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国際的に認められないアフリカの模範国家

ソマリランド共和国

首都:ハルゲイザ 人口:350万人(2002年)

 
1991年から96年までの国旗(左)と、現在の国旗(右)

1960年6月26日 英領ソマリランドが、ソマリラ ンドとして独立
1960年7月1日 イタリア信託統治領ソマリアがソマリア 共和国として独立。ソマリランドはこれと合併して消滅
1991年5月18日 旧ソマリランドが、ソマリアから脱退
1991年5月24日 ソマリランド共和国が独立を宣言

1829年のソマリア、エチオピア一帯の地図  
1968年の旧英領ソマリランドの地図  
2002年のソマリアの地図   いちおう「統一国家」のように描かれています

国 家として崩壊状態の国といえばソマリア。10年に及んだ内戦の果てに、中央政府は1991年に完全に瓦解し、その後は軍閥もどきの地方勢力や政権が各地で 群雄割拠して、さながら戦国時代のような様相だ(※)。1992年から95年にかけて、アメ リカ軍を中心とした国連の平和維持軍が介入したものの、軍閥に宣戦布告されたうえ、殺された米兵の遺体を市中引き回しにする映像を全世界に流されて撤退。 その後は国際的にも放置プレー状態が続いている。

※1997年末に和平協定調印のためカイロに集まった各地の地方政権や軍閥の数 は、実に28派に及んだ。しかしこの協定もすぐご破算に。
そんななかで、1991年にソマリア北部で登場したソマリランド共和国は、内戦に明け暮れる 他の地域をよそに安定が続き、アフリカでは平均以上の平和が保たれている。民主化も順調に進んで、複数政党制による地方選挙や総選挙を実施。これまで三代 の大統領が就任したが、政権交代はスムーズで、2003年の大統領選はわずか80票差の接戦だったものの、最終判断は最高裁判所に委ねられて、カーヒン大 統領の当選が決まった。

ところがソマリランドは国際的に国家として認められていないのだ。とっくに崩壊して実体がないソマリアを承認している国はたくさんある のに、350万人が暮らすソマリランド共和国を公式に承認している国は存在しない。

そのソマリランドも、かつて 5 日間だけ国際的に独立国家として承認された ことがある。1960年の6月26日から30日までという世 界短命記録だ。

スエズ運河の開通で、ソマリアは地中海からインド洋への出口に位置する海の要衝となったため、19世紀にイギリス、イタリア、フランス によって分割され植民地になった。この時の英領ソマリランドが現在のソマリランド共和国で、伊領ソマリランドはそれ以外のソマリア、仏領ソマリランドは現 在のジプチ共和国にあたる。

第二次世界大戦で英軍がイタリア領や、ソマリ人が住むエチオピア東部のオガデン地方を占領すると、ソマリ人はフランス領を除いてイギリ スによる支配の下で一時的に統一されることになり、「ソマリ人が住む地域を一つにして独立しよう」という大 ソマリ主義が台頭した。こうして1960年、イギリス領はハルゲイサを首都にソマリランド共和国として独立、5日後にイタリア領が独立する と、これと合併してソマリア共和国が成立した。

統一したソマリアの首都は南部のモガディシュに置かれ、政府や軍の高官も南部出身者が占めて主導権を握ったが、経済的には紅海の出口に あたるベルベラ港を抱え、アラビア半島との貿易が活発だった北部の方が上だった。このため北部では連邦制を 求めて南部と対立が深まり、翌61年には早くも北部の独立を求めて暴動やクーデター未遂事件が起きたほどだった

そして63年、エチオピア政府がオガデン地区に住むソマリ人遊牧民の家畜に課税し始め、抗議したソマリ人が殺害される事件が発生する と、ソマリアではオガデン地区の併合に向けてソ連と接近し、軍備増強を進めていった。ソマリアがソ連に接近したのは、親欧米のエチオピアに対抗するため だったが、69年には大統領が暗殺されて革命が起き、バレ議長(後に大統領)が率いる社会主義の軍事政権が誕生した。

ところが74年にエチオピアでも革命が発生。皇帝が廃位させられ社会主義の軍事政権が誕生し、軍内部で粛清が続くなど混乱が続いた。こ れを「大ソマリ主義実現のチャンス」とみたソマリアは77年にオガデン地区へ攻め込み、一時 は大部分を占領したが、ソ連の援助で軍備を整えたエチオピアが反撃に転じて、78年に撤退。怒ったソマリアはソ連人顧問団を追放してアメリカと協力関係を 結んだが、無謀な戦争に旱魃も加わって国内の経済は疲弊し、大ソマリ主義どころか地域対立や氏族対立は激しくなるばかり。

