このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
第2編 「法」への視点
■第1章 基礎法学の意義
●第1節 社会あるところ法あり
人間は、いかなる時代においても、またどんな地域においても、他者との関わり(相互交渉)無しには生きられない社会的存在である。無論、人間は、その個人的な意思に基づいて活動しているのであるが、その行為は彼が属する社会の歴史に影響を受けている(※注1)。ドイツ団体法学者のオットー・ギールケ(Otto von Gierke、1841年〜1921年)は、「人の人たる所以は、人と人との結合にある」と説いた。
ところで、そうした社会生活というものは、規範(ルール)無しには成立し得ない。「社会が存在する」ということと「規範が存在する」ということは、同じ事項を表裏から別の表現を使って表わしたものとすら言える(※注2)。現実的に考えても、我々の日常生活は目に見えない「法」によって規定されている。例えば、貴方がこのホームページを閲覧するにあたっては、「商法」(明治32年法律第48号)第ニ編の定めるところにより設立されたパソコン製造会社が、必要な部品及びソフトを「外国為替及び外国貿易法」(昭和24年法律第228号)に従って輸入し、従業員を「労働基準法」(昭和22年法律第49号)その他の法規に適合する形で労働させて作ったパソコンが必要である。出来あがったパソコンは店頭に並べられ、「民法第一編第二編第三編」(明治29年法律第89号)及び「商法」の定める商事売買の規定に基づいて売買契約が交わされ、所有権が移転する。パソコン本体を小売店に後日配達してもらうとすれば、「道路運送法」(昭和26年法律第183号)第46条の定める「貨物自動車運送事業」を行なう者が「道路運送車両法」(昭和26年法律第185号)に基づき登録した貨物自動車でこれを輸送することになるし、自動車か徒歩で小売店に出向いてパソコンを持ち帰るのであれば、「道路交通法」(昭和35年法律第105号)が適用される。あるいは、鉄道を利用した場合は「鉄道事業法」(昭和61年法律第92号)によって免許を取得した鉄道事業者が「鉄道営業法」(明治33年法律第65号)に基づいて運行する列車に乗ることになる。パソコン業者は、「製造物責任法」(平成6年法律第85号)に基づいて、製造したパソコンの欠陥について責任を負う。そして、これらの法律は、「 日本国憲法 」及び「国会法」(昭和22年法律第79号)の定める手続によって制定されたものである。「社会あるところ法あり」("Ubi societas ibi ius")という古い法格言は、正にこのことを指している。人は、規範(ルール)なしには生きられないのである(※注3)。
そこで、社会生活に不可欠であるこれらの「法」を研究する「法学」(jurisprudence、legal science)は、「神学」「医学」と並んで古くから重要な3つの学問("The Three Professions")とされてきた(※注4)。古代ローマの皇帝ユスティニアヌスが編纂した『ローマ法大全』の「学説彙纂」(533年施行)第1巻第1章第10法文で、法学者ウルピアヌスは、「正義は、各人に各人の権利を分配する恒常不断の意思である。法の掟は、誠実に生きること、他人を害しないこと、各人に各人のものを分配すること、これらである。法学は、神事および人事の知識であり、正と不正の識別である」と述べている(※注5)。そして、古代ローマ人らが作り上げたこの「ローマ法」という一つの法体系は、その後欧州各国の国内法や国際法、更には欧州法を継受した我が国の現代法にまで影響を与えている(※注6)。※注記
1:本間康平・田野崎昭夫・光吉利之・塩原 勉編 『社会学概論』新版 有斐閣大学双書、1988年 39ページ〜。
2:和田安弘 『法と紛争の社会学』 社会思想社、1994年 33ページ〜。
3:真田芳憲 『法学入門』 中央大学出版部、1996年 1ページ〜、29ページ。
4:碧海純一 『新版法哲学概論』全訂第ニ版補正版 弘文堂、2000年 133ページ〜。
5:真田前掲書、10ページ。
6:例えば、民法第566条(瑕疵担保責任)の条項は、古くはローマ時代の「按察官訴権」という制度に由来するとされている。●第2節 教義学化する法学
