しく塵を蹴て本山川迄馳せ来りしが制止する見込相立ざれば空しく城下へ引き返されたり又東部の勢は不仁の聞えありし三井村なる須藤三郎大庄屋の居宅 を巻倒せり翌々廿二日東西両勢合
同
して善通寺村大庄屋楠助五郎方へ押寄たる所早くも弘法大師誕生所なる善通寺客殿を仮陣となし殿の御代使として軍奉行兼大目附役加納又左衛門勝重其他御用人衆中数十人御出陣せられたるを聞き茲にて殿の御代使と判断を開き前に掲げたる十三ヶ条の願文を奉りたれば願の通リ直ちに許可を賜りたり依て一揆は一先づ望みを遂げて夫々家路を指して帰られたり斯く強訴の事件は光栄ある結果を以て局を結ばれたり之れ只に下民の疾苦を救ひたるのみならず亦丸亀藩の弊政を一変したるものにして其功労は千歳の下尚銘じて忘れざるべきに如何せん当時専制の世は理を非に代えて責呵する事珍しからずかくて千載の英魂が此の不運に遭ひし悲惨なる物語は尚次に描き出さるヽなり
読者夫れ心して読み玉へかくて世の中一先づ平穏に復し弊政は改革せられ民は安堵の思ひして人皆之れ七人の者の御蔭なりと誉め賞し喜び歌ひ日月も為に長閑にして野に咲き笑へる花干代呼ぶ鳥の声さへ末頼母しく思はれたり然るに濁雲は再び天の一方より現はれて聞くに堪へざる惨状を極めぬ之れ専制時代の常にして怪しむに足らされども血ある者は誰か憤慨に堪へんや百五十余年を去る今日尚聞く者をして襟を濕すを覚えしむる其物語はいかに義民権兵衛初め一味同胞の人々命は素より覚悟の事なれば聊か惜しむに足らざれども熟ら々々思ひ廻せばこたびの儀は只君側を清め民の為になりたる迄にして罪のある様とも覚えざりしに突然捕手は来れり強訴先導連類の人々は夫れ々々皆其綱にかヽれり無法なる時の掟ての綱に嗚呼天に訴へんか天答へず地に訴へんか地語らず魔魅独り此世界を司配する時代に於て神あらばこそ佛あらばこそ彼等怒髪雲を衝くものありと云へども力なきを如何せん只左の短句を此世の片身として寛延三年午七月廿八日行年四十八才にて那珂郡金倉川の水の辺りにてあへなくも理(コトワ)り知らぬ刑吏の刃の露と消にけり
嗟 我 卑 命 曝 普 天 衆 生 惨 状 不 堪 観 (嗟、我ガ卑命、普天ニ曝シ 衆生ノ惨状、観ルニ堪ズ)
聯 絡 團 結 捧 民 訴 無 縁 罪 科 滅 眷 属 (聯絡團結、民訴ヲ捧グ 無縁ノ罪科、眷属ヲ滅ス)
此世をば泡と見てこし我心 民に代りて今日はうれしき
新五郎略伝
義民新五郎は権兵衛の嫡子にして同村に有名なる白川左助と云へる人を師として読書算術の研究怠りなく十五才の頃より又叔父帆山金右衛門の門に入りて剣柔二道を修め日ならずして進歩著しかりきさて白川先生方にて講義を聞きける時ふと眠りたれば人皆彼の怠惰を笑へり其時先生笑へる弟子に向て云ける様昔京都に伊藤謙斉と云へる名高き学者ありき其時赤穂の浪士大石良雄なる者其門に入り一日教を受ける時ふと眠りたれば人々痛く彼を笑へり其時先生制して云へり汝等彼を笑ふ事なかれ彼は後年有為の質あり只黙して後年彼が為す所を見よと、斯くて後年良雄が主君の仇を復しける時先生手を拍て云へらく嗚呼我目も中々丈夫なりと、而して今吾新五郎を見る亦同じきものあり只後の彼を見よと平然として元の講義に移れりと云ふ又以て非凡の質なりしを知ると同時に英雄にして初めて英雄を知るてふ古語余を欺かざるを知れり新五郎又父の質を受けて憫みの情深く旱損水害の時は母親と謀りて金銀其他の品物力の限り窮民へ与へたりと云ふ而して寛延三年午七月廿八日彼の強訴一件にて紅顔愛すべき十六才の少年父の後を追ひ共に此世を去り嗚呼未だ開かるべき蕾は早く散りぬ惜しとも惜しき限りなれ
