このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

本論目次に戻る   次のページへ   記事内容別分類へ


第1編 はじめに

 「法」を学ぶことには、独特の感覚がつきまとう。即ち、我々は、「法」を学ぶと、自分があたかも社会全体について知見を得たような気がする。実際、我々の日常生活は( 後述 するように)「法」によって規制されており、中には「年齢のとなえ方に関する法律」(昭和24年法律第96号)のように、相当細かい事項まで規律している「法」もある(※注1)。だから、そうした「法」の概要ー即ち、特に重要とされている「 憲法 」「 刑法 」「民法」「商法」「刑事訴訟法」「民事訴訟法」の「六法」ーを知ることは、一面においては、我々の社会そのものを理解することにもなる(※注2)
 そして、法律を今少し詳しく学ぶと、我々はこれを実際に当てはめてみたりする。例えば、軽犯罪法(昭和23年法律第39号)は、刑法犯とまでは言えない程度のごく軽微な逸脱行為について処罰規定を設けており、その第1条第20号は、「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」は「これを拘留又は科料に処する」としている。そこで、この条文を知っている者は、例えば繁華街を歩いている若い女性のミニスカートを指して「ももをみだりに露出している!軽犯罪法違反だ!」等と言って面白がったりする。実際、例えば「他人の物を盗んだ」とか「人を殺した」といった比較的簡明な事件、誰にでも加害者の行為の善悪が判定できるようなものについては、通常、特に論争が生じることもなく事件は淡々と処理されていく。論争があるとすれば、それは事実認定(被告人が真犯人かそうでないかを含む)か量刑判断(死刑は重すぎるか否か)に関することであろう。特殊な犯罪(例えば、後述する砂川事件の刑事特別法(※注3)のように、憲法論争を招くようなもの)を除いては、例えば「そもそも窃盗は犯罪なのか」といった形で刑事裁判が争われることは稀である。だから、裁判官としても、普段受理するような一般的・日常的な紛争については、最高裁その他の判例に注意しながらも、せいぜい実定法上の根拠(例えば、「人を殺した」という事件については刑法第199条が適用される、といったこと)さえ探り当てておればそれで済む。無論、実際の判決書では事実関係を含めたきちんとした理由を付記しなければならないが、それも「人を殺してはいけない理由」まで言及する必要は無い。即ち、現行法の体系的知識があれば、大抵の事件は誰でもルーティーンワークとして処理し得るものなのである。
 しかしながら、現行法が管理できる事象は有限であり、法的規制が及ばない問題=既存の法律からは有効な法的回答が引き出せない問題は無数に存在する。例えば、旧日米安保条約の合憲性について争われた砂川事件(※注4)で最高裁判所は、国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する 安保条約 については、その内容が意見が否かの法的判断は政治部門の高度の政治性ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくなく、従って純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にある、と判示して憲法判断を回避した。このように、法的判断が可能(訴訟要件を満たしている)でも、その高度の政治性の故に司法審査の対象とされない行為を「統治行為」と呼び、それ故に司法判断を回避することを統治行為論(政治問題の法理)と呼ぶ(※注5)。しかし、では何故に訴訟要件が揃った事件について、法的三段論法(後述)が可能であるにも関わらず、「高度の政治性」を理由としてこれを避けなければならないのか。統治行為論の根拠としては、憲法学上「裁量的自制説」(憲法判断を回避するのは裁判所の裁量によるものであり、本来であれば統治行為にも司法審査は及ぶ)と「内在的制約説」(憲法判断が回避されるのは権力分立体制下における司法権の内在的制約による)があるが、ではその「司法権の内在的制約」とは何なのか、何故裁判所は判断を自制するのか、といった実質的理由については、憲法学の教科書ではほとんど触れられない(※注6)。結局、「統治行為論」の本質を理解するには、法という記号的技術の規範的意味を探究するだけでは不十分であって、社会的事実としての法現象の理解、即ち「そもそも法とは何か」というところに立ち戻って考える必要があるのである。
 
