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第4編 社会の中の法

 次に、本編では、「社会規範」たる法の社会的側面・紛争(予防)処理機能に焦点をあて、その意義と特質を検証する。
 なお、本編の記事は、月刊「健論」2001年1月号「 裁判官に政治活動の自由を認めるべきか 」の内容を加筆・訂正したものである。

第1章 司法裁判の特色

●第1節 「法」の紛争処理機能と司法裁判
 
 既に述べたように「法」の目的とは「正義」(規範的目的)と「法的安定性」(社会的目的)であり、それによって社会統制機能としての紛争処理機能を発揮しているが(※注1)、現代国家において「法」が国家権力と特に結びついた結果、それらの機能は主として「裁判所」という国家機関において、「司法裁判」という国家作用として発揮される(紛争予防機能は、むしろ立法府の任務であろう)。換言すれば、「司法裁判」とはその「法」を使った紛争処理手段、即ち「法的思考」による紛争処理手段であるということができる(※注2)(但し、注意すべきは、「法」はこうした公的機関のみならず、それを援用する全ての私人によっても支持されているのであり、後述するように、「司法裁判」を唯一絶対のものと考えてはならない)。では「法的思考」乃至「リーガルマインド」legal mindとは、一体何であろうか。
 それは、(1)過去に発生したある事実上の個別的な紛争disputeを、(2)ニ当事者間(ニ当事者対立主義)の法的権利義務関係(法的紛争)に還元・再構成(※注4)(3)実定法規範を大前提、事実関係を小前提としてこれを適用する法的三段論法(※注5)を行い正当化・解決する手段、と定式化することが出来る(※注6)

※表1 法的思考の三要素

(1)過去に発生したある事実上の個別的な紛争dispute
(2)ニ当事者間の法的権利義務関係(法的紛争)に還元・再構成し
(3)法的三段論法を行い正当化・解決する手段

 そもそも、「司法裁判」は、社会統制を必要とする分野のうち、過去に起きた事実上の個別的な紛争disputeを扱う。これは、裁判所というものが、本質的に一つの事後的紛争処理手続だからである。例えば、ある人が最近の女子高生の援助交際を問題視していたとしても、それは「問題」「事態」であっても「紛争」ではなく、また一般的な問題であっても個別的な問題ではない。だから、その人が裁判所に出訴して、「女子高生の援助構成が我が国の純風美俗を損ねることの確認判決」を求めたとしても、裁判所は門前払いをするだけである。また、ある法学部の学生が、通説とされるA学説と異端学説とされるB学説のどちらの立場に立つべきかを巡って頭を悩ませ、裁判所に「A学説とB学説のどちらが正しいかを判示」するよう求めたとしても、裁判所は同じく門前払いをするであろう。その「紛争」は、抽象的なものであって事実上の紛争ではないからである(※注3)。更に、同じく事実上の個別的な紛争を扱っていても、それが「過去」に対する正・不正の追及ではなく「現在」の秩序回復を目的としている場合は、それは行政(警察)作用であって司法作用ではない。例えば、国連安全保障理事会が認定した侵略国に対する「経済制裁」は、正確には現在の平和秩序維持を目的とした「非軍事的措置」であって、過去の侵略行為に対する非難である「制裁」ではない(※注4)
 次に、裁判所が扱うのは、当事者間に発生した社会的実体としての紛争そのものではなくて、その法的側面メタ紛争、規範の次元の紛争。紛争を法的権利義務として理解出来る部分)だけである。これは、そうしてその事実上の紛争を法的紛争に組みかえることによって、紛争当事者・争点・結果(勝負の黒白)を限定し、紛争処理をやりやすくする「複雑性を縮減する」)必要があるからである(※注5)。例えば、ある愛猫家Aと愛犬家Bが、「犬と猫のどちらがかわいいか」を巡って口論になり、「犬がかわいい」と言張ったBに腹を立てたAがBを殴りつけ、殴られたBは打ち所が悪くて骨折してしまったとする。この時、もしAとBが近所の人に「喧嘩の仲裁」を頼んだとき、仲裁人Cはまず、その紛争の根本的原因に立ち戻って両者の善悪を判断するであろう。この例でいえば、果たしてBの主張した「犬のほうが猫よりかわいい」という命題が妥当か否か、である。もし、その命題が全く以って妥当でなく、愛猫家Aを傷つけるようなものであったとしたら、そうした暴言を吐いたBに対してAが腹を立てたことも「やむを得ないもの」とされ、Aは「御咎め無し」となるかもしれない。また、逆に、仲裁人がBの主張を正しいと思えば、正しい事を言ったBを殴ったAは「怪しからぬ奴」となってAの負けになるであろう。だが、こうしたことまで考えていては、「そもそも猫はかわいいのか」「『かわいい』とはどういう概念か」といった形で争点がどんどん増え、紛争は一向に解決しなくなってしまう。もしBが、「私が犬がかわいいといったのは、私の友人のペット研究家Dがそう言ったからである」等と主張すれば、こんどはDをその場に呼んで来て、話を聞かなければならなくなる。しかし、裁判所は、このAB間の紛争の法的側面しか審理せず、他の側面は(原則として)捨象することによって、この危険を回避している。この事例で言えば、裁判所は、両者の問題を、AのBに対する不法行為によるBの損害賠償請求権の問題として扱い、専らAがBを殴りBに損害を与えたかどうかについて判断をすることになる。そして、「猫がかわいいか犬がかわいいか」といった問題については、裁判所は何も言わないし、言うべきでは無いのである。
 しかも、この時裁判所が問題を判断する際には、あくまで実定法(施行されている法律)の規定を正当化根拠とし、それに紛争で生じた事実を当てはめて判断を下す法的三段論法(※注6)(※注7)。その点、近代法の裁判は、そうした一般的・抽象的な枠組みを適用する中で判断を下す形式的・合理的裁判であると言える(※注8)。例えば、上記の例で言えば、素人の仲裁人Cは、「でも私はやっぱり猫がスキで、Aさんの気持ちはよくわかる」等と言って、法律以外のことを根拠にして、その問題にしか使えない論理で紛争の内容に具体的な判断を下すかもしれない(「実質的・非合理的判断」)。そして、「喧嘩の仲裁」の類では、このようなことを正当化の根拠に据えることも許される。しかし、「法的思考」による紛争処理を使命とする裁判官は、自己の趣味や感情によって判決を書くことは許されず(それが許されるのであれば、我々は何も裁判所という国家機関を持つ必要が無くなるであろう)、あくまで法令(憲法、条約、法律、政令、条例等)に書いてあることを根拠にしなければならないのである(また、そうであるが故にその判決は正当性を持ち、正当的な権力によって強制執行されることになる)(※注9)