身を棄(ステ)て嬉しや今日は民の為
名も屍も流す金川
帆山金右衛門略伝
那珂郡七ヶ村に耕雲斉と云へる剣柔二道の先生ありて夫婦睦じく暮しけるが只一人の女児あるのみにて男児なきを憂ひ朝夕金毘羅宮を祈りける内一夜ふと夢に金の御幣雲の中より現はれて二人は伏し拝み居るよと思ひきや覚むれば附近に影もなくさては夢かと驚く外はなかりけるかくて其月より妻は妊身となり何時しか月日も過ぎて或日の暁男児安々と生れたり之れ金毘羅宮の御利益なりと一族の歓び一方ならず遂に其一字を頂きて名を金右衛門と命ぜりかくて父の遺伝なるか将た金毘羅宮の冥護なるか長ずるに従て剣柔の誉れ高く廿一才の時は早父より奥秘の巻を譲られたり去程に笠岡村権兵衛妹、父大西治右ヱ門の息女お滝を金右衛門に娶るの約を結び茲に目出度華燭の式も終りて見るも羨しき仲なりけるが耕雲斉夫婦は間もなく相続ぎて彼の世の人となられたり其后強訴の一件八釜しくなり権兵衛来りて密談なし居るが所へ故耕雲斉の門弟なる碑殿甚右衛門三井金右衛門大野兵治郎等夫々集り来りて相談に預り茲に七人の味方を得て彼の強訴起しけるが首魁者の一人なりとて金倉川草葉(ソウヨウ)の鬼と消え果てぬ行年三十八才なり其日妻のお滝は豫て心や定めけん刑場へ赴き他人に混じて兄や夫の最期の様を見届けて此世に聊か未練残らねば露の命を長らへて憂き目を見んは却て心苦しと傍らなる墓原に走り入り上着を脱げば下には用意の白装束嫁せる時父より授りたる守刀を抜き持ち南無阿弥陀佛の声諸共咽喉につきたて死したり嗚呼憐れなるかなお滝の貞操末の世までも残されたりかくて彼の正系は茲に絶えけるが後他より来りて彼の後を弔い子孫世々剣柔二道の師範をなし今も小山辰治と云へる者其祖風を伝ふと云ふ
辞 世
那珂多度や三野や豊田や人の為
棄(スツ)る命は誰か知るらん
碑殿甚右衛門略伝
甚右衛門は平野の眺望比なき多度郡碑殿村に生れたり彼早くより剣柔家帆山耕雲斉の門に入り高弟の一人となりて其奥秘を極め、されど其質温良にして人に驕らず表に現はさず見る人自ら彼を畏敬せざるを得ざりきされど此人の最も勝れしは其人物と風采にありき身長五尺七八寸肉太り両眼は人を射りて電光の如く、然れども温
乎
たる容貌は溢るヽ斗りの愛敬を湛へて能く人を容れ挙止堂々悠々として迫らず音声朗々一見其偉人たるを示せり且つ勇あり信あり義に冨み情に厚くして人皆彼を神の如く敬ひ慈母の如くに慕へりさる程に彼の大飢饉に会し人民疾苦に堪へ兼て彼所の辻此所の森に集りて色々評議を凝しける時彼陰に其地を見廻りて民情を察し貧者へは夫々米麦等を数多分け与へぬかくて其名早くも彼の権兵衛が耳に入ければ権兵衛も此人に会ふて互に議(ハカ)り見たらばやと其事妹聟なる帆山金右衛門へ語りければ三井金右衛門迄に夫を托して其由彼に話したり彼も豫て権兵衛の人となりを聞き心陰に其を慕へる折なりければ此機逸すべからじと万事を棄て置きて金右衛門同行帆山に赴き此所にて対面互に胸膽相照らし話頭は話頭より転じて順々尽る所を知らず此人こそはと互に頼み頼まれて其日は名残惜しくも末を契りて別れける之より二人の交情怠りなく互に杖とし柱と頼める折しも彼の強訴の一件起り彼も首魁者の一人に加はり万人の為に非命を遂げし日本心の功勲(イサオシ)は飯野山も高しとせず那珂郡多度の平野も広しとするに足らず芳名は千秋に残りて長く人の鑑たるべし今日多度津町に丸尾熊造と称し盛大なる材木業を営む者あり之れ即ち甚右衛門六世の孫なりと云ふ今其顛末を聞けば甚右衛(
原文のママ