また、価値観の多様化や流動化が激しい現代の我が国においては、それまで法律が当然のこととしてきた事項についても「見直し」が求められており、我々がかつて考えてきたような「法の自明性」や「自然的正義」は今や相当に怪しくなってきている。例えば、「 刑法 」(明治40年法律第45号)は当然のこととして「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」等と規定しているが( 第199条 )、では何故人を殺してはいけないのかということは、少なくとも 刑法 の条文からは明かではない。最近では、「何故人を殺してはいけないのか」等ということを子供達が親に問いかけ、大人が明確な答えを示せずにしどろもどろになっているという話も聞く。この問題について評論家の小浜逸郎氏は、著書『なぜ人を殺してはいけないのか』の中で、人はその所属する共同体の成員の共通利害によって、「正当な殺人」と「不当な殺人」を区別するようになったと述べているが(※注7)、それはつまるところ、社会規範の実質的意義を探る必要があることを意味している。即ち、法解釈学は社会事実の認識だけでは成立しえず、そこに何等かの解釈を選び取る価値判断が介在しているのであって、ここに、一人の法律家の教養実定法とを結ぶものとして、「そもそも法とは何か」を問いなおす営みである基礎法学の必要性が存するのである。
  そこで、本論では、 第2編 で本論が扱う社会規範としての「法」の枠組みを提示した上で(※注8)第3編 ではその規範的側面を、また 第4編 ではその社会的側面をとりあげ、「法とは何か」という問いの本質に迫って行きたい。

※注記
1:参考までに、同法第1項は、「この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治三十五年法律第五十号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。」と規定している。
2:
例えば、我々はシンガポールでゴミのポイ捨てが刑法犯として処罰されるということを知ることによって、シンガポール社会のあり方の一端を知ることが出来る。

3:正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法」。現在は、新安保条約に移行した関係で、正式名称は「 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条 に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」になっている。
4:1957年、東京都下砂川町の在日米軍庁立川基地(飛行場)(現在、跡地には 昭和記念公園 、陸上自衛隊立川駐屯地、広域防災基地、東京消防庁航空隊、警視庁第8方面本部・第4機動隊などが所在)の拡張工事のための測量が行われた際に、基地反対派の住民や全学連ら左翼過激派学生が、測量を妨害すべく東京調達局(現在の防衛施設局)の測量隊に投石し、基地の柵を30メートルにわたって破壊した上、基地敷地内に不法に侵入して座り込んだ。そこで、不法侵入した全学連・国鉄労組員ら25名が「日本国とアメリカ合衆国との安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法(刑特法)」で検挙され、7名が起訴された。
 弁護側は、日米(旧)安保条約に基く駐留軍基地は憲法の禁じる「戦力」に該当し違憲無効であり、また安保条約の極東条項)は、我が国が直接関係しない紛争に巻き込まれる危険性があり、憲法平和主義の精神に反する、とした。そして、この事件を刑事特別法によって、一般の場合(軽犯罪法第1条32号)より厚く保護することは
憲法第31条(適正手続) に反する、と主張した。一方検察側は、国連加盟国であり国連憲章を遵守するアメリカ軍の行動によって我が国が紛争に巻き込まれる恐れはなく、また 第9条第2項 で禁じる「戦力」とは我が国が指揮監督権を有する軍隊のことであるから在日米軍は戦力でない、とした。
 第1審の東京地方裁判所(伊達秋雄裁判長)は、弁護側の主張をほぼ全面的に採用し、米軍駐留は我が国政府の行為であるとして、在日米軍を
違憲とした(=伊達判決、1959年)。検察側は最高裁に飛躍(跳躍)上告した。
(:工藤 宜 『ルポタージュ 日本国憲法』 朝日新聞社、1997年 179ページ以下。また、
新井 章 「憲法50年論争史」『別冊世界ハンドブック新ガイドラインって何だ?』 岩波書店、1997年 121ページ〜122ページ、『憲法判例百選Ⅱ』352ページ・408ページ、芦部信喜 『憲法』新版 岩波書店、1997年 69ページ。)
5:佐藤幸治 『憲法』第三版 青林書院、1995年 354ページ〜。また、
  芦部前掲書、306ページ〜307ページ。
6:佐藤前掲書、354ページ〜。
7:小浜逸郎 『なぜ人を殺してはいけないのか』 洋泉社新書、2000年 180ページ。
8:もっとも、学説の中には、法は「事実」であって「社会規範」ではないとするものもあるが、ここでは一応、後者の立場に立つことにする。


  本論目次に戻る   次のページへ   記事内容別分類へ

製作著作:健論会・中島 健 無断転載禁止
 
©KENRONKAI/Takeshi Nakajima 2001 All Rights Reserved.

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください