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[2] 南山通り (江戸へ60里(240km)、別名:会津西街道、下野街道)

 ・大筋では、国道121号線(若松ー南会津郡・田島ー五十里湖(は当初無かった)
  ー鬼怒川温泉ー栃木県・今市市)であるが、天災の影響で、変遷した。

 ・主として、南会津郡の産物を、若松や関東に輸送したり、 庶民が、関東への
  出稼ぎや、西国への神社詣等に使っていた。会津藩主の参勤交代にも使わ
  れていた。

 ・ 1683年、地震による大崩落で、突然、五十里湖が出現し、南山
   通りは、不通となった。復旧工事はなかなか成功しなかった。
  1695年(元禄八年)代替道としての、宇都宮街道(松川新道:那須越え)が、
   完成し、参勤交代にも使われた。しかし、この松川新道は、
  1699年の暴風の被害を修復できず、1704年に脇街道にされた。

 ・1723年、五十里湖部が再開通したが、参勤交代に使われる事はなかった。

 Route:・[市街地](外堀に2回ぶつかるため、少し複雑だ!)
 ・「札の辻」から西へ少し行き、最初の十字路を左へ折れると、桂林寺通りだ。

  左手には、田楽で有名な”満田屋”(→)(まだ、創業30年位。
   江戸時代には、無かった。江戸時代末期創業の天宝味噌の
   兄弟会社。もう少し詳しくは、 こちら 等)
がある。

  桂林寺通りを、更に少し南へ行き、

  信号のある横T字路を右(県道59号線・北会津方面)に曲がる。
  (この、西に行く道付近は、蒲生時代は、赤井町と呼ばれた。江戸時代は新名子屋町)

  (c.f.行き過ぎて、右に曲がると諏方神社(→)がある。

   諏方神社:永仁元年(1293)、葦名五代宗盛が、新宮氏を討つ
    時、信州諏訪神社に戦勝祈願した。笈川まで進軍した時、
    神官が現れ、これを先頭に立てたら、新宮氏は戦わず降伏した。

    宗盛は、神徳に感じ入り、信州諏訪より御神体を迎え、翌年、社殿造営し
    奉祀した。”諏訪”では恐れ多いとの事で、”諏方”とした。

    会津暦「諏方暦」は、ここの祝部らが、15世紀前半頃より、編している。
    有名な「伊勢暦」も、ここで学んだ三橋が伝えたという。
  
    蒲生氏郷の城下町整備の時も、その格式の故に、諏方宮という名で、
    郭内(外堀の内側)に残された。今は、平凡な大きさの神社だ。)

  次の十字路を、59号線の案内板に従い、左(南)に折れると、融通寺通り
  (ゆづうじ通り)
だ。(融通寺町=現・本町(ほんまち)で、通りは、この中央を通っている。)

 融通寺通りを少し南へ行き、59号線の案内板に従い、
 (三角地手前を、)また、右(西)に曲がる。

 (c.f.20m?位行き過ぎると、城北通り(鶴ヶ城北側の通り)(蒲生
  〜江戸時代は、本一之丁(丁:東西に走る道)
)が左手から合流する。
  この辺の左手は、三角地になっている。(三角地に三角屋というラーメン屋あり)
  この三角地のあたりが、外堀の西縁であった。)

 ・(さて、湯川を渡る所が、少し問題!一応、私は、以下の道と思っている。)
  三角地手前から西へ100mチョイ行ったら、すぐ、左(南)の細い道に折れる。
  少し進み、突き当たると、すぐ右(西)が橋だ、原町橋(旧・東の大橋だ。
  
  川原町橋を渡り、西に行くと、南側に、駄菓子で有名な
  ”本家長門屋(江戸中期創業)(→)がある。
  更に西へ進み、只見線&会津鉄道の踏切を越え、
  突き当たりを左(南)へ曲がり、
  道なりに、材木町を南下する。

  湯川の橋に関する迷い・結論と正解(上記で正解でした)
  は、こちら、別ページに記載。混乱するかも?後で!読んで!

  材木町・門田飯寺を道なり(南南西方向)に南下すると、大川(阿賀川)に
  ぶつかる。ここには船渡し場があり、対岸の上米塚に渡る。
  渡し場は、只見線の鉄橋「遠き落日」の9月2日の写真付近(その50m下流)
  だったが、渡し場跡は、もう無い。

 [市街を出て]
  (大川を渡って)上米塚ー本郷ー福永(氷玉)−氷玉峠ー大内峠ー
  大内宿ー倉谷ー楢原ー(大川=阿賀川を渡って)長野ー田島町ー
  山王峠ー(下野=栃木県)三依ー五十里湖(いかり湖、最初無かった)
  −(鬼怒川温泉)−今市市〜→(日光街道)

  [ 宇都宮街道(松川新道)]
  おおよそ、国道121号線の若松ー下郷 間(沿いの旧道)+那須越え
  ルートである。若松市南部は、121号線よりも東の山沿い(県道64号線より
  更に山沿い)を、走っていた(道は今もある)


   (那須越えルート(黒磯側では、会津中街道と呼んでいる)
    このルートが主街道だったのは、実質4年である。
    ルートは、今ひとつ、はっきりしない。地名の繋がりから妄想した
    私の独善的推測による那須越えルートは、下記である。

    会津鉄道・会津下郷駅付近で、左(東南東)、国道289号線(南倉
    沢方面)に曲がる。大松川(原・木令集落)を経て、南倉沢集落を
    から3個目?のカーブで、南の道に入り、落合(ようそん公園駅)から
    東に来る道と合流する。

    合流して少し行くと、観音沼、野際新田集落がある。
    地図は こちら (野際新田は右中央)。更に進むと、林道になり、
    やがて登山道になり、那須大峠に至る。

    那須大峠を越え、那須連峰の西の谷間を南下、三斗小屋宿
    (三斗小屋温泉より西へ2km谷底へ降りた所)を経て、深山湖(ダム湖・
    この少し上から、また、車道だ)
付近を通り、板室温泉に出る。

    板室温泉から、(途中詳細不明、県道369号ー戸田ー県道30号 ?)
    氏家町(宇都宮市の2つ北の町)に至り、奥州街道と合流する。

 ・現在の国道121号線は、若松から下郷までは松川新道、
  それより南は、本来の南山通りが、合わさっている感じだ。

 Photo 本郷-大内宿ルート
        那須ルート




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