※注釈
1:山田前掲書、76ページ。
2:田中『法理学講義』、315ページ〜・339ページ。
 また、『社会学概論』、414ページ。
 なお、小島武司編 『現代裁判法』 三嶺書房、1987年 4ページは、「裁判」の特徴として
(1)紛争を対象としていること、(2)中立公平な第三者が判断を下すこと、(3)対立する当事者がルールに基づいて攻防をつくすプロセスが保障されていること、の3点を挙げ、「法に従うこと」を加えていない。
 勿論、裁判にはこの他にも「
権利を保護する機能」「法秩序を維持する機能」等の機能がある。
3:「裁判所で扱えない問題」が裁判に持ち込まれた実例として、
技術士国家試験の合否判定(最高裁昭和41年2月8日判決)警察予備隊の違憲確認(警察予備隊違憲訴訟)、地方議会の予算決議の無効確認(最高裁昭和29年2月11日判決)、即位の礼・新嘗祭違憲確認(大阪地裁平成4年11月24日判決)、戦後50年国会決議の無効確認(東京地裁平成7年7月20日判決)、学説の優劣判断を求める訴訟(東京地裁昭和23年11月16日判決)、研究の先後の評価判定を求める訴訟(東京地裁平成4年12月16日判決)、国立富山大学における単位認定(最高裁昭和52年3月15日判決)、郵便貯金の目減りを政府の経済政策の誤りとして賠償を求める訴訟(最高裁昭和57年7月15日判決)等がある。
4:警察で言えば、「過去に発生した具体的犯罪の検挙」にあたるのが「司法警察(刑事警察)」であり、「現在及び将来に向けた一般的秩序維持」にあたるのが「行政警察(警備・公安警察)」である。
5:六本『法社会学』、366ページ〜367ページ。また、
  六本『日本の法システム』、93ページ〜。
  田中『転換期の日本法』、239ページ。
 「複雑性の縮減」とは、法社会学者ニクラス・ルーマンの使用した表現である。
 争点や当事者を限定することは、逆に
無用な政治的紛争を避けることができるという利点もある。例えば、ミナミマグロ保存条約の適用解釈を巡って我が国とオーストラリア・ニュージーランドが争った事件(ミナミマグロ事件)では、豪州・NZ側は我が国を国連海洋法裁判所に提訴したが(豪州・NZ側は結局敗訴した)、その結果、この問題を巡っては、我が国のマグロ漁を批判する環境保護団体等のNGOは排除され、彼らによるセンセーショナルかつエモーショナルな反日キャンペーンが説得力を失って、我が国にとってはかえって良好な環境(落ち着いた雰囲気の中で、ANZ両国との友好関係を損ねることのないかたち)で交渉が出来、好都合であったという。
6:故に、我が国
刑事訴訟法第335条・民事訴訟法第191条は、判決文に「認定された具体的事実」「適用された法規範」を記載することが要求されている。
(:田中『法理学講義』、307ページ。)
 もっとも、こうした「法的三段論法」は、その正当化理由を実定法規範に依存するため、柔軟性に乏しく、
個別的正義を抑圧する危険性もある。ただ、だからといって、直ちに裁判所に政策形成機能や「民主化」の役割を負わせるのは短絡的な解決方法であろう。
7:六本『法社会学』、349ページ・350〜351ページ。
  田中前掲書、307ページ〜。また、
  市川正人・酒巻 匡・山本和彦 『現代の裁判』 有斐閣アルマ、1998年
 11〜12ページ。
 但し、既に冒頭の定義でも明らかなように、裁判は必ずしも法律問題だけを扱うのではなくて、事実認定という形で事実上の問題にも踏み込んで判断を下す(その際、事実関係が法的判断に斟酌される)。また、判決が執行されると、それは単に観念的な権利義務関係の変動だけでなく、それが強制執行されることによって「事実の世界」にも影響を及ぼすのであり、その意味で裁判所の営みは事実問題をまったく捨象しているのではない。しかしながら、事実認定はあくまで法的権利義務関係を確定する前提として行われるものであり、それに関係しない事実には裁判所が「目をつぶる」ことがある。
8:六本『日本の法システム』、95ページ。
 六本によると、マックス・ヴェーバーは、裁判の形式を正当化根拠の形式性・判決理由の合理性の観点から、次のような4種類に分類した。そしてヴェーバーは、これらの4つの種類の中で、近代裁判である形式的・合理的裁判こそが最も裁判官の恣意を排除し、判決の予測可能性を高めて人々の自由や経済活動を保障する、とした。このような考え方は、ニクラス・ルーマンの「社会システム理論」(法システムは、社会の意味の複雑性を縮減して規範的予期の可能性を高める)にも類似する。

種 類内 容実 例
神意裁判
(形式的・非合理的裁判)
神意(を体現する兆候。正義)を大前提(正当化根拠)として、判決理由は個別的・非合理的。
→判決は非合理的だが、正義による説得。
ワニ裁判・ヒヨコ裁判
盟神探湯
カーディ裁判
(実質的・非合理的裁判)
正当化根拠としての大前提は無く(制約されず)=裁判官の直感で、判決理由は個別的・非合理的。
→判決は非合理的だし、説得根拠も裁定者の素質。
原始的仲裁
(有力者の裁定)
実質的・合理的裁判正当化根拠としての大前提は無く(制約されず)=裁判官の直感で、判決理由は一般的・合理的。
→判決は合理的だが、説得根拠は裁定者の素質。
人民裁判
近代裁判
(形式的・合理的裁判)
法(客観的正義)を大前提(正当化根拠)として、判決理由は一般的・合理的。
→判決は合理的で、正義による説得。
司法裁判
仲裁

 歴史的に見れば、西洋近代法は、当初の中世キリスト教自然法思想的な「神意裁判」からその形式性を受け継ぎ、正当化根拠と判決理由を「神」(中世自然法)から「理性」に置き換えて合理的な近代裁判(形式的・合理的裁判)に脱皮したものと言える。
 
なお、「神意裁判」では、我が国でも、熱湯に入れた手の火傷具合で正邪を判断した「
盟神探湯(くかたち)」なる儀式があったし、この他諸外国では、「ワニ裁判」(アフリカ部族等で行なわれた方法で、ワニに食べられた方を邪悪と判断する)、「ヒヨコ裁判」(ヒヨコの内蔵の動きによって判決を下す方法)等、現代からすれば摩訶不思議な裁判方法が罷り通っていた。また、中世社会では、村の慣習に精通した古老が「法を語る」という形で正当性を付与したり、我が国鎌倉幕府(御成敗式目)においては「武家の慣習」=「道理」を一つの正当化根拠としていた。いずれも、実在しない観念上の法理を正当化原因としている点で共通するものであろう。
(:小島前掲書、12ページ。また、小島『現代裁判法』、34ページ。)
9:
六本『日本の法システム』、93ページ。

●第2節 司法裁判の限界
 だから、裁判所(法的思考)というのは、世の中の森羅万象、あらゆる問題difference)を処理することが出来る万能の技法ではない
 例えば、「公害をどう法的に規制するか」「軍事力をどれだけ整備するか」といった将来に向けた抽象的な問題は、民主的な基盤を持つ国会が担当すべき立法政策上の問題であり、裁判所よりも国会が扱うべき問題である(※注1)。裁判官の職務は「法の発見」「法を語ること」であり、民意の集約や「法を創る」ことではないからである。裁判官は、国会議員と異なり選挙で選出されたわけではない以上民主的基盤が弱いが、そうした民主的基盤をほとんど持たない者が国会と同様の立法行為(規範の定立)を行うことは、「司法立法」として許されない(※注2)
 また、政治的・社会的・宗教的側面しかない紛争を捉えて処理することもできない。例えば、ある宗教団体において、その宗教の教義上どの本尊が正当か、といった紛争には、裁判所は関与できない(※注3)。これについて我が国最高裁判所は当初、「宗教上の教義を巡る紛争が含まれていても法的側面については判断する」という態度を示していたが(種徳寺事件、最判昭和55年1月11日。本門寺事件、最判昭和55年4月10日)、その後、そうした紛争はそもそも裁判所の審査の対象外であるとの態度をとるようになった(創価学会板まんだら事件、最判昭和56年4月7日)。また、 憲法第9条日米安保条約自衛隊法 の関係について、最高裁判所がいわゆる「統治行為論」を展開し、 日米安保条約 の合憲性について、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にある」(前掲砂川事件)としたのは、この紛争があまりにも大きな政治的側面を持っており、司法的手段だけでは問題を処理し難い、と判断したからに他ならない(※注4)
 更に、例えそれが過去に起きた、法的側面を有する紛争であったとしても、法的三段論法(判断代置方式)を用いることが出来ないものについては、裁判所の判断は及ばない。還元すれば、法律上の要件が明確でなく、司法や行政に自由裁量権があるが故に、実定法によってその裁量行為の違法・合法の判断を正当化し得ないものは、原則として「リーガルマインド」では解決することが出来ないのである(※注5)例えば、原子力発電所の立地条件については、(原子力安全委員会等による手続上の規制はあるにしても)原則として立地そのものに法律上規制があるわけではないから、行政が適切な場所を選んで自由に設置(を許可)出来る。この時、例え周辺住民が「原発は嫌だ」といって裁判所に提訴しても、そもそもその立地について規制する大前提(実定法)が無ければ法的三段論法を行うことができず違法・合法の判断が出来ない(※注6)
 無論、今日の裁判所には、複雑化した社会に対応して一定の政策形成機能が求められているし、また裁判官の法的三段論法の中には一定の法創造が含まれることは事実であるが、それらは裁判固有の機能ではない。実際に、我が国の裁判所はこうした問題を取り扱わない(裁判所法第3条①(※注7)当事者が多数に及び争点等を限定し難い場合(大規模訴訟)は、例外的扱いがなされて当事者・争点の限定化が行われる(民事訴訟法第268条・第269条)。