)に一人の伜ありけるが彼刑に処せらるヽの日遠き以前より其子を当時嶋中鳴り響きたる牛島五左衛門の内へ預け置きたりかくて甚右衛門の死後平素懇意の間柄なりしと義人の子なる故を以て義侠なる五左衛門は我子に代へて育てらる之れが今日多度津町に花を咲せる丸尾家の胤なり嗚呼此光栄を担へる子孫たる者宜敷誇て可なり又碑殿村には甚右衛門屋敷と称し広き田地の中央に石塚あり人皆之を甚右衛門塚と呼びて古跡は此所に残りける
天神弥一郎略伝
弥一郎の父は嘗て生駒家に事へし(
つかえし=仕へし
)浪人にて彼三才の時此世を去りかくて彼は母の手一つにて育てられ幼より才気あり頓智
克
く滑稽至て切なりければ人皆彼を滑稽弥一などヽ綽名するに至れりされど心は至て誠実にして孝養怠りなく身は貧にして伯楽(馬医)を業とせしが其得る所は悉く母の口を濕す料にあて老たる母が老の浪よせ笑へる顔見ては只恍惚として喜び妻をも迎へず只力の限りを尽し母を養ふをもて唯一つの楽みとせりされば世人又彼の名を孝弥々々と云ひなせり斯く誠実にして且つ愛敬者なれば人にも好かれ得意も広まり遂に大西帆山等の両家へも出入する事数ならず殊の外両家の情を受け衣類雑品に至る迄悉く両家より贈られたりとぞかくて両家の主人は益々其心に感じて彼の強訴の時彼も其一味に加へられ寛延三年七月廿八日時正に三十五才を一期として共に金倉川刑場の露と消えたれど笠岡村の字天神に孝行弥一の屋敷とて古跡は世々に残りける
三井金右衛門略伝
三井金右衛門は黒鍬師と称して世々荒野山林の開拓を事とせる父祖の后を受け多くの人手を傭ひて益々その業を励み家財積んで山の如くなりしが彼の飢饉の際其多分を擲ちて皆人に施したりと云ふ彼又好んで剣柔を修め帆山耕雲斉とは師弟の間柄なれば帆山家と往来しける時一日仝家にて権兵衛と面会し互に打解け語らひける程に意見投合しければ彼も強訴一件の一味に加はり四十四歳の盛りを後にして哀れ刑場台上幽冥の人となりぬ今日其后年弔ふ者は三野郡詫間村にあり山路紋治と云へり其が祖先は則ち金右衛門の実弟なりと云ふ
大野兵治郎略伝
兵治郎の父は三野郡大野村の農夫にして高橋兵之進と云ひ其地の名家にして家冨たれば彼十四五才の頃より剣柔家帆山耕雲斉に従て剣道を修め遂に其奥伝を極め地方の剣士と称せらるヽに至る斯くて農夫が旱損水害損に罹り大困窮せし折各村々へ金銀米麦を送り与へ常にも貧者へは種々の物を多く施し与ふる等同情の念に厚き性質なれば善き若者と人皆末頼母敷く思はぬなかりき偖て困窮の折柄阪本郷大庄屋米谷(
前掲前谷は誤りか?
)四郎右衛門の組下なる民が御年貢其他運上銀不納の為入牢せしめられ居るを聞き三拾幾両と云ふ金を償ひ民十七名を郷倉より救ひ出せりと云ふ又強訴の際岡本庄屋太郎兵衛宅を取り囲みて已に大門を破壊せんとせし折柄内より射りかくる箭先に掛り百姓三名死を果たす彼の兵治郎は秘術を以て流れ箭二本を左手に掴みつヽ門押し破り馳せ入りて庄屋太郎兵衛を捻じ伏せ降参させたる強者にして権兵衛と謀り強訴を倶に企て起したる罪科なりとて金倉川の刑場にて獄門の刑にかヽり惜しや三十九才を一期として盛り花ぞ散にける今仝村に高橋神社と称し一祠を設け日々の賽者数知らず香煙常に絶えず誉は此所に残りける
南嘉兵衛略伝
父は鍛冶
孫
と呼び笠岡字南の住民にて鍛冶職を以て家族を養ひけるが伜の嘉兵衛は親の儲け置きたる金子を私かに取り出し賭博をなし終に敗けたる時は内へ帰りて無理無法なる過言を吐き或時は腕力沙汰に及ぶ事度々あれども親の慈悲とて是をも免許されし程なるが父死后後悔懺悔し改心をなし父の業を受伝へ鍛冶職を励み居たり然し大西家へは父の代より懇意に出入せしにより権兵衛氏は彼の人と成りに感じ強訴の一味に加へらる彼行年四十三才を此世の別れとなし権兵衛氏と同時に金倉川の刑場にて獄門の刑に懸られ草葉の露と消え失せたり
