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愛と正義に関する一考察
〜「愛」と「正義」は衝突するのか〜

中島 健

1、はじめに

 本稿は、「約束はどこまで守られるべきか」、ひいては「人は言葉にどこまで重きを置くべきか」という問題意識に根差している。
 例えば、私が私の友人と「今夜、夕食を一緒にとろう」という約束と「 日米安保条約 」とでは、確かにその性質も主体も異なる。しかし、それがいずれも一つの「約束」であり、「約束である」という点においては同列に扱われるべきであろう。友達との約束は簡単に破って良くて、安保条約は破ってはならないということにはならない。
 同じことは、言葉についても言える。「愛」、「恋」あるいは「正義」は比較的簡単に使用される言葉だが、それらは一体どこまで真剣に受け止められるべきか。あるいは、受け止められないのか。受け止められないとすれば、我々にとって言葉とは一体何なのか。
 以下に、「A」と「B」という2人の人間が対談をするという形で、この問題に関し、一つの見解を示したい。

2、「愛」と「正義」

A:本日の対談のテーマは「愛と正義に関する一考察」ですが、このフレーズを見てまず思い出すのが、子供向けの「戦隊モノ」特撮番組に出てくる「愛と正義の戦士」という決まり文句です。ところで、この「愛と正義」という人口に膾炙されたフレーズですが、実は意外に重要な意味が込められています。即ち、「愛」「正義」とは一般に別々の概念であると考えられている、ということです。

B:なるほど。日本語の「と」には「レモンとライム」「ハンバーグとデミグラスソース」「戦争と平和」のように、それぞれ「and」「with」「or」の意味で使われることがありますが、この場合「愛と正義の戦士」というのは「The worrier of loveandjustice」でしょうね。

A:まあ、中には「愛が正義」(love is justice)とか「愛は正義」(love = justice)と言う人もいるでしょうが。ただ、一般的には、「愛と正義」という言い方をするわけで、これはつまり、「愛」と「正義」は独立の根拠を持つ概念であって、互いに干渉し合うこともあるということです。「正義」に反する「愛」「愛」に反する「正義」もあると・・・ですから、「愛」と「正義」とが対立した状況を想定することは当然できるわけで、それを考えてみようというのが今日の趣旨です。

3、「正義」の定義を巡って

B:「愛と正義の戦士」も、例えば自分の恋人や仲間が敵に洗脳されて自分に刃向かって来たときなぞ、「愛」と「正義」が矛盾・対立してさぞかし困るでしょうね(笑)。その前に、まず「愛」と「正義」のそれぞれを簡単に定義したほうがよいのでは?

A:そうですね。ちなみに、手許の『広辞苑』(第5版)によると、「愛」とは「①親兄弟のいつくしみ合う心、②広く、人間や生物への思いやり、③男女間の、相手を慕う情。恋。④かわいがること、大切にすること」、また「正義」とは「①正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。②正しい意義又は注解。③社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。」となっています。

B:この『広辞苑』の定義には、Aさんの納得のいかないものもあるでしょう?例えば、「愛とは親兄弟のいつくしみ合う心」とありますが、「いつくしむ」とは「愛しむ」とも書くので、漢語を和語で説明しているとはいえ、事実上は循環論法になってしまう。試しに、「いつくしむ」を同じ『広辞苑』で調べてみると、「慈しむ」とあって「愛する。かわいがる。大切にする」とある(笑)。

A:「正義」の①と②も循環論法に近いですね。「正義とは正しいすじみちである」と言われても・・・(笑)。案外、国語辞典なんてそんなものなのかもしれません。③の「社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること」はやや具体的ですが、『広辞苑』ではそれに続いてアリストテレスや社会主義の説明がされています。「社会全体の幸福を保障する秩序」という表現自体功利主義的で、正義というより一つの価値判断に他なりません。ただ、そうは言っても、この「正義」が個人の主観ではなく個人を超えた「社会」に関する問題であることは、一応適確に表現していると思います。また、「正義」が「正しいこと」ではなく「正しいすじみち」と表記されるからには、それが具体的な事例によって変化するものというよりも、ある一定の「制度」のようなものであることを意味するのでしょう。『広辞苑』自身、「すじみち」(筋道)を「①物事の道理。条理。すじ。②物事を行う順序、手続き。」と説明していますから。

B:「正義」=「正しいすじみち」=「正しい手続」と理解すると、正に「手続的正義」、法律用語で言う「Due process of law」になりますね。

A:そう。そして、この「手続的正義」という一つの形式的正義概念が意味しているのは、「自己の権利は主張しながら、他者の権利を尊重しない者」を「エゴイスト(二重基準の者)である」として悪と扱う、ということです。つまり、二つの事例を個体的同一性における相違のみに基づいて差別的に取扱ってはならないのであって、二つの事例の差別的取扱いが許されるのは、両者の間に普遍的特徴における重要な相違が存在する場合に限る、それが形式的正義なんです。

B:「二つの事例を個体的同一性における相違のみに基づいて差別的に取扱ってはならない」とはどういうことですか?

A:これについては、既に本誌 2000年9月号 の本文記事「 死刑廃止に反対する 」の中で説明しているので、詳しくはそちらを参照して欲しいのですが、簡単に言えば、こういうことです。即ち、例えば、ある連続殺人事件を犯した犯人がいて、彼は科学的な証拠から真犯人であることが確実であり、裁判で死刑か無期懲役になるかの瀬戸際にいるとします。その時、果たして犯人は、自分を「死刑にしないでくれ」と主張できるか。死刑廃止論者は、死刑は残虐・非道な刑罰であり、特に個人を最大限尊重する「日本国憲法」の下では、死刑は違憲であると主張します。しかし、そうした考え方で、果たしてこの殺人犯を助命していいのか。形式的正義論の立場では、否です。何故ならば、彼は既に「罪の無い他人を殺す」という行為に出たことによって「自分は人の生命を尊重しない」という態度を表明している以上彼自身も又、他者に対して自身の生命を尊重するよう要求することは出来ないはずだからです。

B:「自己の生命権を主張するなら、他人のそれも尊重しろ」ということですね。

A:そう。ここでこの殺人犯が、「俺の生命権を尊重しろ」等と主張することは、「生命の抹殺」という同一事例において、「自分と他人」という個体的同一性における相違のみに基づいて、自分を不当に優遇している。だから、彼は「不正」として糾弾されるわけです。こうした「普遍主義的要請」「形式的正義理念」は、「等しきものは等しく扱え」「各人に各人の権利を分配せよ」といったかたちでローマ時代から言い伝えられてきていますし、現代の我が国においても「クリーンハンズの原則」や「禁反言(エストッペル)の原則」といった形で根付いています。

B:そうすると、形式的正義論の考え方からすると凡そ全ての殺人犯は死刑になってしまうんですか?

A:基本的には、そうです。ただ、具体的事例によっては、「他人の生命を尊重する態度」が少し垣間見える場合があるかもしれない。例えば、親に性的虐待を受けた子供が親を殺した、といった事例では、犯人にはなお「他人の生命を尊重する」態度があるわけですから、彼(彼女)は助命されるべきでしょう。逆に、「他人の生命を尊重する態度」が全く無い犯人を助命するのは不正義なのであって、「そうした人間ですらも、彼が一人の人であるが愛せる」という言明はもはや信仰の告白に他なりません。 

B:しかし、何故これを「形式的」正義と呼ぶのですか?また、形式的正義を「正義」そのものの定義として使ってしまうのは、不都合ではありませんか?

A:世の中には何通りもの「実質的正義」があります。「自由主義」、「民主主義」、「社会主義」というのは代表的な政治的価値観ですが、この他にも実に様々な正義があります。「男女差別主義」だって、全ての女性を平等に差別する限り、実質的正義あるいは正義基準の一つです。しかし、そうした実質的正義は、万人を納得させるだけのものがまだ無い。これは、価値観の問題になってしまうんです。だけれども、形式的正義については、これが妥当かどうかについては反対論があってもー例えば極端な博愛主義者は凶悪な殺人犯の生命をも尊重せよ、というでしょうー、これが「正義である」ことには合意が出来る。どの実質的正義であれ、それを支える形式的正義に反する形で適用されたならば、それはもはや正義ではなくなるわけで、故にこの「形式的」正義は、形式的ではあるけれども最も普遍的な正義概念なのです。ところで、今日の対談はこの「正義」そのものを巡る議論ではないので、例えば「自由」といった「実質的正義」を正義として定義してしまうと、定義自体で争いが起きてしまいます。そこで、今日はこの形式的正義概念を「正義」の定義としたいと思います。

B:でもそうなると、「私は他人からレイプされるのが好き」という人が居れば、「他人をレイプしてもいいという正義」が成立してしまうのではないですか?これって、明かに悪いことでしょう?つまり、「正義=悪」という図式が成り立ってしまうのではないか、ということです。

A:もしその人が、単に「他人からレイプされるのが好き」なだけでなく、「人は他人からレイプされるべきである」というふうに「べき論」として「レイプ」を捉えているのであれば、それが他人から支持されるかどうかはともかく、一応それも形式的正義に合致します。だから、もしその人が「人は他人からレイプされるべきである」という論理を振りかざして他人を虐待したら、その人もまた自由に他者から虐待されても文句は言えないのです。それと、「正義=悪」という図式が成り立つという指摘はその通りで、「正義」と「善」は必ずしも一致しない場合があります。例えば、「自分は、自分の子供が溺れたら助けるが、他人には、その人の子供が溺れても救助すべしとは要求しない」という正のエゴイストの場合、形式的正義論からは「不正」と判定されますが、その人の「善悪」を問われれば「善」と答える人が多いでしょう。おそらく、形式的正義の一亜種である「法」と、「善悪」の問題である「倫理」とがズレる場合があるのもそのためでしょう。

B:それでは、倫理に反するかもしれない正義というものは、一体社会にとってどんな機能があるのですか?

A:「形式的正義」は個々人の自由な活動を最低限保障する論理で、Bさんのおっしゃるようにこれは社会規範の十分条件ではありませんが、少なくとも必要条件ではあるのだと思います。先ほど述べたように、世の中には何通りもの「実質的正義」がありますが、「形式的正義」については、「実質的正義」を論じる全ての者が合意が出来るものです。我々がどの「実質的正義」を採用するのかということは、どの実質的正義も過てるものである可能性がある以上、結局他者との対話の中でたゆまざる価値観の研磨を行う中で探すしかありません。そして、その対話をするにあたって、各種実質的正義論の基盤として、「形式的正義」が対話者間で共有されている必要があるわけです。それに、現実問題として、概ね権力者は形式的正義すら恣意的に運用しようとすることが多いわけですから、その点に絞って世の中をチェックしていっても、相当色々な問題点を浮かび上がらせることが出来ます。例えば、「警察が身内の犯罪を捜査しない」というのが不正だということは、「国家公務員法や警察法に違反する」と言うまでもなく、単に「刑法を恣意的に適用している」=「形式的正義に反している」と言いさえすればよいわけです。

B:なるほど。では、「正義」の定義はこれくらいにして、「愛」のほうはどうですか?

4、「愛」の定義を巡って

A:「愛」ですが、こちらは『広辞苑』の説明は更に不十分です。これを定義するには、まず「愛」に一番近い概念を探して、それと「愛」との差を見つけることが一番手っ取り早いと思うのですが、③のように「愛」=「恋」と言明されては・・・(笑)。

B:「恋愛」の「恋」と「愛」には、違いがあるのですか?

A:私はあると考えています。直感的にも、「男女愛」「兄弟愛」「親子愛」「人類愛」は存在しても、「兄弟恋」「親子恋」はむしろタブーになっていますから。名前に「愛」はあり得ても「恋」は少ないでしょう、芸名以外では。

B:そういえば、「恋」と「愛」の漢字の違いを指して、俗に「恋には下心がある」と言いますね。

A:その諺は恐らく性的欲求のことを指しているのでしょう。ただ、確かに「恋」という漢字には下に心がつくのに、「愛」という漢字ではこれが漢字の中心部に移っている。これは、正に「恋」と「愛」の違いを端的に表現したもので、漢字を発明した中国人の天才的着想だと思います。この問題は既に本誌 2001年6月号 の「 三軒茶屋 」で書きましたが、分かりづらいかもしれませんので、もう一度ここで繰り返します。「恋」においては、相手は自己の外部に存在して(対象化されて)「自己の効用を最大化するもの」であるのに対し、「愛」の場合、相手は自己に内面化された存在として感じられます。なお、ここでいう「効用」とは、「ある主体が人生を生きて得られる満足」のことです。「恋」の相手というのは、所詮、「好きな食べ物」や「好きな音楽」といった物と一緒で、自分にとって「気持ちイイ」ものでしかありません。だから、それが「気持ちイイ」ものでなくなった瞬間に、切り捨てられる。しかし、自分が「愛した」相手は、もはや自分の内心の一部になってしまっているため、自己否定をする以外にこれを捨て去ることが出来ないのです。

B:では、「愛」の場合には、必ずしも主体にとって「気持ちイイ」ものではないこともあるのですか?