※注釈
1:田中『転換期の日本法』、240ページ。
 これについてアリストテレスは、将来(未来)へ向けて行う「議会弁論」と過去へ向けて行う「法廷弁論」を区別し、現在へ向けて行う「演説弁論」とともに3種類に区分した。

種 類時間形式目 的対 象
議会弁論
(審議的弁論)
未来 勧奨 

制止
利益・損害 判定者 
演説弁論
(演示的弁論)
現在称賛

非難
美・醜
名誉・不名誉
一般人
法廷弁論過去告訴

弁護
正・不正判定者

(:アリストテレス 『弁論術』 岩波文庫、1992年)
2:市川他前掲書、12〜14ページ。
 近代以前の裁判官は、法を適用する者であるのと同時に法を創造するものでもあったが、こうした法創造を裁判官の個性に委ねる方法は、モンテスキューの三権分立主義の登場によって否定され、裁判官は「法を語る」に過ぎないものとされた。
 もっとも、法的三段論法をする際に、裁判官は「法解釈」と称して
一種の「法創造」を行っているのであり、かならずしも裁判官が一切の法創造を禁じられているわけではない。実際、法律の世界にとって裁判官の法解釈、即ち「判例」の意義は大きいし、また裁判官は、その紛争について処理する実定法が存在しないとき(これを「法の欠缺」という: 第2編第1章第3節 参照)も、「条理(naturalis ratio)」「法の一般原則」あるいは「衡平と善」を考慮して判決を下さなければならない。
(:小島武司編 『裁判キーワード』新版補訂版 有斐閣、2000年 18〜19ページ。)
(:この問題についての詳細は、拙稿「
判例とは何か 」『月刊「健章旗」』1999年6月号を参照のこと。)
3:小島前掲書、6〜7ページ。
4:その意味では、
「板まんだら事件」「砂川事件」における裁判所の判断回避は、(憲法学では異なるように説明されているが)本質的に同じ理由によるとも言える。
 なお、
「砂川事件」及びその憲法上の問題については、月刊「健章旗」 1998年8月増刊号の記事 を参照のこと。
5:この問題は、特に
行政法学の分野において、「行政裁量論」として議論されている。
(:塩野 宏 『行政法Ⅰ』 有斐閣)
6:もっとも、その際行政に裁量権の濫用があったり、都市計画法や環境影響評価法に抵触する部分があった場合には、当然、その限度で違法・合法の判断を下すことは出来る。また、最近の裁判所は、こうした裁量行為についても、「
適正な手続が踏まれたかどうか(例えば、伊方原発訴訟のように、原子力発電所の設置許可を巡る国の原子力委員会の審査に瑕疵が無かったか)」という観点から判断を下すようになっている(法律上、「適正な手続を踏むべきだ」ということになっていれば、それを手掛かりにして法的三段論法を用いることが出来るから)。
7:「裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて
一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。」
 もっとも、だからといって裁判所の扱っている事件全てが「訴訟事件」であるわけではなく、一部には
「非訟事件」と呼ばれるものもある。「非訟事件」とは、①過去に発生した具体的紛争を前提としないもの(不在者の財産管理、後見人の選任等)や、②具体的紛争を前提としつつも、法規範の規定が一義的でないがために法的三段論法を適用できず、裁判所に大幅な司法裁量が許されているもの(離婚に伴う財産分与、扶養、遺産分割等)のことであり、その本質は司法裁判というよりも裁判所による行政作用である。その他、最高裁判所による規則制定権や人事権の行使も、憲法上例外的に認められた司法立法権、司法行政権の行使であって、裁判ではない。
(:上原敏夫・池田辰夫・山本和彦 『民事訴訟法』(第2版補訂) 有斐閣Sシリーズ、2000年 15〜17ページ。
  田中『法理学講義』、338ページ〜。六本前掲書、350ページ。)

第2章 裁判以外の紛争処理手段と「法」

●第1節 裁判以外の紛争処理手段
 そこで、こうして社会構成員間の紛争を処理する手段として、司法裁判の限界を補うその他の手段が存在している(※注1)。例えば、ある紛争を最も包括的かつ最終的に処理し得る手段とは、その紛争を生じた関係を断つこと=紛争の回避avoidance)である(但し、この方法は法的社会統制手段には入らない)。図1は紛争の展開を表わしたものであるが、この図からもわかるように、そもそも多くの(広義の)紛争が、「(狭義の)紛争」状態に至る前に脱落attrition)しており、最終的に侵害及びその原因主体が特定されて対立が顕在化しても、相手方からの反対要求counter claiming)を受けて、(紛争継続の費用を考え)紛争を回避・終結させてしまう場合もある(※注2)。しかし、一般に、我々が紛争を生じさせるような相手と人間関係を完全に遮断することは不可能であるし、それは一方的な解決策に過ぎない。また、こうした処理策は、侵害の緊急性・重大性が小さく、あるいは紛争継続の費用を考え紛争終結のほうが有利である場合に限られるのであって、侵害が重大である場合や強い敵対感情が醸成されてしまった場合は、回避は出来なくなる。例えば、死亡轢き逃げ事故を起こしたドライバーは、被害者を現場に放置することによって紛争に巻き込まれるのを避けようとするが、これは被害者側にとっては全く選択不可能な処理手段である。

※図1 紛争の展開

紛争の展開

段 階内 容
非認知侵害
 
UnPerceived
Injurious Experience(unPIE)
 
客観的には侵害が生じているが、被害者の主観にはそれが登場していない状態
侵害を主観的に認識していない
既認知侵害
Perceived
Injurious Experience(PIE)
侵害行為を認知(naming)しているが、原因主体が特定・認識されていない状態
自己以外に責任の所在を見出していない、情報の欠如、緊急性・重大性が無い
特定侵害
grievance
問責(blaming)によって侵害行為及びその原因主体が特定された状態
要求以外の方法で侵害を除去・中和、情報の欠如、緊急性・重大性が無い
紛 争
dispute
相手方に対して侵害の事実を知らせ、救済を要求(claiming)して対立が顕在化した状態
交 渉
negotiation
要求に対する反対要求(counter claiming)も行われて、紛争解決を働きかける状態

 そこで、一般的には、まずは紛争それ自体を「事実上の問題」として処理する事実上(政治上)の処理political settlementが行われる。その典型例が、紛争当事者間による直接の交渉である。両者が紛争の存在を前提として受け入れる以上は、この交渉こそが最も基本的かつ包括的な紛争処理手段であり、両者は互譲による妥協によって、問題解決を図っていく(※注3)。多数決によるいわゆる政治的決着や、武力(軍事力)を使った暴力的決着(暴力団の介入、戦争、報復措置)(※注4)も、このカテゴリーに含まれる。実際、法的側面を全く有しない紛争(例えば、軍拡によって双方の軍事力が脅威となり、軍事的緊張関係それ自体が紛争<difference>となる場合や、愛猫家と愛犬家の「犬と猫とのペットとしての価値」を巡る紛争)の場合は、政治的手段によってこれを処理する他ない。もっとも、そうした妥協は、当事者間の合意によって成立するという意味で包括的かつ安定的であるが、他方で両者の交渉力の差が大きいときは、不公平な結果を招きかねない(※注5)
 他方、司法裁判と同じような「法的思考」を用いた第三者的紛争処理手段には、他にも(A)仲裁、審判その他の裁判的手続、及び(B)調停、周旋、仲介、審査その他の非裁判的手続がある。これら(A)(B)に該当するものをADR」(Alternative Dispute Resolution代替的紛争処理手段と呼ぶが(※注6)、厳格に言えば、(B)は「法的枠組み」ではなく、法的な判断と事実(政治)的な判断が混じった原始的なものではある。しかし、調停に代表される中間的な紛争処理手続は、法的側面以外の争点も直接扱うことが出来、実定法や判例(先例)に拘束されないので、個別的正義を十分に斟酌した、実情に即した解決をはかることが出来る、最終的に当事者同士の合意に達すれば、その結果は守られやすい、法的側面が少ない(薄い)分、法律専門家でなくてもわかりやすい、費用と時間を節約できる(また、裁判所を多く設置する必要が無くなる)、当事者同士の交渉よりも円滑に進む、といった面で裁判よりも優れている面がある(※注7)