ところが、こうして人類の歴史と共に発達してきた「法学」は、人々から常に批判されて来た。例えば、我が国においては古くから「和を以って貴と為す」ということが支持され、法万能主義者が「法術ノ徒」と蔑視されてきたことはよく知られており、法や裁判に懐疑的な姿勢は「日本人の裁判嫌いの神話」等と呼ばれている(※注1)。また、近代法発祥の地・欧州においても、「法学」は「権力の侍女」「パンのための学問」等として蔑視される傾向があるし、「法律家は悪しきキリスト教徒である」「良き法律家は悪しき隣人である」「訴訟はまっぴら、和解にしくはなし」「訴訟は、時間と金、休息と友人を食い尽す」等という法諺もある。古代ローマの政治家であったキケロ(Cicero、前106年〜前43年)は、「法学者というものは、一つの概念で足りるものを、無限に細分しようとすることが多い。かれらの知識が膨大で、かつ近づきがたいものと思わせたいために、わざと人を迷路に誘いこもうとするからだとも考えられるし、あるいはまたーこのほうがむしろ真実に近いのだがー教え方というものをまるで知っていないからだとも思われる」と述べている(※注2)。
これらの批判は、つまるところ「法学」の特殊性に由来する。即ち、科学としての「法学」は、他の学問とは異なりこれまで「コペルニクス的転換」をほとんど経験することなく、有史以来ギリシャ・ローマ世界を基礎として発展し続けて来た。しかも、一般の科学は、特殊的なものの認識から次第に一般的なものへと発展するのが常であるところ(例えば、個々の言語研究から言語学へ)、「法学」は、むしろ一般的・普遍的なものから個別的・具体的なものへと発展している。例えば、17世紀までの欧州各国の大学においては、「法学」教育としてローマ法、教会法(カノン法)又は自然法のいずれかが教授され、言語もラテン語が共通語として使用された。しかしながら、近代主権国家の成立と発達と共に各国で「法典編纂」が行なわれた(例えば、1794年「プロイセン一般ラント法」、1804年「ナポレオン法典」)18世紀以降、こうした「法」の分野における共通の土壌は次第に崩壊し、「法」及び「法学」は次第に各国の国境線を越えられなくなる。即ち、各国毎にそれぞれ全く異なる実定法が制定され、それが自国語によって研究され、自然法思想に代って実定法を重視する歴史法学(historical jurisprudence)や法実証主義(legal positivism)が台頭したのである(※注3)。
これは、法学(法解釈学)が単なる経験科学(empirical science)(※注4)であるばかりでなく、自己の演繹操作の出発点を全く外的な権威(立法者)の与える命題に求めることを強制される教義学的側面を有しているからである(※注5)。かつて、欧州諸国ではじめて法典が編纂され実定法の整備が行なわれると、裁判官の恣意的な法適用を制限するために、法源としての成文法優位主義、法秩序の論理的完足性(法はあらゆる事項を網羅的に規律している、という考え方)が主張され、法解釈学が純粋認識的なものであることが言われた。そして、古典的な三権分立的発想により、裁判官は「概念による計算」を行なうべきであり、司法官による法創造は「司法立法」として否定された。斯様にして、「正と不正の識別」であったはずの「法学」は神学化・教義学化(dogmatisch)し、実定法を前提とする解釈・適用の側面が強調されるようになった。現在でも、専ら「法」を職業的・実務的に取り扱う法曹の資格(「在朝法曹」たる裁判官・検察官と、「在野法曹」たる弁護士に二分される)は司法試験に合格した者にのみ与えられるが(※注6)、そこで問われるのは実定法( 憲法 、民法、 刑法 、民事・刑事訴訟法等)の条文・解釈に関する膨大な知識であって、法思想や法政策ではない。そして、裁判所における専門用語でのやり取りは、一般国民をして近寄り難い雰囲気を醸し出している。※注記
1:市川正人・酒巻 匡・山本和彦 『現代の裁判』 有斐閣アルマ、1998年 228ページ。
小島武司編 『裁判キーワード』新版補訂版 有斐閣、2000年 10ページ。
日本人の法意識については、後に述べる。