バレ政権の独裁下でも抑圧された北部では、1981年にソマリア国民運動(SNM)を 結成して、エチオピアを拠点にゲリラ戦を始めたが、87年にバレ政権がエチオピア政府との間で双方の反政府ゲリラへの支援中止の協定を結ぶと、エチオピア を追い出されたゲリラはソマリアに流れ込んで一挙に内戦が激化。南部や中部でも反乱が起きて、1991年にバレ大統領は海外へ亡命し、20年以上続いた独 裁政権は崩壊した。それに代わる新政権樹立をめぐって各勢力が泥沼の内戦を始め、ソマリアは国家が解体してバラバラとなり現在に至っている。

SNMは新政権をめぐる勢力争いには加わらず、「1960年の合併条約の破棄」を宣言し、ソマリランド共和国を「復活」させて、SMN のトゥール議長が大統領に就任した。つまりソマリランドはソマリアから新たに分離独立するのではなくて、かつて国際社会にも承認された「5日間だけの独立」を回復したと主張したのだが、承認する国は現れず、経済は困窮するばかり。トゥー ル政権はゲリラ兵士たちに給料が払えなくなって、1991年末に瓦解した。

ここでふつうなら内乱に突入するところだが、ソマリランドでは各氏族の長老150人が立 ち上がった。2年がかりの長老会議で憲法に代わる国民憲章を制定し、長老院と下院からなる二院制の議会と裁判所の設置や、長老院の任命によ る大統領制を定め、1960年に「5日間だけのソマリランド」で首相を務めたイーガルを、亡命先のアラブ首長国連邦から呼び戻し、大統領に指名した。

こうしてイーガルは長老たちの監督の下で治安を回復し、2001年に憲法制定の国民投票を実施。長老の間には民主化への抵抗もあった が、イスラム教の宗教指導者が間に入って仲裁した。イーガルは2002年に急逝するが、選挙は予定通り行われてカーヒン政権が誕生。ソマリ人はもともと各 氏族の長老たちに率いられて暮らしていたが、長老が持つ伝統的な権威を基盤に国家建設を進めたこ とが、政権の安定とスムーズな民主化を可能にしたようだ。

ソマリランドの経済も、ベルベラ港を復興させたことで内陸国エチオピアの玄関口としての収入や、家畜の輸出、そして海外に出稼ぎへ行っ た住民からの送金に支えられて好転し、独自通貨のソマリランド・シリングは、ソマリア・シリングよりも安定している。

一方のソマリアでは、中部にプントランド共和国、南部に南西ソマリア、ジュバランドなどの政権が生まれているが、これらは独立国を目指すのではなく、あくまで ソマリア内の自治政権。2000年には「国内には危なくて政府が置けない」とジプチでソマリ ア暫定政府が発足したが、軍閥たちに認められずに頓挫し、2004年には各軍閥や自治政府のリーダーたちが参加して、ケニアで新たな暫定政府が発足。翌年 から徐々にソマリア国内へ拠点を移しつつある(※)。しかしソマリランドはソマリアに復帰するつもりはなく、住民たちも内乱をいち早く収拾したソマリラン ドに誇りを持ち、「ソマリアとは別の国」という意識が定着しつつあるようだ。

※・・・と思ったが、軍閥の連合体である暫定政府に対してイスラム法廷連合(現: イスラム法廷会議)が攻勢をかけ、2006年6月には首都モガティシュを制圧し、ソマリア南部の大半を支配下に置いた。イスラム法廷連合は、ソマリア政府 崩壊後に裁判所を運営し、イスラム法に基づいて社会秩序の維持を図ってきた聖職者たちのグループだが、無政府状態が続く中でイスラム国家の樹立を目指して 武力闘争に乗り出していた。暫定政府側はイスラム法廷連合を「アル・カイダに関係するテロ組織」と見なすアメリカの後押しで、「平和回復と反テロ同盟」を 結成していたが、軍閥支配に嫌気が差した民衆の間ではイスラム勢力への支持が広がっていた。イスラム法廷連合は、長年公共サービスが止まり荒れ放題になっ ていた首都で「大清掃運動」を呼びかける一方で、結婚式での西洋音楽の演奏を禁止したり、女性の水泳を禁止したり、ワールドカップの中継放映を禁止して抗 議した住民を殺害したりと、なにやらアフガニスタンのタリバン政権の再来を思わせる状況も。
国際社会がソマリランドを承認しようとしないのは、アフリカ連合(AU)の拒否感が強いため。アフリカには部族対立や独立紛争を抱える国が多いが、ソマリランドの独立を承認してしまえば、自分たちの足元でも分離独立の動きにお墨付きを与えかねないのだ。

1963年にアフリカ統一機構(OAU=AOの前身)が結成されて以来、アフリカで既存国家からの分離独立が承認されたのは、1993 年にエチオピアから独立したエリトリアだけ。エリトリアの場合は1952年に国連決議の基づいてエチオピアと連邦を組んだが、62年に一方的に併合されて しまったので、「独立の回復」が認められたもの。それならソマリランドの「独立の回復」も認められて良さそうだが、ソマリランドはいったん自ら合併を認め てしまったので、いまさら回復はダメだということらしい。61年にカメルーンと合併し、現在再び分離独立を主張している ア ムバゾニア(南カメルーン) も同様だ。

こうしてアフリカ型民主主義のモデルになっても良いはずのソマリランド共和国の存在は、国際的に無視され続けたままだ。



ソ マリアからの独立は主張しないけど独立した国々


プントランド

首都:ガローウェ  人口:396万人(2008年)

1998年7月23日 プントランド共和国として成立を宣言
2005年1月 プントランドと改称 

プントランドの地図  黄色の部分はソマリランドとの国境紛争地帯

ユスフ初代大統領

1998年にソマリアの北東部で樹立を宣言 したプントランド共和国は、住民の多くはダロッド族だ。ダロッド族はソマリア南部にも住んでいるため、他の地域とのつながりも強く、ソマリアからの完全な 独立は主張せず、連邦制国家の一員としての自治を唱えている。2004年に発足したソマリア暫定政権のアブドラヒ・ユスフ大統領は、プントランドの初代大 統領だった。

2001年にはユスフ大統領が一時追放され、ヌル司法長官が「暫定大統領」を名乗って内戦になったり、隣接するソマリランドのうちダ ロッド族が居住する東部の領有権を主張してソマリランドと紛争になったり、マーヒルが一時分離独立するなどしているが、05年と09年に大統領選挙が実施 され、現在では政権はかなり安定しているようだ。




ノースランド国

首都:ラス・アノード  人口:
 
2008年5月1日 成立を宣言

ノースランドが領有権を主張する地域の地図  

ソマリランド共和国は、かつての英領ソマリランドを領土にしているが、東部はダロッド族が住んでいて、「ダロッド族居住地域の統一」を掲げるプントランド が領有権を主張し、紛争になっている。人口25万人を抱えるソマリランド(およびソマリア)最大級の都市ラス・アノード一帯も、住民の多くはダロッド族 だ。

そんなラス・アノードを「首都」として、08年5月にダロッド族のダルバハンテ一族が独立を宣言したのがノースランド国。しかし、ラス・アノードをはじ め、領有を主張している地域の多くははソマリランドが支配しており、どれだけ実態があるのかは不明。


ガルムドゥグ

首都:南ガルカイヨ  人口:180万人(2006年)

2006年8月14日 成立を宣言
 

ガルムドゥグの地図  

ソマリア中部のガルグドゥード地区とマダグ地区にはハウィエ族が住み、ソマリアの首都・モガディシュの軍閥によって支配されていたが、2006年3月にイ スラム法廷連合がモガディシュに攻勢をかけると、軍閥支配が弱まった。そこでハウィエ族のうちサカド氏族が中心となり、ガルグドゥード地区とマダグ地区を 合わせてガルムドゥグの自治を宣言し、政府を樹立。モハメド・ワルサメ・アリが大統領に就任した。

06年6月にモガディシュを制圧したイスラム法廷連合は、イスラム法廷会議と名 を変えてソマリア全土支配に乗り出し、10月から11月にかけてガルムドゥグへ攻撃をかけたが、エチオピア軍とプントランド軍が乗り込んできて、イスラム 法廷会議を撃退した。しかし、ガルムドゥグのうち政府の支配が及ぶ地域は少なく、沿岸部は海賊の拠点になっている。

首都・ガルカイヨは人口4万5000人だが、ハウィエ族が住んでいるのは南側で、北側にはダロッド族が住み、プントランドが支配してい るが、南ガルカイヨにある空港もプントランド政府が飛び地のように支配しており、紛争の火種になっている。

軍閥支配の時代から20年近くにわたって南北に分断されたガルカイヨでは、貧しい南側とまだましな北側との格差が広がっているが、07 年からユニセフが南北共同で運営する小学校の建設をスタート。ソマリア統一へ向けた住民同士の和解の第一歩になればと期待されている。



南西ソマリア【消滅】

首都:バイドア  人口:

2002年4月1日 成立を宣言

2002年10月3日 大統領を追放

南西ソマリアの 地図  ジュバランドを含みます

シャティグドゥド大統領

首都モガディシュはじめソマリア南部は、暫 定大統領、将軍、有力者、氏族、地方勢力、軍閥、ゲリラと数十の武装勢力が入り乱れ、戦国時代と言うより「北斗の拳」状態とでも言うべき状況が続いているが、ジプチで成立した暫定政府に反対するラハンウェイ ン抵抗軍(RRA)などが、 2002年4月に内陸部の拠点バイドアを首都に樹立したのが南西ソマリアで、ハッサン・モハメド・ヌル・シャティグドゥドが大統領に就任した。

南西ソマリアはプントランドと同様に、ソマリアからの完全な独立は主張せず、連邦制国家の一員としての自治を唱えていたが、軍閥同士の 争いはその後も繰り返され、同年10月にはシェイク・アデン・マドベの勢力とモハメド・イブラヒム・ハブサベの勢力によって、シャティグドゥド大統領派は 首都バイドアから放逐されてしまい、早々にして誰が政府を率いているのかわからない状態に なってしまった。その後シャティグドゥドとマドベは和解し、2004年にケニアで成立した新たなソマリア暫定政府にそろって入閣。一方、ハブサベは地元の リーダーとして残り、長老や町の実力者たちが調停に奔走しながら、3派による共同支配が行われていたようだ。



ジュバランド【消滅】

首都:キスマヨ  人口:130万人(2005年)

1998年9月3日 ソマリア愛国運動が独立を宣言

1999年6月11日 連合ソマリ軍がキスマヨを占領
2001年6月18日 消滅

ジュバランドの地図  真ん中の小さな地図がジュバランドです

ヘルシ・モーガン

ソマリア最南端の港町・キスマヨを中心とし たジュバランドでは、1998年にソマリア愛国運動(SPM)と地元氏族の有力者たちがジュバランド国の成立を宣言し、SPMのヘルシ・モーガンが代表に 就いたたが、連合ソマリ軍(ASF)が翌年キスマヨを占領し、モーガンを追放(※)。ASFはジュバ谷連合(JVA)と改称して軍閥支配を行ったが、 2001年にJVAが暫定政府に加わりモガディシュへ進出したため消滅した。その後は南西ソマリアの一部になり、軍閥同士の争いが続いていたが、2006 年9月にイスラム法廷会議によって占領され、2007年1月からは暫定連邦政府が支配している。

※モーガンは2001年8月6日から7日まで、1日だけキ スマヨを奪回した。

ジュバランドは19世紀には ザ ンジバル を拠点とするオマーン帝国の領土で、1895年にイギリス領東アフリカ(ケニア)の一部となったが、第一次世界大戦への参戦の見返りとし て、1924年にイギリスからイタリアへ割譲され、伊領ソマリランドの一部になった歴史がある(他にイタリアへ与えられたのは こここ ここ こ )。このためソマリ人が住む地域とはいえ、独自色が強かったようだ。



マーヒル【消滅】

 
2008年に左の旗から右の旗へ変更

首都:バハン  人口:70万人(2006年)

2007年7月1日 プントランドからの独立を宣言

2009年1月11日 プントランドへ復帰し、消滅

マーヒルの地図  

シブリール大統領
マーヒルはプントランドの西北部で、ソマリ ランドと国境を接する海岸沿いの地域。住民はダロッド族だが、プントランド政府ではダロッド族の中でもマジーティーン一族の独裁が続いていたため、マーヒ ルに住むワルサンガリ一族は反発を強めていた。

そしてマーヒル沿岸には石油が埋蔵されていると見られ、プントランド政府は2006年にオーストラリアの企業に油田調査権を与えたため、ワルサンガリ一族 は猛反発。翌年7月に一族の王家の血筋を引くジブリール・アリ・サラード大佐を大統領に担いで独立を宣言した。

しかし、独立はプントランドとソマリランドの双方に認められず両軍から攻め込まれ、干ばつも加わってマーヒルはたちまち困窮した。

そこでジブリールはマーヒル政府を解散。ワルサンガリ一族の有力者であるアブデュラヒ・アフメド・ジャマがプントランドに戻り、09年1月に行われたプン トランドの大統領選挙 に出馬。結果は敗れたものの、内務長官として入閣を果たしたため、マーヒルはプントランドへ復帰して独立を取り消した。


●関連リンク
外務省−ソマリア
旅の3年記 第15章ソマリランド  1990年代後半の旅行記
崩 壊国家と国際社会:ソマリアと「ソマリランド」  進藤貢氏の論文です(PDFファイル)
ソマリアの和平を壊 す米軍の戦場探し  
ソマリア内戦
ソマリア内戦  部族分布とアメリカ海兵隊の作戦を中心に解説しています  
ソマリア内戦に見るエスニックな対抗運動の展開  専修大の宮田励子さんの卒論です
Somaliland Official Website  ソマリランド共和国の公式サイト(英語)
 
 

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(最終更新:2009・10・13)
 
 

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