※図2 紛争処理と「法的枠組み」

紛争解決と法的枠組み

※表1 各種の平和的紛争処理手段

大区分小区分第三者
の関与
内 容利 点欠 点実 例
法的
処理
手段
司法
裁判
判断者
として
予め選任された裁判官によ
る法的裁定
judicial settlement
当事者の合意不要
実定法で正当化
第三者関与による透明化
法的側面のみ解決
時間・費用がかかる
先例拘束性あり
個別的正義を圧迫
国内裁判所
国際司法裁判所
国際海洋法裁判所
仲裁
裁判
判断者
として
当事者がその場で選任した
裁判官による法的裁定
arbitration
国際商事仲裁
国際スポーツ仲裁裁
仲裁契約(国内法
準法的
処理
手続
調停助言者
として
調停人が客観的・中立的
立場で事実認定・法的判断
conciliatiion
法的側面・事実的側面を
包括的に処理可能
(違法性だけでなく
不当性も判断可能)
先例拘束性なし
個別的正義も尊重(衡平)
時間・費用がかからず
第三者関与による透明化
当事者の合意が原則
却って司法裁判の制
度拡充・法化の障害
(処理の不透明性)
家事審判、海難審判
公害等調整委員会
日蘭紛争処理条約
審査助言者
として
調停人が客観的・中立的
立場で事実認定を行う
inquiry
民事調停
家事調停
住民監査請求
仲介助言者
として
調停人が事実上の処理策
を提示する
mediation
中東和平交渉
古典的仲裁
喧嘩の仲裁
周旋
(斡旋)
助言者
として
調停人が当事者間の交渉
の便宜を図る
good offices
日露講和会議
労働委員会
弁護士会の法律相談
事実上

処理
交渉なし当事者間で紛争を包括的
に事実上処理するための
対話を行う(
negotiation
紛争を包括的に処理
先例拘束性なし
時間・費用がかからず
当事者の合意が原則
なかなか処理出来ず
必ずしも衡平でない
日米首脳会談
日米構造協議

=公示催告及ビ仲裁手続ニ関スル法律(明治23年法律第29号)

※注釈
1:市川他前掲書、6ページ。また、六本『日本の法システム』、91〜92ページ。
2:市川他前掲書、6ページ。また、六本『日本の法システム』、91〜92ページ。
また、和田安弘 『法と紛争の社会学』 社会思想社、1994年
 102ページ以下。 
 それが純粋に経済的な問題であれば、「保険」によってリスクを回避することも出来る。
3:市川他前掲書、7ページ。
4:「不戦条約」、「日本国憲法」第9条がいう「国際紛争解決の手段としての戦争」とは、正にこの(A)の処理方法(政治的処理)において、戦争という手段を選択しない、ということである。蛇足ながら、故に国際法の強制執行を行う国際警察軍のような組織<図の「裁判の執行」の部分に該当>は、「国際紛争解決手段としての武力行使」をするわけではないから、我が国自衛隊も当然参加できるものと考えるべきであろう。
5:『社会学概論』、413ページ。また、和田前掲書、102ページ。
 和田前掲書によれば、人々が力ではなく準則(法)による処理を選択するには、適切な環境が準備されていなければならない、という。

6:『民事訴訟法』、7ページ。六本前掲書、365ページ。市川他前掲書、8ページ。  
7:六本『法社会学』、365ページ。表1参照。
 国連憲章第6章に定められた「国際紛争の平和的処理」の規定もADRの一つである。 

●第2節 司法裁判のアイデンティティ
 では、(司法)裁判(及び仲裁)とそれ以外(ADR)の違いは何であろうか。
 端的に言えば、それは「司法裁判」が当事者に加えて「公平な第三者」としての裁判官を加えた「三者関係」triad)で行われ、裁判官が「裁定」adjudication(当事者の同意を得る事無く、第三者が判断を下し当事者を拘束する問題解決方法)を下して問題の法的側面だけを解決する「判決」を下している点にある(※注1)。無論、裁判官の具体的な役割については、英米法の当事者主義と大陸法の職権主義との間で差はあるが、いずれの立場にせよ裁判官が「公平な第三者」として登場してくることにかわりは無い。また、一方の侵害行為による主観的な損害の填補策として市民間で適用される「民事訴訟」と、客観的な法規範違反そのものを問う「刑事訴訟」の違いもあるが、いずれの裁判でも三者関係に変わりは無い。
 これに対して調停周旋では、参加する調停人や調停委員は一応第三者ではあるが、彼の提示する紛争処理策には強制力は無く、当事者同士がそれを受諾しなければ、調停案は成立しない。ここにおける第三者の役割は、当事者同士の議論の交通整理をし、その透明性と信頼性を高め、当事者同士の自主的紛争処理を助長するというものである(※注2)
 つまり、「公平な第三者として当事者を拘束する裁定を下す」ことこそが「(司法)裁判」と「ADR」を分別する、従って「司法機関としてのアイデンティティ」となり得るものなのである。

※注釈
1:田中『法理学講義』、327ページ。また、六本『法社会学』、346ページ・366ページ。六本『日本の法システム』、95ページ〜。市川他前掲書、7ページ。
2:図1及び図2参照。

●第3節 司法裁判の不完全性(断片性・内在的制約)
 ここで注意すべきなのは、上記(A)〜(C)及び「司法裁判」という紛争処理方法は、再三述べているように、いずれも紛争の法的側面(規範的側面、メタ紛争部分)のみを解決するものであり、紛争の「処理」(settlement乃至management)方法に過ぎないのであって、紛争それ自体を円満に「解決」resolutionする方法ではない、ということである(※注1)
 例えば、ある夫婦の不倫問題を考えてみよう。夫の不倫に嫌気が差した妻は、親元に戻る等として別居生活を送ることによって、事実上の婚姻関係を断ち切ることは出来る。また、妻が経済的に独立していれば、そうした事実上の離婚関係を長く継続させることが出来るかもしれない(もっとも、独立していない場合は、収入のある夫が妻の生活費を支払わなければならない。この法律上の義務を生活保持義務という)。しかし、それも、夫側が不倫について謝罪したり、あるいは不倫関係を止めるといった対応をしない限り、事実上の処理策の一つに過ぎない。また、妻が夫と法的離婚を決意して手続を踏み、更に夫とその不倫相手に不法行為責任を追及すれば、裁判所はそれを認めて夫に対し離婚及び損害賠償を命じるであろう。しかし、ここで妻が得られたのは、損害賠償で得たいくばくかの金銭と法的な離婚状態、それに「法的には自分が勝利した」とする満足感に過ぎないのであり、本来あるべき円満な夫婦生活を取り戻せたわけでも、夫の愛情を回復させたわけでもない。結婚生活が破綻していれば、裁判所にそれを認定させて判決離婚をすることが出来るが、裁判所に「愛情回復判決」を出させるわけにはいかない。裁判所は、この問題の「法的側面」という一部分に対する法的(メタ紛争的)な=観念的な回答を与えただけであり、それは必然的に断片的・部分的なものにならざるを得ないのである(※注2)
 故に、ある紛争について法的側面が大きければ大きいほど法的処理の有効性は増し、逆に政治的側面が大きければ大きい程、法的手段が処理策として効力を減じることになる(※表2参照)。そればかりか、場合によってはそうした紛争を無理に法的に処理しようとして、かえって紛争を一層激化させることすらある(法的紛争処理の逆機能、悪しきリーガリズム)(※注3)。例えば、上記の設例で、夫が自らの行為を反省して謝罪しようとしたところ、妻が弁護士に依頼して損害賠償訴訟を提起してきたら、どうであろうか。恐らく、夫に芽生えた謝罪の気持ちは歪み、却って問題を激化・複雑化させるのではないだろうか。実際に、1978年8月の三重県「隣人訴訟」事件(津地判昭和58年2月25日判例時報1083号125頁)では、弁護士による不用意な民事訴訟提起の勧奨却って紛争を劇化させてしまっている(※注4)。この事件は、知り合いで近所に住む子供が自宅に遊びにきたところ、誤って隣接する溜池に転落・溺死してしまい、溺死した子供の親が遊びに来られた側(隣人)と国・三重県(公物である溜池の管理者)に対して損害賠償を請求したもので、一審の津地方裁判所は「遊びに来られた側(隣人)に注意義務がある」として500万円あまりの損害賠償を認めた。しかし、これに対して新聞等の報道機関が「隣人の好意に辛い裁き」等と書き立てた為、この事件を訴訟で処理しようとした原告に嫌がらせや脅迫まがいの非難が集中し、結果訴訟を取下げざるを得なくなってしまったのである(※注5)