2:真田前掲書、3〜8ページ。また、従来の我が国における「裁判嫌いの神話」を批判したものとして、
大木雅夫 『日本人の法観念』 東京大学出版会、1983年
3:大木雅夫 『比較法講義』 東京大学出版会、1992年 3〜19ページ。
4:実在世界のあり方について経験内容を持つ命題を「仮説」として提示し、それを経験的データに照らしてテストし、可能な限り法則的な仮説を立てて、それによって事象を説明し預言することを任務とする学問。
(:碧海前掲書、140ページ。)
5:碧海前掲書、141ページ〜。
6:司法試験には第一次試験として一般教養科目が存在するが、大学生であれば一定以上の単位を取得することで一次試験を免除されるため、教養試験は有名無実化している。もっとも、最近の司法制度改革の進展によって、数年後にはいくつかの大学に「法科大学院」(ロースクール)が設置され、従来の形式の司法試験は漸次廃止されることになっている。●第3節 自由法運動と理論・応用法学
しかし、以上のように神学化した19世紀法学(ドイツ普通法学、フランス法学)の考えに対して、まずはイエーリング(Rudolf von Jhering、1818年〜1892年)がこれを抽象的な論理操作の遊戯に堕していると激しく批判、「概念法学」(Begriffsjurispridenz)(※注1)と名付けた。その後、エールリッヒ(Eugen Ehrlich、1862年〜1922年。主著『自由な法発見と自由な法学』)、カントロヴィッチ(Hermann Kantorowicz、1877年〜1940年)、サレイユ(Raymond Saleiles、1855年〜1912年)といった学者達がこれに続き、「法は完全無欠ではなく、法に規定が無い分野(法の欠缺)が存在すること」、「裁判は法創造的機能を有していること」、「法源は制定法だけでなく、『生きた法』の科学的研究が必要であること」を主張する「自由法運動」となった。また、「純粋法学」とイデオロギー批判で知られるケルゼン(Hans Kelsen、1881年〜1973年)が、同様の主張を独自の法段階説の観点から行なった(※注2)他、グランヴィル・ウイリアムズ(Granville Williams)が、法文に使用されている言語は不明確性を免れず、解釈の課程でその意味を明かにするという立法的要素を含む、と主張した(※注3)。「利益法学」を唱えた商法学者ヘック(Phillipp Heck、1858年〜1943年)も同様に「自由法運動」を推進した。
「自由法運動」が明かにしたのは、次のようなことである。即ち、通例、法適用の過程においては、適用すべき法規範を「大前提」とし、確定された具体的な事実関係を「小前提」として、規範に事実を当てはめて結論を得る「法的三段論法」が行われる(詳細は 第4編 で解説)(※注4)。しかし、法的三段論法においては、適用者(裁判官)は単に機械的に法を選択し推論を加えているのではなく、個々の事実関係に即して適用すべき法規範を選別し、かつその意味内容を明らかにする「法解釈」を行っている。これは、制定法の規定があくまで一般的抽象的な事例を列挙したに留まるからであり、制定時からの社会的経済的条件や価値観の変化に対応して弾力的な法適用を可能とするためには、法創造乃至法の解釈(interpretation of law)は避ける事の出来ないものである(※注5)。特に、「法の欠缺(けんけつ)(lack of law)」(※注6)を理由に訴訟受理を拒絶できない民事訴訟(※注7)においては、裁判官は、事実たる慣習や慣習法の他、「条理(理法、naturalis ratio)」(※注8)や「一般条項」(※注9)と呼ばれる非常に抽象的な規定から法的判断を下すことを求められる。そして、こうした法解釈や法適用の結果、必然的に実定法の欠缺を補充したり推論によって新たな規範を導出したりする場合が発生する。例えば、「法の欠缺」を補充する法解釈技術としては「類推解釈(analogy)」「反対解釈(argumentum e contrario)」「勿論解釈」が挙げられるが(※注10)、「類推解釈」とは「ある事案を直接に規定した法規がない場合に、それと類似の性質・関係をもった事案について規定した法規を間接的に適用すること」(※注11)であり、明文の規定を欠く事項について他の条文を転用し規範として理解することであって、つまりは新たな規範(法律)を定立している(定めている)のである(※注12)。このように、今日では、法適用の過程には新たな法規範の定立・発展機能があることが理解されており(※注13)、従って、法律家といえども新たな規範の創造・定立(立法作用)から全く無縁であるとは言えないのである。