A:あります。例えば、親が子供を叱りつけると、通常子供は親のことを嫌います。一緒に生活しつづけるのは、子供にとってそうする他ないからで、仮に子供が独自の生活力を持っていれば、別居するかもしれません。しかし、「愛情」を持つ親としては、例え短期的には「叱る」ことが子供にとって、そして自分にとって「気持ちイイ」ものではなかったとしても、子供が誤った行動をとることは自身の過ちとして理解され、これを看過できない。そこで、短期的な効用を小さくしてでも、「叱る」という行動に出るのです。

B:そうすると、Aさんの定義では、結局「恋」と「愛」の違いは、「短期的な効用の最大化」と「長期的な効用の最大化」の違いに過ぎないのではないですか?ちょうど、「恋」が「お酒」で「愛」が「薬」のような・・・

A:いやいや。「恋」において効用を最大化しているのは「自分」だけで、「相手」の効用には基本的に無関心です。「自分」の効用が最大化されておれば、それによって「相手」の効用が上がろうと下がろうと、どうでもよいと考えている。しかし、「愛」においては「自分」及び「相手」の短期的効用の最大化を抑制しつつ、「相手」の長期的効用を、更には「自分」の長期的効用を最大化しているのです。即ち、「愛」では、一端「相手」の長期的効用に基準を移している、即ち相手の効用を内面化していることになります。

B:なるほど。結局、「恋」とは自己の効用を最大化する利己的な営みであり、「愛」とは相手の効用を最大化する利他的な営みである、ということですね。それにしても、この基準はかなり高いハードルですね。

A:それはそうですよ。その意味で最近、「愛」という言葉があまりにも軽薄に使われていることに私は危惧を覚えます。そして、「愛」は男女間だけでなく親子間にも存在し得るものですが、「恋」は基本的に男女間のみです。というより、「恋」の如き親子関係、即ち親にとって子供が親自身の効用を最大化させるための道具に過ぎないような関係は、不道徳として批判されるでしょう。先ほどの諺にもあったように、実際問題として、「恋」で最大化される効用には性的なものが多いのですが、それを親子間で実践すると、子供の性的虐待ということになります。一方、「愛」とは、相手の効用を内面化することなのであり、内面に「心」を「受容」することなのです。事実、これに気付いた中国人は、「受」の冠と「又」の間に「心」を入れて「愛」という漢字を発明しました。

B:まあ、正確に言うと「愛」の古字は「旡」の下に「心」をつけた字で、「旡」は頭をめぐらせふりかえる人の象形なんですが・・・「恋」のほうは、旧字は「戀」で、これは「惹く、惹かれる」を意味する「攣」(レン)と「心」が組み合わさったものです。

A:「モーニング娘。」の歌に「恋愛レボリューション21」という曲がありますが、この「恋愛レボリューション21」は、題名は日本語で「れんあいれぼりゅーしょんにじゅういち」と読むのに歌の中では「love revolution twenty-one」と歌ってます。しかし、日本語の「恋愛」を「love」と歌うのは、私の感覚としてはやや粗雑に感じます。英語が「恋」と「愛」を区別していなくて、どちらも「loveなのが何故だか不思議です。もしかしたら、英語としては「恋」と「愛」の区別に無頓着なのかもしれません。

B:そうでしょうか?英語でも、例えば「I love you」と「I am in love with you」では、ニュアンスに違いがありますよ。あとは、俗語で「crush」という言葉もありますが、これは「お熱」「あこがれ」程度の意味だそうです。

5、「愛」と「正義」の関係とは

A:そうなんですか?これは私の英語力の不足のためなんですが、私には「I love you」と「I am in love with you」の違いがわかりません。前者は「好きよ(恋)」と「愛しているよ(愛)」のどちらにも思えるし、後者も「あなたに恋してる」と「あなたを愛している」のどちらにも読めてしまいます(苦笑)。ともかく、これで議論の素材は揃いました。そこで今日、私が議論したいのは、この「愛」と「正義」が互いに干渉し合うような場合、我々はどうすべきなのかということです。