※表2 各種の紛争とその処理手段

種 類図式的表現実例
(A)法的側面の大きい紛争
(司法裁判になじむ)
法解釈上の紛争
契約上の紛争
有価証券に関する紛争
(B)法的側面・事実的側面
共に存在する紛争
(裁判・調停・交渉になじむ)
普通の紛争
(C)事実的側面の大きい紛争
(事実的処理になじむ)
国際紛争・武力紛争(戦争)、「政治問題の法理」
宗教的紛争(板まんだら事件)
政治的紛争(経済政策のあり方等)

 こうした傾向は、国際紛争の司法的解決の場面において更に顕著である。というのも、国際社会において、その紛争の法的側面に対し法的回答を与えるのは国際司法裁判所(その他、国際海洋法裁判所<ITLOS>や常設仲裁裁判所といった機構も存在している)であるが、その国際司法裁判所は、紛争当事国の紛争の付託合意(コンプロミー、compromisが無ければその事件についてそもそも判断をすることさえ出来ず(紛争を扱う権限=管轄権が無い)、また例え管轄権があったとしても、その判決の履行を強制する手段を持たない(例外的に、その事件が国際の平和と安全の維持にとって脅威となるときは、国連安全保障理事会国連憲章第94条に基づいて強制措置を発動し得る場合もあるが、実際には常任理事国の拒否権の壁もあって一度も発動されたことはない)。ひどい場合には、アイスランド漁業管轄権事件(判例国際法83事件)北海大陸棚事件(判例国際法37事件)(※注6)の国際司法裁判所判決のように、紛争当事国に「誠実な再交渉を命じる判決」を出すこともある。これは、上に挙げた不倫問題のケースで、妻が家庭裁判所に離婚調停・審判を求めれば、家庭裁判所はそれを必ず受理して夫を法廷に呼び出し、最終的に判決が確定すれば、その履行を強制することが出来る国内司法制度と大きく異なるものである。つまり、国際社会においては、「法」の果たす役割が相対化されているのであり、国際司法裁判所が与える法的な回答には損害賠償すら含まれず(敗訴した国が任意に支払えば別だが、拒絶した場合に国際司法裁判所が履行を強制することは出来ない)、観念的な「法的な満足」を得るだけなのである(※注7)(※注8)(※注9)

※注釈
1:六本『法社会学』、351ページ・366ページ。六本『日本の法システム』、66ページ。田中『転換期の日本法』、240ページ。『社会学概論』、413〜414ページ。
 裁判所法第3条①
は、「裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。」としており、「法律上の争訟」でないものについては判断をしない。
 「法律上の争訟でない」として判断を回避したものとして、前述した
「創価学会板まんだら事件」が有名である。
2:なお、ここでは問題の焦点からずれるので本文では扱わないが、司法裁判の断片性を構成する理由として、この他にも、①法に明示されない価値や社会の急速な変動に伴って法が欠缺している場合(例:新しい権利)、②手続的厳格性や専門性の故に紛争の法的再構成に失敗する場合、③高度の専門性の故にコストが高く訴訟経済上の理由から紛争を裁判所に提訴できない場合(それを緩和する措置として最近、「民事法律扶助法」という法律が出来た)、④司法裁判制度自体が公的な処理方法であるが故に私事や秘密の公開を望まない当事者がこれを利用しない場合、がある。
(:六本『日本の法システム』、99〜100ページ。)
3:『社会学概論』、409ページ。
4:
市川他前掲書、228ページ。また、小島前掲書、31〜32ページ。小島『現代裁判法』、20ページ。六本『日本の法システム』、439ページ〜。
 事件は昭和52年5月8日に三重県鈴鹿市野村町字仏川608番地の農業用溜池で発生した。当時3歳4ヶ月だったAは当日、同じ住宅地に住む友人Bの家(当時、Bの両親は大掃除をしていた)に遊びに行き、付近で2人で遊んでいたが、午後3時頃Aの母親が買物に出かけるのでAを引き取ろうとしたところAが駄々をこねたので、それを見たBの父親が「いいではないですか」等といって面倒を見る旨言ったため、Aの母親はBの両親にAの保護監督をして買い物に出た。ところが、その後Aは以前父親と潜ったことがあるこの溜池で「泳ぐ」と言い出し(Bは池のそばまで来たが泳がなかった)、一人で泳ぎだした。しかし、結局Aは溺れて溺死。BがBの両親に事件を知らせて大騒ぎとなった。Aの葬儀にはBの両親も参加したが事件について話し合いは行われず、この間、Aの母親やBの両親の間で衝突があった。Aの母親は同年12月、Bの両親、溜池の管理者である鈴鹿市、三重県、国及び建設会社(有限会社南部建設)を被告として総額3000万円の支払いを求めて提訴した。津地裁は、Aの母親が主張するような準委任契約の存在は否定したが、Bの両親らに民法第709条・第719条に基づいて500万円の損害賠償支払いを命じた(国の国家賠償法2条1項の営造物責任は否定された)。
5:判決当時の夕刊には、「近所付き合いに”冷水”」「温かい心、失う心配」「預かった側にも責任」「預かった幼児水死、隣人夫婦に厳しい判決」「隣人に深刻な波紋」「人の子預かれぬ」「被告”親切があだになるとは”」「遊ぶことが不安に」「納得できない控訴する」「社会生活ギクシャク」「”向こう三軒両隣”ますます死語に」「”近所の善意”に厳しい判決」といった見出しが踊り、Aの両親は「鬼」「金もうけのためにガキを使うのか」「ひとでなし」「早く死ね」「非国民」といった内容の脅迫電話・脅迫手紙が届き、親戚を含めて被害を受けた。そこでAの両親は訴訟を取下げようとしたが、取下げには被告の同意が必要であり、被告(Bの両親)がこれを拒否すると、今度はBの両親に対していやがらせや脅迫電話が殺到し、取下げに同意せざるを得なくなった。こうした事態に対し法務省も、「裁判を受ける権利の侵害」の疑いがあるとして異例の見解表明を行った(昭和58年4月8日)という。
(六本『日本の法システム』、439ページ〜。)
6:
田畑茂二郎・竹本正幸・松井芳郎 『判例国際法』 東信堂、2000年の事件番号による。
7:
国際社会において法的紛争処理手続が相対化されているのは、基本的に国際社会が
独立主権国家によって構成され、国際法や裁判所も又その独立主権国家の合意によって成立しているという事情があるが、更に言えば、国際紛争は国内紛争と比較して一層複雑であり、上記の如き「法的満足感」が得難いという側面もあろう。
8:逆にいえば、国際紛争の軍事的手段による解決も又、問題の軍事的側面にだけ回答を与えるという点では、法的処理と同様の不十分性をもっている。例えば、
第2次国連ソマリア活動(UNOSOMⅡ)において、米軍を主体とする「平和執行部隊」は、国連安保理から武力行使の授権を受け、武装解除に応じないアイディード将軍派に対して軍事的攻勢をかけたが、それは失敗し、純軍事的手段を用いてのソマリア内戦解決は失敗した。
9:このように、国際法の世界においては、国際司法裁判所の判決は強制履行されることがない。そこで、国際法においては、「そもそも
国際法は『法』か」という議論すら存在している。これは結局のところ、「リーガルマインドによる紛争処理」にどの程度の実効性を要求するのかにかかっている。否定論者は、国際法は強制執行が出来ない以上法ではない、つまり、国際法は法的紛争処理システムとしては有効性が低いことを根拠にしているが、紛争処理システムの有効性と強制執行制度の有無は必ずしも一致しない。現に、世界各国はこれまで日常的にはよく国際法を守ってきており、国際司法裁判所の判決が最終的には当事国間の紛争処理に役だった例も多い。逆に、国内法においても、いくら強制履行をしたとしても、表2の類型(C)のように、紛争の法的側面が政治的側面より遥かに小さければ、紛争はほとんど解決しないことになる(「統治行為論」「隣人訴訟」がそのよい例)。以上より、「国際法はやはり法である」(正確に表現すると「国際法は法だから法である」という奇妙な循環論法になる)ということが出来よう。