こうした法適用のあり方はしかし、学者が古典的な法解釈学と「自由法運動」のどちらの立場に立とうとも、実際には不可避的に行なわれてきたことだった。古典的法解釈学が「教義学化」したのは、そうした実際の法適用のあり方を正当化し得ないばかりに、判決の実質的理由とは別に解釈論理上の表見的な理由を創出せざるを得ず(簡単に言えば、「建前」と「本音」が乖離してしまった、ということ)、そうした乖離が蓄積されて「論理の遊戯」にまで発展したからなのである(※注14)。
こうして「法学」は、今日「社会事実の認識」と「社会統制目的の考慮」という2つの目的を持つものとされ、前者を主とするものを「法社会学」(より大きな区分で言えば理論法学)、後者を主とするものを「法解釈学」(応用法学)と区分されるに至ったのである(※注15)。従って、斯様にして優越的地位を占めるに至った法解釈(学)は、以上見てきたように少なくとも法学の一部分であっても全体ではあり得ない。いわんや、近年受講生を増やしている司法試験予備校において行なわれていることは、「受験指導」であって「法学教育」ではない。何故なら、法律家の存在意義は本来、単に現行法令の知識に通暁しそれに即した判断をすることにあるのではなく、社会における様々な紛争を当事者に対する理性的な説得によって処理するための合理的な準則を提示することにこそあるからである(※注16)。その意味では、法学上の命題は(純粋な文理解釈を除けば)(※注17)意味分析が可能な経験命題ではなく、妥当な社会統合・社会統制のためのプラグマティックな定義であり、その目的は高度に実践的なのであって(※注18)、それが現行法令を前提とするかどうかは法解釈学の特殊性に過ぎないと言えよう。※注記
1:碧海前掲書、155ページ〜。
「概念法学」というのはイェーリングの造語であり、当時の主流法学を批判するための言葉であって、「概念法学」派と自ら称した学派があったわけではない。なお、この「概念法学」という言葉は、現在でも時々、法学者間の「悪口」として使われることがある。
2:碧海前掲書、161ページ〜163ページ。
ケルゼンは、立法者は法律を上位規範である憲法の枠内で制定し、行政官は上位規範である法律の枠内=裁量権の範囲内で行政行為を行ない、そして裁判官はそれらの法規の枠内で一定の裁量権を行使して判決を下すことに着目し、彼らの行為は、その裁量権の幅に違いがあるにせよ、基本的には全て類似の行為である、とした。
3:碧海前掲書、163ページ〜164ページ。
4:田中成明 『法理学講義』 有斐閣、1994年 305ページ。
例えば、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。(刑法第199条)」(大前提)、「被告人Aは被害者Bを殺害した。」(小前提)、「よって被告人Aを懲役刑に処する。」(結論)となる。
なお、我が国の刑事訴訟法第335条、民事訴訟法第191条は、こうした法的三段論法の過程を判決文に記述すべき旨定めている。
5:田中『法理学講義』、308〜309ページ。
6:欠缺の生ずる理由としては、①自明のこととして規定されていない場合、②立法当時予測できなかった新たな事態の発生(狭義の「法の欠缺」)、③立法技術の不備等がある。
(:我妻 栄他 『新法律学辞典』新版 有斐閣、1967年 1108ページ。また、
四宮和夫 『民法総則』第4版補正版 弘文堂、1996年 8ページ。)
7:「裁判を受ける権利」は、 日本国憲法第32条 でも、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」として保障されている。