北浦平九郎略伝
三野郡笠岡村に大工の甚五郎と呼びたる者あり伜平九郎は大工の名手なり諸方の神社仏閣の建立には彼必ず加はり居れりと云ふ斯くて仝郡下高瀬村法華堂の如きは彼が棟梁なりしに権兵衛氏の棟梁にて建立せし様伝へ居るも是れ全くの誤傳なり是れ一例にして枚挙するに遑あらず却説平九郎は義侠に冨み至て慈悲心深く貧者を救ひ助けし事度々あり権兵衛は克く彼を知れる故強訴の際召連れられたれば助力をなしたる罪科なりとて権兵衛氏と同時に金倉川にて刑にかヽり行年四十一才之れ有為の時永眠の人となりける
権兵衛妻お米女略伝
虎の子は猛獣を噛むと古き譬の如くなるがさてお米は剣道達人帆山耕雲斉の息女にて大西家へ嫁せしより孝道は勿論夫に貞、婦節
旦
日の如くにして四人の子を撫育せる至らざる処なかりしが悲運の人にやありけん夫権兵衛が強訴の首魁者なりとて召捕りと成るに際し冤罪に因り子供と共に<次男源次郎三男平七四男亀之介(
助の誤り
)>捕れとなれり此くてお米は日々深き牢獄の下に坐して行儀責なる苦を受けたり然れども此お米と云ふは最も心強き女なればそれをも意とせず早幾日と云ふ数知らぬ日数を経て肉落ち顔はやつれて只死を待つより外はなかりけりかヽる時にも子を持ての親心何時とて我子を忘れやるべきさる程に或日獄吏の耳語(ササヤ)き噺に権兵衛は一族残らず斬罪と定まりたると云ふ事を聞き己が身を忘れて泣き伏し漸時(シバシ)頭も揚げざりしが遂に心や定めけん小指を噛切り滴る血にて側なる壁へ亀之介一人は助け玉へと文字明らかに書き残し自らの頭を牢柱に擲つけ微塵となしてぞ果てたりける嗚呼焼野の雉子夜の鶴いかでか我子を思はざりき此くて此事早くも御目附役の御聞きに達し亀之介一人は助けやりたしとの思召を以て笠岡村庄屋大西千右衛門を御呼出と相成り亀之介と申するは権兵衛の孫には無之哉と其子たる事は克く知りながら然りと云はしめん斗に仰せありしも御前を恐れ震へる庄屋は何の意味やらと寸時(シバラク)答をなさず恐入てありければ稍ありてまた克く受け賜はれ彼の亀之介は助けやり度くは思はるヽも一旦定めた掟は破る事出来がたく若し亀之介が権兵衛の伜とあれば余儀なく刑に処せねば成らず彼は孫であらふと仰ありしが庄屋は其意を解せず頭をあげ亀之介は権兵衛の倅(セガレ)と承知して居り升と正直一辺に云ひ放したり嗚呼正直も此所に至りては愚のそしりを免るべからずやんぬるかな豎子(ジュシ)遂に事を誤れり哀れや亀之介は刑吏に引れ金倉川の刑場にて父兄と共に朝の露と消え失せたり却説お米は惨死を遂げられしも女義徹貞女の鑑と世の諸人に賞せられ誉れは今に残りける
密傳僧都略伝
却説長林寺住職密傳僧都は仝国善通寺誕生院貫主宥謙大僧正御剃髪の御徒弟にして大徳清僧の聞えあり貧富貴賎の差別なく人が慕ひ賞しける頃は寛延三年午七月御自ら檀家なる権兵衛其他の人々民に代りて強訴を起し其罪科なりとて獄屋に繋がれし折柄彼の密傳僧都は御兄徒弟(デシ)なる誕生院なる光天大僧正に議り権兵衛其他人々の命乞ひをなさんと殿様の御菩提所なる玄要寺の長老に歎願書を出せしも早や御裁断済にて来る廿八日金倉川の刑場にて御処刑と定りたる折柄全て術なくこヽにて止まり当日即ち七月廿八日密傳僧都は彼の金倉川の刑場へ行きて今度四郡の民に代りて死を果せる人々へ
竹矢
来(
笶来か?