●第4節 法的紛争処理システムの存在意義
 では、なぜ法的紛争処理は不完全でありながら、今日最も重要な紛争処理手段として存在しているのであろうか。
 一つの理由は、前述したように司法裁判は形式的・合理的な裁判であり、判決の根拠となる「法」には「正義」の要素が含まれるため、法的に勝利した者はあたかも自らの主張が「正義」であると認定されたかのように感じ、それに満足して紛争状態の終結に同意するからである(※注1)。そもそも、形式的・合理的裁判である司法裁判においては、当事者双方がそれぞれ自己の主張するように法的三段論法を展開し、それぞれ「自分の法的三段論法のほうがが正義に適う」と主張するのであって、当事者の事実上の利益そのものが法廷で論じられるわけではない(原告が被告に要求するのは「被告の行動を法=正義に沿ったものにせしめること」であって「被告から原告に利益を移転すること」ではない)。このような、当事者が主張する主観的な法的三段論法、即ち「主観的な正義」「権利」と呼ぶが、裁判官は、それらの「権利」の主張を吟味した上で、公平・客観的な第三者として、どちらの「権利」=「主観的正義」がより「法」「客観的正義」に合致するかを判断する(※注2)。しかも、ここで認定基準となる「客観的正義」=「法」は「社会規範」であり、その社会の構成員全て(あるいはその大多数)にとっての一般的な「主観的正義」とも共通するものであるから、「客観的正義」の認定を受けることは即ち不特定の第三者を含む社会全体を規範的に動員するに等しいのであり、それだけに与えられる正当性・権威も強固なものになるのである。事実、我々は日常生活において、「法的に勝利した」という事実を以って、その紛争を一件落着とすることが多い。新聞用語でも、よく「法的手段に訴える」「法的決着がついていない」等と書かれることがあるが、これも法的処理手段の権威の高さを示したものであろう(※注3)
 また、裁判の手続そのものが、当事者にとっての一つの説得力になっていることも重要である。即ち、司法裁判は、あらゆる紛争処理手続の中で最も厳格な手順を踏んで判断を下しており、原告・被告双方の「言い分」を十分聞いて行われるが、そうして「言い分を聞いたこと」が、当事者をして十分な満足となる場合が多々あるのである(従って、そこでは、後述するように裁判官の中立性が極めて重要になってくる)。例えば、ある消費者が不良品による事故の損害賠償を求めるべく大企業の「お客様相談窓口」に苦情を申し出ても、企業側が相談に応じなければ問題解決には至らないが、消費者がこれを裁判に持ち込めば、「被告」「原告」という平等な形で審理が行なわれ、どんな相手(国や大企業)であっても対等な「話し合いのテーブル」に立たせることができる。英米における法の諺に「相手側からも聴くべし」「双方に耳を貸すaudi et alteram partemというものがあるが、この諺は正にこの「手続的正義」の重要性を示唆しているといえよう(※注4)
 更に、国際社会においても、国際司法裁判所の判決は、なるほどその履行を権力的に強制することは出来ないという意味で非力ではあるが、それはしばしば「錦の御旗」「水戸黄門の印籠」として機能し、結果として当事国間の交渉を促進する効果を有している(※注5)。例えば、上に述べたアイスランド漁業管轄権事件(判例国際法83事件)北海大陸棚事件(判例国際法37事件)においては、結局のところ当事国間の交渉で問題解決が図られており、国際司法裁判所の「目論見」は十分機能したのである。事実、1960年代以降に我が国で発生した一連の「現代型訴訟」(公害訴訟、薬害訴訟、嫌煙権訴訟等)では、原告(被害者)側は判決を得ることすら目的とせず、単に裁判所に提訴して被告を強制的に「御白州」に引き出し、社会的な注意喚起を行い、自己の主張を十分述べることそのものが目的となっているものが多い。つまり、こうした事例では、裁判自体は和解か敗訴で終わっても、結果として原告側の目的を達成し、紛争が処理されることになるのである(※注6)
 冒頭で、「リーガルマインド」とは、・・・・・(紛争を)解決する手段であると定義したが、これは、正確には、「紛争の法的側面を観念的に解決することによって当事者間の紛争処理を促進し、以って社会秩序を維持すること」(※注7)、乃至は「法的側面を観念的に解決してあたかも生の紛争そのものが解決したように見せかけ、紛争当事者を納得させるて社会秩序を維持すること」、と定義付けられるのではないだろうか(※注8)(※注9)。その意味では、実は司法裁判もまた畢竟、調停や周旋と同様に当事者同士の紛争処理を促進・助長する補助的手段に過ぎないのである(※注10)

※注釈
1:六本『法社会学』、368ページ。
2:
六本『日本の法システム』、60〜61ページ。
 フランス語で「法」は「客観的権利(
droit objectif)」と表現され、「権利」とは「主観的権利(droit subjectif)」と表現される。そしてまた、「権利」とはフランス語で「正義」と同義である。即ち、「法」とは「客観的正義」であり、「権利」とは「主観的正義」である。
 付言すれば、俗に「裁判所は弱者の味方である」といった言い方がされるが、これは厳密に言えば
誤りである。何故ならば、既に見てきたように、司法裁判における判断基準は「法」=「客観的正義」であり、当事者は全く対等な立場で自己の「主観的正義」が「客観的正義」に合致することを主張するのであって、「その原告が強者であるか弱者であるか」といった視点はそもそも捨象されるし、また捨象されるのが司法裁判の特徴だからである。無論、実際問題として、社会的な弱者が法廷において強者と対等な立場に立てるため、裁判所は弱者の味方をしているようにも見える。しかし、例えば薬害エイズ事件における安倍 英・元帝京大学副学長の一審無罪判決のように、強者と思われる側が裁判に勝つ場合もある。やや文学的に言えば、法は常に「正義の味方」であっても「弱者の味方」ではない
3:六本『法社会学』、349ページ・351ページ。
 社会学者のニクラス・ルーマンは、裁判の「正当性」を、「敗訴した当事者がもはやいかなる抗弁も許されず社会的に孤立すること」と理解している。
4:和田前掲書、166ページ・199ページ。
 和田前掲書によれば、交渉が妥結するのは①準則的(法的)な考慮が働く場合と②打算的(現実的)考慮が働く場合の2種類があるが、前者は、そうした考慮が保障されるような状況下では、ある程度自動的に合意が成立するという。
5:逆にいえば、国内裁判所も、
判決の履行を権力的に強制できるからといって、国際司法裁判所よりも強力な紛争処理機関であるとは当然には言えない。何故ならば、前述したように、国内裁判所といえども結局はその紛争を断片的に処理しているに過ぎないからであり、その点では国際法廷も国内法廷も同じだからである。
6:田中成明 『法の考え方と用い方』 大蔵省印刷局、1990年 279ページ〜・293ページ〜。小島『現代裁判法』、40ページ。また、図1参照。
 例えば、国鉄車両の全面禁煙化を主張した
嫌煙権訴訟(東京地裁昭和62年3月27日付判決)では、原告側は敗訴した一審で控訴せず、訴えを取下げているものの、裁判では散々「嫌煙権は認められない」等と主張していた国鉄は、その言葉とは裏腹に、実際にはその訴訟以降禁煙車両を増やして行った。また、新幹線運賃払戻請求事件(東京地裁昭和53年11月30日判決)では、「新幹線の運賃を(新幹線とは別ルートを走る)在来線の実測キロに基づいて算出するのは運賃法第3条に反する」として200円の不当利得返還を訴えた1人の原告の主張を裁判所が認め、これを受けて国会が運賃法の改正を行なったという。
7:田中『法の考え方と用い方』、279ページ〜。
 
最近の民事訴訟法改正により、新たに「弁論兼和解」という制度が法定化された。これは、法廷で審理を行う前に、法廷とは別の小部屋で当事者及び裁判官が集まり、実質的な討論や争点の絞りこみを行い、併せて和解(裁判上の和解)を試みるというものである。ここでは、正に「裁判」が「和解」を促進するための材料として働いており、両者が融合した形となっている。
(:『民事訴訟法』、125ページ。)
8:
無論、こうした処理方法で全てが「解決」というわけではなく、そこから外れたところに真の被害者がいることも多い。また、こうした法律学の教義学的性格は、しばしば批判されるところである。
9:だからこそ、表2の
類型(C)のような紛争は、法的処理にはなじまない。何故ならば、そうした紛争は法的に解決できる法的側面があまりにも少ないので、上述した「あたかも紛争そのものが解決したかのように処理すること」が出来ないからである。
10:和田前掲書、106ページ。また、中坊公平 『日本人の法と正義』 日本放送協会、2001年 48〜49ページ。
 何故ならば、
紛争とは究極的には両当事者間のものであり、第三者によってその処理を完結することは不可能だからである。
 
そのことは、図1及び図2を見ればよくわかる。
 中坊氏は、自身が体験した
「森永ヒ素ミルク事件」において、「裁判に勝つことではなく、被害者の救済こそが目的である」と感じるようになったという。

第3章 日本人の法意識

第1節 日本人の伝統的法意識
 ところで、これまで我が国においては、一般にこうした近代的な「法的思考」による紛争処理は好まれず、交渉による互譲や調停といった、所謂「代替的紛争処理手段(ADR,
Alternative Dispute Resolution)」がより多く活用されていると言われている(※注1)。実際、我が国では、諸外国と比較して民事訴訟の件数が比較的少なく、法的手続としては時間と費用のかかる訴訟を敬遠して民事調停を好むという傾向がある。これは、一般に日本人の裁判嫌いの神話と呼ばれている(※注2)
 こうした日本人の法意識をよく表わしているのが、1978年8月の
三重県「隣人訴訟」事件である(津地判昭和58年2月25日判例時報1083号125頁)(※注3)。この事件は、近所の子供が自宅に遊びにきたところ、誤って隣接する溜池に転落・溺死してしまい、溺死した子供の親が隣人と国・三重県(公物である溜池の管理者)に対して損害賠償を請求したもので、一審の津地方裁判所は「遊びに来られた側の親(隣人)に注意義務がある」として500万円あまりの損害賠償を認めた。しかし、これに対して新聞等の報道機関が「隣人の好意に辛い裁き」等と書き立てた為、この事件を訴訟で処理しようとした原告に嫌がらせや脅迫まがいの非難が集中し、結果訴訟を取下げざるを得なくなってしまったのである(※注4)
 日本人が斯くの如き法意識を持つに至った背景にはいつかの原因が考えられるが、まず最初に指摘されるのは、西欧と我が国との
「法」の位置付けの違い、である。
 比較法学者ルネ・ダヴィドによれば、欧米においては、出来るだけ完全に法に服することが望まれ(法治国原理、法の支配)、「法」は「正義」のシンボルとされ(※注5)、人々は「法の優越」を確保すべく戦うべきであると観念されている。その為統治原則としては「法の支配」が強調され、法律家に対する信頼も厚いという。これに対して極東においては、「法」は蛮民統治のための弥縫的手段であり、誠実な市民は、法律・裁判所とは無関係であるべきであり、伝来の道義に従うべきであるとされるという(※注6)
 実際、我が国の「法」の歴史的変遷を回顧すれば、我が国における「法」は、社会秩序を維持する道具として、行政法や刑罰法を中心に形成され、公家・武士・裁判官といった支配層を名宛人としており、私人間の権利義務関係を規律する私法はほとんどが慣習法として形成されてきた(※注7)。前近代法の集大成である江戸幕府法においても、刑事事件における判例集『公事方御定書』は裁判官を名宛人としたものに過ぎず(※注8)、法の公布は「高札」により部分的にしか行われず(※注9)、民事紛争を処理する「出入筋」は一般に「裁許」(判決)よりも「内済」(和解)を強く勧め、私的紛争への介入は為政者の恩恵的行為であるという態度をとり、これが権利意識の醸成を妨げる結果となったという(※注10)
 次に、前述した「法」の位置付けに関連して、原因の2つ目と目されるのが、
日本人の紛争観である。
 前項で引用したダヴィドの研究によれば、東洋法においては、当事者間の「紛争」は調和を乱す「故障」であって、「解決」ではなく調停手続で「解消」されるべきものとされ、「調和の回復」こそが重要であると考えられているという。そして、ダヴィドはその原因を、「儒教」に求める。ダヴィドによれば、孔子は、森羅万象が調和的宇宙の有機体的部分をなしており、模範的人間はその階級的身分に応じて「礼」の規範に従ってふるまい、自己の利益を中庸と謙譲の態度で抑制し、積極的に調和を維持すべきだと教えている、という。即ち、紛争という不調和を一層拡大する裁判よりは、謙譲精神で縮小するほうがよいとされるのである(※注11)
 また、法理学者の田中成明は、西欧と我が国の法意識を、社会学の「紛争モデル」
conflict model)と「秩序モデル」order model)を使って分類し、近代西洋法は対立や紛争を当然の社会現象と見てそのオープンな解決を志向する前者に、伝統的日本法は社会秩序や合意を重視し紛争を異常な病理現象と見る後者に該当する、と説明している。そして、私人間の紛争は、インフォーマルな場において、共同体共通の利益を優先させつつ、「義理」「人情」といった基準により処理されてきた、と指摘している(※注12)(※注13)

※注記
1:
市川他前掲書、228ページ。
2:市川他前掲書、228ページ。小島前掲書、10ページ。
3:市川他前掲書、228ページ。小島前掲書、31〜32ページ。
4:こうした事態に対し法務省は、「裁判を受ける権利の侵害」の疑いがあるとして異例の見解表明を行ったという。
5:フランス語で「法」は「客観的権利(droit objectif)」と表現され、「権利」とは「主観的権利(droit subjectif)」と表現される。そしてまた、「権利」とはフランス語で「正義」と同義である。即ち、「法」とは「客観的正義」であり、「権利」とは「主観的正義」である。
6:大木雅夫 『日本人の法観念—西洋法観念との比較』 東京大学出版会、1983年 10〜11ページ
7:田中成明 『転換期の日本法』 岩波書店、2000年 104ページ。
 それ故、明治初年の法典編纂事業においては、従来から同種の法典が多数存在した刑法典が比較的スムーズに近代化されたのに対して、慣習法にほぼ全面的に依存していた民法典・商法典については紛糾し、「法典論争」を経てようやく制定される運びとなった。また、江戸時代の私法上の権利と近代法上の所有権の関係について、「三田用水事件」や「道頓堀裁判」でも争われることとなった。
8:明治維新後、中国の律令を手本として制定された「新律綱領」「改訂律例」は、いずれもこの性格を引きずり、裁判規範性が強かったと言われている。
9:明治維新後発生した「大学南校雇イギリス人リング・ダラス傷害事件」における当時の英公使パークスの指摘をきっかけに、我が国でも「法の公知」がなされるようになった。
10:『転換期の日本法』、106〜107ページ。
 牧 英正、藤原明久編 『日本法制史』 青林書院、1993年 243〜244ページ。
 当時(江戸時代)は、民事訴訟といえども原告の扱いは刑事被告人なみで、法律事務を取り扱う者の社会的地位も、現代と比較して著しく低かったという。また、こうした「調停制度による権利意識の抑制」という傾向は、近代戦前期における我が国の各種調停制度の整備にも見られたという。
11:大木前掲書、13ページ。
12:『転換期の日本法』、102〜103ページ。
13:『調停読本』(昭和29年発刊)中に収録された「調停いろはかるた」には、「論よりは義理と人情の話し合い」「権利義務など四角にもの言わず」「なまなかの法律論はぬきにして」「白黒決めぬところに味がある」といったことが書いてあるという。
(:川島武宜 『日本人の法意識』 岩波新書、1967年 182〜183ページ。)

第2節 川島武宜の「タイムラグ・モデル」
 本節以降では、第1節で概観した東西法意識の区分を前提とし、近代化後の我が国における「法」のあり方を巡って、これまでに主張されてきた代表的な見解をまとめる。
 明治維新以降、我が国の国家目標は総じて「近代化」であり、多くの分野について「御雇い外国人」が招聘され、殖産鉱業政策が推進された。その中で、19世紀から戦前にかけて、東京帝国大学法科大学長、臨時法制審議会総裁等を歴任した法理学者
穂積陳重は、その著作の中で「法律進化論」を説き、世界を印度・支那・回々・英国・羅馬の五大法家族に分類した上で、英国・羅馬は「進行」するが印度・回々は「静止」し、支那法家族は「遅進」するとし、日本法は中国法家族から西欧法家族へと転換すべきであるとした(※注1)
 もっとも、未だ近代化の途上にあった明治〜昭和戦前期を過ぎ、敗戦を経て「個人主義」を明確化した新憲法が制定された後も、日本人の伝統的法意識は根強く残存していた。そうした中で、戦後我が国における近代的法制度と我が国の前近代的社会的現実の乖離を批判的に取り上げ、我が国が法化社会へと進むべきことを主張したのが、法社会学者の
川島武宜であった(※注2)。川島はその代表的著書『日本人の法意識』において、「伝統的に日本人には『権利』の観念が欠けている」とし(※注3)、法はあるような・ないようなものとして意識され、「黒白」をつけることは公然の挑戦として回避され、明確化され確定的なものとなることは好まれなかったとする(※注4)(※注5)。そして、しかしそうした状況は、我が国社会の近代化と日本人そのものの近代化との間のタイムラグによって生じているのであるから、今後の日本人の法意識は「人々は、よりつよく権利を意識し、これを主張するようになるであろう。…歴史の進行がその報告に向かっているということについては、まず疑いの余地がなく、好むと好まざるとにかかわらず、それはもやは時間の問題であるように思われる。」と結んでいる(※注6)

※注記
1:
穂積陳重『法律五大家族之説』(明治17年)、『万法帰一論』(明治18年)。
2:竹下 賢・角田猛之編著 『マルチ・リーガル・カルチャー』 晃洋書房、1998年 238ページ〜。
3:川島前掲書、15ページ。
 実際、我が国に「権利」なる言葉は存在せず、当初は「権理」とも表記され(例えば1875年「樺太千島交換条約」)、「権利」という言葉は明治期に作られた造語であったという。
4:川島前掲書、139ページ。また、和田安弘 『法と紛争の社会学』 社会思想社、1994年 192ページ。
 日本人の「裁判回避・調停選好」の理由について、川島は、我が国の伝統的社会集団の特質から考えて、①社会的地位が恭順と権威によってハイアラーキカルに分化されていること、②同位の地位の人々は多様に「親密」であり、画一的に裁判で関係を決定できないことを挙げている。
5:川島は、我が国における調停制度について、①紛争を権利義務の関係として処理しない、②紛争を丸くおさめる、③調停委員の有力者としての権威が強い、といった特徴を指摘し、これらの性格が権利意識を阻害したと指摘している。
6:川島前掲書、202〜203ページ。

第3節 大木雅夫の「状況規定モデル」
 他方、こうした「日本人の紛争観」(文化的要因)に着目した川島武宜の議論に対して、むしろ司法制度をはじめとする「法」の位置付けにこそ着目すべきことを主張したのが、比較法学者の
大木雅夫・上智大学教授であった(※注1)
 大木はその著書『日本人の法観念』において、従来から指摘されていた東西の法観念の差異について概観した後西洋法における「法の支配」と東洋法における「徳治主義」を詳細に検討し、実は我が国の前近代においても民衆は相当の「権利意識」を持っており、なおかつ西欧においても通説で言われているほどの「権利意識」があったわけではないことを指摘する。例えば、武士の先例・道理をはじめて成文法化した「御成敗式目」は、我が国においても「法の優越」「法の下の平等」が導入された(名宛人こそ「御家人」に限定されていたが、律令のような統治原則・裁判規範の表明ではなかった)という意味で「日本法史上重大な意味を持つもの」であるとする(※注2)。他方、「権利意識が高い」と言われている西洋でも、「不利な示談も訴訟に勝つよりはまし」「訴訟は時と金と安息と友人を食う」「訴訟はまっぴら、和解にしくはなし」「神の前では真実を、裁判官の前では銭を」といった諺が多く、法や訴訟を賛美するようなものは少ないという(※注3)。更に、西洋人の権利意識の高さを象徴しているとされる、ルドルフ・フォン・イェーリングの『権利闘争論』(「権利のための闘争」)(
Der Kampf ums Recht,1872)についても、プロイセンが自分が敬意を抱くフランスと戦争(普仏戦争)を戦うことについての弁明の書であって、当時の西欧の庶民に権利意識がみなぎっていたわけでは無いという(※注4)。そして、東西における訴訟件数や「法」の位置付けの相違は、結局「権利意識を具体的に実現する装置が不完全だったから」「裁判組織が不備」だったからということに求められる、として、安易に結論を「法意識の相違」に求めることを戒めている(※注5)。ここにおいて、日本人の「裁判嫌いの神話」は「神話」として否定されている。

※注記
1:
竹下他前掲書、249〜250ページ。
 なお、和田前掲書、195ページ以下では、法社会学の観点から、法社会学者の棚瀬孝雄教授の学説が紹介されている。
2:大木前掲書、159ページ以下。
 また、江戸時代の「内済」の発達を、幕府の裁判機構の制度的限界に伴う紛争処理手続の自治化を意味するものであり、むしろ庶民の権利意識が強かったからこそ(また、幕府の裁判制度が次第に賄賂等によって権威を失ったからこそ)、公事師の役割が増大し、「内済」手続の発達を見たのだ、とする。
 もっとも、大木がここで指摘した「日本人固有の権利意識」なるものが、果たして田中成明の「法の三類型」(後述)でいうところの「普遍主義型法の(=近代西洋法の)権利意識」と同じものであるかどうかについては、なお検討の余地があろう。
(:大木前掲書、203ページ以下。)
3:大木前掲書、228〜233ページ。
4:大木前掲書、109ページ。
5:大木前掲書、235〜236ページ。

第4節 田中成明の「法の三類型モデル」
 第1節及び第2節で見てきた議論に対して、より緻密な分析を加えようとするのが、
第2編 で言及した法理学者の田中成明・京都大学教授である。
 田中はまず、社会の法に対する傾向を「法化
legalization)」、近代法の欠陥や弊害を是正しようとする「非法化delegalization)」、およそ法的なものを原理的に否定する「反法化anti-legalization)」の3つに分類する(※注1)。そして、そこで語られる「法」を、一般的法準則を定立しそれに準拠する形で、裁判過程で「要件—効果モデル(法的三段論法)」を使って自立的に適用される「普遍主義型法(自立型法)」(従来から言われてきた、典型的な近代西洋法)、特定の政策目標実現の手段として、行政過程で「目的—手段モデル」によって適用される「管理型法」(法道具主義)、私人間の非公式的な妥協的調整を行うインフォーマルな「自治型法」の三類型に分類する法の三類型モデル(※注2)
 次に、以上のような分類を前提として田中は、明治近代化以前の我が国の法が、律令的な管理型法と自治型法の両極に分解しており、近代化以降も、行政官僚主導の管理型法と「義理」「人情」を理由とした「反法化」的な自治型法が強く残存した、とする(※注3)。また、こうした傾向は、1960年代以降の高度成長期にあって社会の法化が進んだ時期にも見られ、我が国における自生的な普遍主義型「法化」は遅れた、と指摘している(※注4)。そして田中は、こうした状況を踏まえて、今後の我が国においては、その逆機能や弊害を自治型法や管理型法で補完しつつも、基本的には普遍主義型法による法化を強力に推進し、普遍主義型法の実践哲学的賢慮を基軸とした「多元的調整フォーラム」としての法システムを構築すべきである、と主張する(※注5)

※注記
1:
田中『法理学講義』、84ページ〜。田中『転換期の日本法』、21ページ。
 田中成明 『法的思考とはどのようなものか』 有斐閣、1989年 16ページ〜。
 田中成明 『法の考え方と用い方』 大蔵省印刷局、1990年 65ページ〜。
2:『法理学講義』、86ページ〜。『転換期の日本法』、12ページ。
3:『法理学講義』、99〜100ページ。
4:『法理学講義』、100ページ。『転換期の日本法』、22ページ。
5:『転換期の日本法』、24ページ・119〜123ページ。
 これについて田中は、①(大木雅夫が指摘したような)司法制度の人的制度的基盤の整備と②(川島武宜が指摘したような)一般人の公権力に対する受動的・受益者的な態度の転換、③合理的な交渉(対話的合理性)による合意形成の3つが必要であると述べている。


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