8:「事物の本質的法則」を指す。例えば、 明治8年6月8日太政官布告第103号『裁判事務心得』 第3条は、「民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」として、条理を法源として認めている。もっとも、『裁判事務心得』に関しては、近代民法編纂の途上にあった当時の実定法不足に備えるものであった。
(:山田 晟 『法学』新版 東京大学出版会、1964年 52ページ。また、四宮前掲書、7ページ。)
9:「公共の福祉の原則」「公序良俗」「信義誠実の原則」「権利濫用の法理」等。なお、これらが「条理」に包摂される場合もある。
10:狭義の法解釈技術としては、「文理解釈」、「論理解釈」(条文の法令内の位置や体系性・関係性を考慮して行われる解釈。体系的解釈。)、「歴史的解釈」(立法過程や立法者意思を重視する解釈。沿革解釈。)、「目的論的解釈」がある。
(:田中『法理学講義』、311ページ。)
11:田中『法理学講義』、312ページ。
『新法律学辞典』1241ページでは、「法規の定めた事項を拡充して類似の事柄に推し及ぼすことをいう」と定義している。
12:それ故、刑事法における「罪刑法定主義」(如何なる行為が犯罪として処罰されるのかは、予め国会の議決した法律の明文の規定によらなければならない、という原則)原則では、新たに規範を定立してしまう「類推解釈」は原則として認められていない。
13:六本佳平 『法社会学』 有斐閣、1986年 350ページ。
14:碧海前掲書、160ページ。
15:碧海前掲書、165ページ〜166ページ。
16:真田前掲書、24ページ。
17:「文理解釈」とは、法文を構成する個々の言葉の通常の意味および文法の諸原則にかんがみ、法文が持ち得る意味を説明し、もしそれが不明晰であれば、その不明晰さの範囲をも示すことである。
(:碧海前掲書、145ページ。)
18:碧海前掲書、143〜148ページ。
この点については、後の 第4編 で詳細に述べる。■第2章 法の定義
●第1節 法の三類型モデル
本論に入る前に、この小論が取り扱う「法」の定義について明かにしたい。何故ならば、「法」の定義は「法」を論じる者の問題意識によって多様に設定可能でもあり、これを一定の範囲で同定しないことには議論が紛糾しかねないからである。例えば、アメリカの法哲学者ロスコウ・パウンドは、「法」を「政治的に組織された社会の力の体系的な適用を通してなされる社会統制」と規定し、またマックス・ヴェーバーは、「特にそのために設けられた人間の幹部が、秩序の遵守をおしつけることあるいはその侵害に対して懲罰を加えることをつうじて、物理的もしくは心理的な強制を行う見込みによって、秩序の妥当が外的に保障されているとき、その秩序を法と呼ぶことにする」と定義している(※注1)。
もっとも、「法とは何か」という問いは法理学の中心的問題であり、一朝一夕にして決められるものではない。また、「『法』の定義は論者によって多様」であるということは、即ち「『法』の定義は恣意的である」ということでもある。例えば、「司法試験」における「法」とは日本国における憲法及び法律であり、例外的に条約や政令、内閣府令、省令、条例、旧法令が挙げられるだろう。lこれは、法曹の活動対象であり国民に対し「法的拘束力」を有するものが憲法、条約、法律、政令、内閣府令、省令、条例(※注2)等の実定法だからである。
しかし、これらの法形式で制定された実際の「法」(実定法)の中にも、様々な性格のものが混入していることがわかる。例えば、「 日本国憲法 」、「 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 」(昭和35年条約第6号)、「保険業法」(平成7年法律第105号)、「防衛庁組織令」(昭和29年政令第178号)、「特定金融会社等の開示に関する内閣府令」(平成11年大蔵省令第57号)、「領事官の徴収する手数料の額を定める省令」(昭和27年外務省令第4号)はいずれも法的拘束力を有する「法令」であるが、その定める内容や性格はまちまちである。また、国法上の「法律」であっても、「皇室典範」(昭和22年法律第3号)や「法例」(明治31年法律第10号)、「 決闘罪ニ関スル件 」(明治22年法律第34号)のように、表題に「法」「法律」とつかないものもある。更に、法例第2条は「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反セサル慣習ハ法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ヒ法令ニ規定ナキ事項ニ関スルモノニ限リ法律ト同一ノ効力ヲ有ス」と定めているところからすれば、公序良俗に反しない慣習(法)の一部は国法上の「法律」と同格ということになる(※注3)。