)の外より真言秘密の回向をなし圍の内の土を穿ち取り持帰り笠岡村天神山の麓なる道音寺の境内へ埋め権兵衛夫婦の石碑を建立し亦仝氏の愛子四人の供養の為に立派なる多宝塔を建立し仝家に勤め居たる義僕番頭五助を徒弟となし一宇の庵室を造り住居させ香花弔ひ為さしめたる古跡あり又仝氏百五十回忌に当り長林寺現住職森法幢氏は左の院号居士を謚号せられ聊か義霊を慰られたり
清操院冬岸妙輝大姉 妻お米
高義院法山覚入居士 権兵衛
誠実院常應宗徹居士 子新五郎
結 辞
夫れ世に道なき時は孔子も入れられず而して義士の現はるヽは多く此時にあり人は棺を蔽ふて後定まると云ふされば太平華楽の時にありては如何に功(
巧
)言人意を強(ツヨウ)する者ありと云へども一度悲運に遭へば忽ち節を屈して利に走る者滔々皆然り而して独り義人に至りては然らず嗚呼義人は櫻花にあらずして松柏なる窮困に会して節益々現はる夫れ七義士の事たる一小藩内の事なれば素より目覚しき事なし然れ共其人民を益したる事夫れ幾何ぞ同士等は領内を救へり而して自分等は皆族滅せり同士等の力によりて救はれたる人々の子孫は今日早其恩を忘れんとす光栄ある同士等の名も亦永く苔の下に埋れんとす嗚呼同士等果して瞑じ得べきか同士等若し三寸息あらば則ち今人を罵らん知る者は知れ聞く者は聞け金倉川の水潛々として尚悲鳴の声ある事を同士等が墓は所々に散りて櫛(シツ)風沐雨茲に百五十余年冷かなる黄土徒らに英雄未死の魂を埋め夜半人なくして明月自ら来る然るも其光りは陰気なり嗚呼同士等は未だ瞑すべからず同士等は天地を駆れり同士等の恨みは天地に充たん嗚呼吾人賛同して堂を建て神に祭り同士等の芳名を千載に伝へ同士等の義魂を慰せん事を望む所以なればなり
後 記
大西鳩居翁は博学多趣味の人で明治大正昭和の三代を生き抜き乾々斉宗我として茶道の宗匠と仰がれ浅
根
房鳩居としては俳諧の指導者として知られていた
長く筆岡郵便局長として功績を挙げられ正七位勲七等に叙せられ昭和十一年ご逝去せられた 最近令孫に依って遺墨を整理中たまたま本書が発見された 筆者は不詳であるがよく七義士の略伝を偲ぶことが出来るので復刻して諸子のご披見に供することにした。
昭和五十
五
年一月 宮川重市
書写を終えて
碑殿町月信の○○○○氏より昭和五十五年五月本資料を拝借し三日を要して書写し終える 寛延三年は西紀一七五〇年で今から二百三十年前に当る 本文中「百五十余年前」と記述されているので本資料は恐らく明治三十年代に作成されたものと推定される 従って文体は文語体、漢字は旧漢字、更に誤字当字が相当にあり、仮名は一文中にも片仮名平仮名変体仮名混用され、仮名遣いは勿論旧仮名づかい、その上送りがなの余分のもの、不足のもの多く、筆者も一人ではないと見られる、原文の作者は一人であろう
書写に当り下記のことに留意した、一、文体は元のまヽとした 二、漢字の誤りは大字典、広辞苑により訂正したが一部不明のまヽのもの残る 三、仮名づかいも旧のまヽとし、送りかなの不用の個所は省き、不足のところは読める限りそのまヽとした 四、略伝中「甚右衛門」は「甚左衛門」「兵治郎」は「兵次郎」となっているが序文の通り「右」と「治」に統一した 吉原字十五丁にある記念碑も「甚右衛門之碑」となっているので念の為(山階蓮忍寺過去帳は「左」)、五、平仮名まじりに統一した 立派な資料を拝借、写させて頂き永く家宝として残し得る事を喜び深く感謝する次第である
昭和五十五年五月十二日 ○○○○ 記
(注:最近の人の個人名は○○○○として伏せました。)
三豊市豊中町の11号線沿いに大西権兵衛神社がある。その境内には芝居小屋があり、西讃百姓一揆が演じられていたそうである。
「目で見る 中讃・西讃の100年」(和田 仁 監修、2000.7.7 郷土出版社 発行)によれば、
七人同志
解説
石碑
仲多度郡史
さまよう怨霊?
一揆の経緯
説明板
埋葬地
童子が浜
善通寺
曼荼羅寺
出釈迦寺
禅定寺
鷺井神社
東西神社
大西権兵衛神社
三井の金右衛門
我拝師山
天霧山
片山権左衛門
月照上人
乳薬師
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