B:確かに、上の定義では、これら2つの概念が干渉する可能性は多分にありますよね。「愛」は相手の効用を最大化する利他的な営みなわけですから、その「相手の効用最大化」のために、二つの事例を個体的同一性における相違のみに基づいて差別的に取扱うことはむしろ当然あり得ます。なにしろ、「愛」は相手の個体的同一性に着目した概念ですからね。

A:あるいは、そもそもこの2つの概念は干渉しない、という考え方も可能です。例えばですね、私はこういう事例を考えています。真剣な態度で恋愛をしている、正確に言えば互いに愛し合っている若い男Aと若い女Bのカップルの内、男のほうが、新しい女性Cとの出会いを経て浮気をし、結局ABのカップルは別れてしまう。その時、BはAやCに対してどのような主張が出来るのか

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三角関係の事例

B:なんだか、 民法 の試験問題みたいですね。

A: 民法 も結局は財産関係や家族関係に関する具体的正義を規定しているわけですから、正義そのものが議論されるという意味では、問題形式は似るのでしょう。さて、この事例に対しては、私の知る限り2つの立場があります。一つは、BはAB間の愛情関係の断絶につき何等責任が無いわけですから、「別れ」に伴う損害を一人Bにのみ負担させるのは正義に反する。AはBに犠牲を強いつつ、自己の効用の最大化を図っているわけですから。従って、Bは、極端に言えばAC間の関係を破壊する正当な権利があるし、元のAB関係を回復するようBに求める権利がある、という立場です。実は、これは私の依って立つ立場であって、もう一つの立場はBさんの立場なので、第ニの立場はあなたのほうが詳しいでしょう。

B:そうですね。第ニの立場は、AB間の愛情関係は断絶したとはいえ、これは単なる事実上の関係であって契約でも何でもないから、BはAやCに如何なる要求も出来ない。実際問題として、一端こじれたAB間の関係を修復させるよりも、現在のAC間の関係を尊重したほうがよいし、Bとしても、Cに心が動いたAと関係を持ちつづけることには何の利益も無い。そんなところです。ところで、中島さんは、私のような立場を「正義に反する」と言いますが、果たしてそうなのでしょうか。そもそもAB間の関係には何等の法的拘束力も無いと考えれば、Bには常にAを「捨てる」権利があるし、従ってAは何等Bの負担を強いることなくCとの新たな関係をはじめられる。このように理解したほうが、AにとってもまたBにとってもよいのではないでしょうか?

A:その場合、もやは男女間の「愛情関係」にはルールが無い、ということになり、Bがあらゆる手段を使ってAC間の関係を妨害したとしても、A、Cは何等文句が言えない、ということになりますよね。勿論、それは社会生活上のルールを守った上での話ですが。ただ、それでは、何故これまで「不倫」が正に読んで字の如く「倫理に反する行為」とされ、否定的な行為として考えられてきたのか。「不倫は文化だ」と言って自己を正当化して見せた芸能人がいましたが、その言明に100%賛同する人は少ないですよね。更に言えば、小山説では「Aの浮気はBにとって何等負担を強いるものではない」ということになっていますが、この考え方の妥当性は現実の経験からして疑わざるを得ません。捨てられたほうは、男であれ女であれ、悲しい思いをするものです。そして、「愛情関係にはルールが無い」ということになると、結局「浮気」を規制するインセンティブが消えてしまうわけですから、そうした悲しみを助長するある種の「モラル・ハザード」が起きてしまいます。

B:男女間を律する規律自体が封建的なものであり、時代が下るに従ってそうした規律が緩和されてきたことを考えれば、「不倫」なる概念も現代においてはむしろ批判されるんじゃないですか? 刑法 だって、戦前の姦通罪は 日本国憲法 の下で削除されたし、第一、ここでいう「不倫」の倫理とは実質的正義の一つであって、普遍的妥当性があるとは言えません。それに、捨てられた方の側の「悲しみ」を重視するあまり、関係継続を強要されるAには逆の意味で負担がかかるでしょう。 民法 上の契約と同じように、動的安全と静的安全をともに考慮しなければなりません。

A:しかし、今日でも、裁判所の判例によれば、不倫は「他人の権利を損害した」ことになり、 民法第709条 に基づいて損害賠償責任を負うことになっていますよ。戦後、 刑法 改正の際、それまで女子のみ処罰されていた姦通罪を男女共に適用すべしとの議論もありましたし。家族法制の中のどれが封建的な制度でどれが形式的正義論に立脚したものであるかを、慎重に見分ける必要があります。また、Bさんの説だと、動的安全のみ保護されて、静的安全は全く保護されないということになりませんか?それに、「モラル・ハザード」が生じてしまうという観点からすれば、Bさんの説では不倫に伴う「悲しみ」を一方的に相手方に押し付ける結果となりませんか?

B:それでも、その結果、Bはよりまともな異性D、E、Fと遭遇する機会を得るわけです。少なくとも、功利主義的に考えた場合、AB間のこじれた関係を継続するよりはそのほうがよいでしょう。また、私はこのような考えの下で生きているので、仮に他者が私の彼氏を奪ったとしても、その他者を非難するつもりは無いわけで、これは形式的正義に立脚していると言えます。

A:功利主義は多数派の幸福のために一部の個人を手段として扱うものであって、個性と個性の問題である愛情関係においては全面的に肯定するわけにはいかないでしょう。また、「愛情関係にはルールが無い」というのは即ち「愛情関係には正義が無い」、つまり愛情関係において何らかの準則の成立を否定していることになるわけで、これを自己・他者を問わず等しく要求しても形式的正義に合致することにはならないように思われます。「何らかの守るべき準則それ自体が無い」以上、それを自己や他者に「準則」として要求することとは矛盾しますから。

B:それでは、私の説は「形式的正義」ではなく「エゴイズム」である、ということですか?

A:Bさんの説を「準則が無いという準則」と解するよりも、端的に「準則が無いという主張」、即ち「エゴイズム」と考えたほうがしっくり来ます。もっとも、Bさんの説が「エゴイズム」に立脚しているからといって「B説が悪い」等ということは全くありません。第一、先の形式的正義論でさえ、「正義論は可能か?」といった形でエゴイストの側から常に批判・攻撃の対象になってきているわけで、論争に決着がついているわけではありません。また、先ほどBさんは「恋」とは自己の効用を最大化する利己的な営みであり、「愛」とは相手の効用を最大化する利他的な営みである、と言い換えていましたが、利己的であれ利他的であれ、個体的同一性のみに基づいて差別的取り扱いをするのは等しく「エゴイズム」です。

B:なるほど。ただ、私は「愛情関係においては動的安全を優先すべきである」という準則乃至は実質的正義であると主張しているのであって、準則そのものを否定しているわけではありません。それに、Aさんの説は単なる形式的正義ではなくて、「愛情関係においては静的安全を優先すべきである」という実質的正義なのではないですか?

A:しかし、先ほど述べたように、Bさんの説の支える静的安全保護の根拠である功利主義には問題があります。また、仮に功利主義的考え方が妥当しても、もしAB間の関係維持がAC間の関係新設より、A、B、Cの最大多数の最大幸福を達成するものだったとするなら、動的安全を保護する根拠は失われます。そうすると結局、Bさんの説を支えるには、動的安全を保護すべき実質的正義上の根拠を新たに提示するか、さもなくばこれをそもそも正義などではなくエゴイズムであると認めるかのいずれかの態度をとる必要があるのです。一方、私としては、どちらの論拠であれBさんの説には賛同できないので、Aさんの説が少なくとも「エゴイズム」ではなく何らかの「形式的正義」の一つであることは言えます。

B:では逆にお尋ねしますが、Aさんの説は何故男女の愛情関係に「形式的正義」の存在を認めるのですか?

A:それは、基本的には、我々が他者と何らかの形で積極的に関わる際には一定の準則が必ず生じるからです。例えば、今こうやってBさんと会話できているのも、日本語という一定の準則に従って互いが意思疎通を図っているからですね。

B:しかし、それは単に日本語という準則を「利用」しているのであって、「両者が会話を交わしている」という事実命題から「両者は会話を交わすべきだ」という当為命題は生じ得ないでしょう?前者の集合には事実命題しか含まれていないわけですから。

A:確かに、「ザインからゾレンは生じない」というのは自然主義的誤謬論で言われていることです。しかし、これは正義論を講じる哲学者が指摘するように、自然主義的誤謬論が完全に成立するには、①「事実命題から当為命題は生じない」の他に②「ある命題は、それが自己正当化的命題であるか、又は他の正当化された命題から演繹された時に限り、正当化される」と③「自己正当化的命題は存在しない」の3つが同時に成立しなくてはなりません。そして、②と③の「ある命題は、他の正当化された命題から演繹された時に限り、正当化される」という命題は同じ論理でそれ自身を正当化することが出来ないので、結局この理論が正当かどうかはわからないのだと言われています。従って、「AとBが愛情関係を維持している」という事実から「AとBが愛情関係を維持すべきである」という価値は、導出できないとは言い切れないわけです。まあ、これはちょっと論理学的説明に過ぎると思いますが・・・。

B:なるほど。しかしそうなると、同じ論法を使って、「AとBが愛情関係を破綻させている」という事実から「AとBが愛情関係を破綻させるべきである」という価値をも見出すことが出来るわけでしょう?

A:そういうことも出来ます。ただ、私は、この問題に関してはそれとは別に「愛」の定義という制約があるために、Bさんの説のような形では「形式的正義」には合致するとしても「愛」の定義からは外れてしまうと思うのです。即ち、私は、基本的に一人の人間が他者と愛情関係を構築した以上、両者は相互にそれが継続されることを期待するのであって、その期待を裏切ることは許されないと考えます。何故ならば、先ほどBさんが定義したように、仮に「恋」とは自己の効用を最大化する営みであり、「愛」とは相手の効用を最大化する営みであるとするならば、Aは一旦は「Bの効用を最大化する」旨宣言して愛情関係を構築しはじめたのに、Cの出現という新たな事態に遭遇して前言を翻し、「恋」、即ち「A自身の効用を最大化する」行為としての浮気をしたからです。まあ、法律用語的に言えば、これはある種の形式的正義としての「エストッペル」、「禁反言の原則」ですね。そして、同一条件下において自己の個体的同一性を理由として前言を撤回するのは、「時間的なエゴイズム」であると言えます。

B:でも、「禁反言の原則」が妥当するのは、Aさん自身も言うように「同一条件の下においては」ですよね。仮に、男女の愛情関係を構築する前提として、これに「魅力的な第三者Cが現れた場合は、愛情関係継続の前提である環境に変化があったものと看做す」とする条件を付したとすると、「事情変更の原則」が成立して浮気も正当化されることになりませんか?

A:しかし、そうした条件のついた関係が、果たして愛情関係と言えるのでしょうか?仮に、両者の関係が「恋」と「愛」といった形で不均衡である場合は条件がいくらでも付けられるでしょう。しかし、2人の人間が互いに相手の効用を最大化しようとする「相思相愛」の関係であったならば、自己都合により事情変更原則を適用するという条件は明らかに自己の効用を最大化するもので、「愛」概念とは相容れません。恐らく、現行民法では婚姻をするにあたり条件を付することが出来ないとされているのも、こうした理由が背景にあるのでしょう。以上を総合すると、両者が相互に相手を愛しているという前提がある以上、これを破壊して第三者と新たな愛情関係を成立させることは、形式的正義に反する、即ち、「愛」と「正義」は合致するということです。ちなみに、親子関係の場合、その実態の多くは親から子への一方的愛情ですので、どちらが主張するにせよ「親子の別れ」は当然生じる余地があります。

B:「親」が「子」を捨てることも許される、ということですか?それに、「愛」とは相手の効用を最大化する営みであると定義する場合、浮気をした相手を本当に「愛」しているのであれば、相手の思うとおりにすっきり別れてあげるのが「愛」となり、私の議論が成り立つ気がするのですが。それに、そうしてすっきり別れたほうが、相手の効用を最大化することが自分の効用の最大化にもつながるように思えますし。

A:ある人間が相思相愛でもないのに愛情を一方的に抱いている場合、自分だけ一方的に正義の規制に服することを宣言しない限り、この形式正義論は双方とも適用されません。何故ならば、片方の一方的な愛情によって相手方が拘束されるべきではないし、また先ほどの『広辞苑』の「正義」の定義からもわかるように、「正義」の問題は複数以上の主体が関与したときはじめて生じる社会的な問題であって、「一方的な愛」は個人の領域の問題に留まっているからです。その意味では、親の子に対する「愛」は、自分だけ一方的に正義の規制に服することを宣言した「愛」と言えるでしょう。また、「すっきり別れる」論ですが、一方的な「愛」の場合かは双方エゴイストのカップルの場合はそれでもよいのですが、私が議論していた「愛情関係」、即ち当事者双方が相手方の効用を最大化しようとしているのであれば、AがCに浮気をした時点で「相手の効用最大化」という「前言を撤回」したことになり、それに対応してBもまた「相手の効用最大化」をすべき義務からその限度で開放され、「相手の思うとおり」には別れてあげなくてよくなるわけです。というより、「相手の思うとおりにすっきり別れてあげ」てはならないとすら言えるでしょう。何故ならば、Aの前言撤回(付き合い出したときには「愛しているよ」と宣言していたのに、後で撤回している)は形式的正義論から見て不正であり、不正を擁護するのもまた不正になるからです。無論、それでもなお「正義を越えた感情」でもって相手を許すことはありますし、それは道徳的に言えば「善」かもしれませんが

B:なるほど。もっとも、現実には、親子間だけでなく男女間でも別れと新たなカップルの誕生はよくあることですよね。

A:それは、単に形式的不正が実践されているか、そもそも元々のカップルが私の定義した意味において「相思相愛」ではなかった相互の愛によって育まれるべき愛情関係はそもそも成立していなかったということです。仮に厳密な意味で「相思相愛」であれば、そしてなおかつ正義を実践するのであれば、それが両者の全く対等な意思による合意解除でない限り、第三者Cの登場や自己都合といった理由によって「別れ」が生じることはあり得ないのです。恐らく、Bさんの説が説く「別れ」のあり方というのは私のこの議論と相容れないものではなくて、互いの愛情で判断した結果、「相手の効用を最大化するためには別れる他ない」という結論に至った状態、即ち愛情関係の合意解除の状態のことを指しているのではないでしょうか。

B:私の説が説く主張が合意解除も含まれることは確かにそうです。ただ、Bさんの説は単に合意解除をする場合に限らず、合意なき解除が行われた場合でも、Bには主張すべき正義は無いという「善」を主張する立場なので、ややズレるところもあります。ところで、先ほどのAさんの意見では「別れたカップルは相思相愛ではなかった」ということでしたが、それはつまるところ、「別れないカップルが相思相愛であり、別れるカップルは相思相愛ではなかった」ということになりませんか?

A:いやそうですよ。もっとも、上述したように、私は「別れるかどうか」という現象それ自体を基準に「愛」を定義しているわけではないので、循環論法にはなりません。それと、別れるカップルの類型には「両者がエゴイストのカップル」も含まれますが、私の「愛」の定義からすれば、そもそもエゴイストは極限的に利他的な態度をとる立場である以上「愛情関係」そのものは成立する余地があるものの、それが継続される保証はどこにも無いわけです。更に言えば、実は私の説明している「相手の効用の最大化」というのも、相手の効用(人生的満足)に関する正確な情報が無ければ齟齬を来す場合がありますので、そうした情報の非対称性によって外見的にはアツアツのカップルが破綻する場合もあります。相手にとって、「何が人生を生きて得られる満足か」を常に正しく知り、更にそれを常に正しく「最大化」できるかどうかはわかりませんから。ただ、この場合は、私の定義からすると情報の非対称性が生じた瞬間に、相思相愛ではなくなります。

B:そうなると、実際問題としては完璧な愛情関係や完全な相思相愛関係は存在し難い、ということになりますね(笑)。

A:そうですね(笑)。でもBさんの実際の感覚でも、それはそうでしょう?

B:たしかにそうです(笑)。これは恋愛に限らず友人関係でもそうですが、長くつきあっても、「相手の本当の姿」がわからないことのほうが多いですからね。いずれにせよ、この議論を通じて「愛」や「正義」、「愛情関係」の意味合いや輪郭が少し明晰になったと思います。そして、このことがお互いの今後の恋愛経験に如何なる効果があるのかわかりませんが(笑)、とにかく今日の議論は面白かったです。おつかれさまでした。

A:おつかれさまでした。

6、おわりに

 この対談を読了して、「A」の立場(これは私自身の立場である)に違和感を感じた方もおられるかもしれない。「恋愛は感情に過ぎない」という反論は常に存在するし、「愛や恋の定義が恣意的だ」という批判もあろう。
 ただ、この議論に対してある友人が次のような示唆に富むコメントを残してくれた。「確かに私のこの議論にはやや違和感を覚えるが、もし日本がアメリカのような訴訟社会になったならば、このような形で「愛」が「正義」の問題として語られるのではないか」。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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