しかし、我々が通常「法」と呼んでイメージするものは、これらの「法律」や「政令」とは異なる。実際、例えば「民法第一編第二編第三編」(明治29年法律第89号)と「 外務省設置法 」(平成11年法律第94号)とでは、同じ法律ながらもその性格は全く異なるように思われるのではないだろうか。この点、京都大学の田中成明博士は、現在運用されている「法」を、①一般的法準則を定立しそれに準拠する形で、裁判過程で「要件—効果モデル(法的三段論法)」を使って自立的に適用される「普遍主義型法(自立型法)」(従来から言われてきた、典型的な近代西洋法)、②特定の政策目標実現の手段として、行政過程で「目的—手段モデル」によって適用される「管理型法」(法道具主義)、③私人間の非公式的な妥協的調整を行うインフォーマルな「自治型法」の三類型に分類することを提案している(法の三類型モデル)(※注4)。
では、「法の三類型モデル」が言う「普遍主義法」とは、一体いかなるものであるのか。※注記
1:田中『法理学講義』、26ページ〜29ページ。また、
六本佳平 『法社会学』 有斐閣、1986年 41ページ・56ページ。
2:この他に、明治憲法時代(あるいはそれ以前)の形式ではあるが、現在でも効力を有する「太政官布告」(例えば、明治8年6月8日太政官布告第103号「 裁判事務心得 」、明治17年太政官布告第32号「爆発物取締罰則」)、「勅令」(例えば、昭和20年勅令第730号「政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件」)がある。
3:他にも、例えば商法第1条は、「商事ニ関シ本法ニ規定ナキモノニ付テハ商慣習法ヲ適用シ商慣習法ナキトキハ民法ヲ適用ス」と定めており、民法よりも商慣習法を上位に置いている。
4:田中『法理学講義』、86ページ〜。田中『転換期の日本法』、12ページ。
『法理学講義』89ページ、『転換期の日本法』14ページには、以下のような分類表がある。
基本的特質 思考・決定方法 法的過程 法的関係 新領域への対応 管理型法 特定の政策目的
の実現手段目的=手段
モデル行政
過程垂直関係 法道具主義 普遍主義型法
(自立型法)一般性、自立性、
形式性要件=効果
モデル裁判
過程三者関係 リーガリズム 自治型法 非公式性
自生的性質妥協的調整
モデル私的交渉
過程水平関係 インフォーマリズム 田中博士によれば、明治以前の我が国の法は、律令的な管理型法と自治型法の両極に分解しており、近代化以降も、行政官僚主導の管理型法と「義理」「人情」を理由とした「反法化」的な自治型法が強く残存した、という。
●第2節 法という社会規範
「法」の定義を、「法」という言葉で共通に指示される本質的属性として捉える場合、その「最近類と種差」(genus proximum et differentia specifica、一番それに近いものと、それとの差異)を考えるのが最も適切であると言われている。そこで、「法」の「最近類」を考えると、その性質上、それは「社会統合の手段」ということになる(※注1)。即ち、今日、「法」が社会規範の一つであり、社会の成員たる個人の行動を社会的に望ましい方向に向けるための過程であることについては争いが無い。
しかし、一口に「社会統合の手段」と言っても、世の中には他にも「宗教」や「倫理」、「慣習」、「有形力」といった様々な社会統合手段が存在し、一部は「法」とその領域が重なり合っている(※注2)。そこで、これらの「類似品」と「法」との区別を考えなければならない。
前述したように、広く「社会統合手段」というときには、それが社会の成員たる個人への「働きかけ」であることから、その手段に従って物理的な力と心理的な力に大別される。そこで、この分類に従って、まずは物理的な力である「有形力」(裸の実力)と心理的な力である「規範」が区別される(※注3)。もっとも、他の動物とは異なり、「言語」によって極めて高度に抽象的な思考や記述が可能となった人類は、通常は社会統合の多くの部分を「規範」によって達成しており、「有形力」のみによる恐怖政治は段々少なくなってきている。そして、「法」が何らかの形で有形力の行使と関わるのは当然だとしても、それが「有形力」そのものではないことは確かである。そこで、「法」は一つの「社会規範」であると言い得る。
次に、「法」とそれ以外の社会規範との相違であるが、議論のためにここでは「倫理」との相違を検討する。「法」と「倫理」の相違についてもこれまで様々な議論が為されてきており、「外面的な義務法則に合致すれば合法性は認められるが、動機が純粋でなければ道徳性は認められない」(カント Immanuel Kant)、「法は倫理(社会道徳)の最小限である」(イエリネク Georg Jellinek、1851年〜1911年)といった議論が見られが、全体としてはトマジウスの「法は外面を、道徳は内面を規律する」という主張が最も適合的であると思われる。それによると、「法」は人間の対他関係における外面的行為を規律し外的平和を確立するのに対して、「倫理(道徳)」は人間の内面的良心を規律して内面的平和を確立する、という(※注4)。これは、権力的に強制さえる法から内心の自由・良心を守るために主張された古典的自由主義的な説である。また、一方、カントは、「法」と「道徳」の区別基準を義務づけの違いという観点から論じ、「合法性」と「道徳性」の理論を展開した。それによると、「合法性」は行為が外面的に義務法則に合致しておれば担保されるが、「道徳」はそれでは足りず、むしろ動機そのものの純粋性、義務法則との合致がなければ道徳的とは言えないという(※注5)。もっとも、ここで言う「倫理」とは「個人倫理」であって前者には「社会倫理」も含まれるから、今度は「法」と「社会倫理」との区別が必要になるが、これはもはや「法」という言葉にどこまでの意味合いを期待するのか、になってくる。
逆に、「法」と「倫理」の重要な共通点として、それが単に実力で服従を求めるのではなく、それに服することが正義であることを標榜・要求しているという点で、これは「法」や「倫理」が「正義要求」(Gerechtigkeitsanspruch)を有することを意味する。これは、そもそも「法」の目的が「正義の実現」と「法的安定性の確保」であるとされていること、英語やフランス語において「法」は「客観的正義」、「権利」は「主観的正義」と訳されることからも明かである(※注6)。※注記
1:田中『法理学講義』、29ページ。また、碧海前掲書、64ページ。六本『法社会学』、42ページ。2:碧海前掲書、64ページ。また、同、93ページ。
3:碧海前掲書、93ページ。
4:田中『法理学講義』、130ページ〜。また、山田 晟 『法学』新版 東京大学出版会、1964年 21ページ〜22ページ。
5:田中『法理学講義』、132ページ〜。
6:井上達夫 『共生の作法ー会話としての正義ー』 創文社現代自由学芸叢書、1986年 101ページ〜。また、山田前掲書、76ページ。●第3節 法と強制
「法」と「社会倫理」との区別において着目されるのが、それが政治社会に関するものであるのか、それが外部からどの程度強制されるものであるのか、ということである。「法は他律であり倫理は自律である」とする説(しかし、ある種の行為規範は自律としての意味もあろう)、「法は強制を伴うが倫理は伴わない」とする説(しかし、例えば国際法のように強制性の不完全な法や、売春防止法等強制を伴わない法も存在するし、逆にある種の法よりは強い強制を伴う倫理もある)、「法は双面的であるが倫理は片面的である」とする説(法律は、作用と反作用の如く常に権利義務関係が対になっている。例えば贈与契約であっても、渡す側には目的物を引き渡す義務が、貰う側には権利がそれぞれ発生する)は、いずれもこの違いに着目したものである(※注1)。
この問題については、英「分析法学」者で「道徳的正当性(正義)と形式的正当性(法)の分別の厳格化」を説いたオースティン(J.Austin、1790年〜1859年)のように、「法」は主権者の命令であり(主権者命令説)絶対的に服従しなければならないのであって、強制されない法は「実定道徳」(positive norm)に過ぎない(実力説)と言うことも出来るし、反対に、承認説が説くように、人々の何らかの形での承認に妥当根拠があるとすれば、「法」と「社会道徳」との境界線は極めて曖昧になる。前者に対しては今日、「国家権力による物理的強制」という要素は必ずしも「法」の不可欠のメルクマールではないという反論が、エールリッヒやマリノフスキー等の法社会学者・法人類学者から提出されている(※注2)。また、国際法学の領域において問われている「国際法は法か?」という問いに対しても、オースティンのような実力説では十分に説明し難いところがある(※注3)。ただ、少なくとも、社会道徳としての「法」が、(1)個人の枠組みを越えた客観的(間主観的)なものであること、(2)それが主体間の復仇原則(自力救済、私的制裁)によるか国家権力(政治社会)によるかを問わず、「強制されるべきである」という「当為としての強制」「強制要求」をより強く含んでいること、(3)一連の道徳よりも高度に制度化・組織化されていること(=共同体の全成員に、同意不同意に関わらず自動的かつ無条件に適用される)、等の特徴を挙げることは出来よう(※注4)。
もっとも、付言すれば、斯様にしておぼろげながら定義された「法」が、「法」の全てではない。上に述べた「法」の社会統制機能はその最も原始的・基本的な機能ではあるが、そこから派生するものとして、社会成員に一定の基準(例えば、財産取引や婚姻に関する制度)を設定し、人々がそれに従うことによって私人相互の活動を予測可能で安全確実にするという活動促進(紛争予防)機能、紛争予防機能にも関わらず実際に生じてしまった紛争を処理して秩序を維持する紛争処理機能(これは、社会統制機能を実現させる機能であるとも言える)、更には、修正資本主義の下で社会保障という特定の政策的目標のための手段となる資源配分機能等が見られ(※注5)、前三者は自治型法や普遍主義法として、また後者は管理型法として実施される。そして、人類が社会的統合を強めて行くに従って、「法」の機能も社会統制から紛争予防・処理、更には資源配分へと増加しており、それ故に、第1節で見たような様々な類型の「法」が今日存在するのである(※注6)。※注記
1:山田前掲書、21ページ〜24ページ。
2:田中『法理学講義』、114ページ〜115ページ。
3:この問いに対して否定説論者は、「国際社会は平等な主権国家によって構成されており、そこにはただ『合意は拘束する原則』があるだけで自己が不同意の立法に拘束されることは無く、かつ中央集権的・組織的な強制権力が存在しないから、国際法は法ではなく実定道徳である」と説く。これに対して肯定説は、「中央集権的な強制が出来なくても、復仇によって分権的な強制はできる」であるとか、「物理的強制が実際には出来なくても、『強制されるべきである』という強制要求は含まれる」等として反論する。
(:松井芳郎他 『国際法』第3版 有斐閣Sシリーズ、1997年 13ページ〜)
4:田中『法理学講義』、108ページ〜。また、碧海前掲書、93ページ〜。エドワード・ハレット・カー 『危機の二十年』 岩波文庫 316ページ。
5:田中『法理学講義』、74ページ〜。
6:例えば、国際法の世界では、「相互的義務から普遍的義務へ」、あるいは「並存の国際法から協調の国際法へ」という形で近代国際法と現代のそれとを比較するが、これは国際社会の組織化に伴って「法」の機能が社会統制から紛争予防・処理、資源配分へと増えていることを国際法上の用語で表現しているわけである。
(:山本草ニ 『国際法』新版 有斐閣、1994年 13ページ)
前のページへ 本論目次に戻る 次のページへ 記事内容別分類へ
製作著作:健論会・中島 健 無断転載禁止
©KENRONKAI/Takeshi Nakajima 2001 All Rights Reserved.
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |