みちのく物語みちのく物語 東北地方を、その昔「道の奥」と称していましたが、それを語源とする「みちのく」は、まさに東北を代表する愛称です。
常磐線にも大いにかかわりのあったこの列車について、少々書き記してみます。 1950(昭和25)年11月、上野・青森間に運転されていた常磐経由急行のうち、上下2本について初めて愛称が設定されます。命名された愛称は、昼行には「みちのく」、夜行には「北斗」でした。
「北斗」は後に特急格上げで「ゆうづる」を名乗ることになります。
1952(昭和27)年9月には、上野・青森間常磐経由急行「北上」が設定され、長距離列車が増加しますが、201レ・202レは「みちのく」独占列番でした。
「北上」は後に特急格上げで「はくつる」を名乗ることになります。
常磐線1953(昭和28)年4月時刻表
を参照ください
1965(昭和40)年10月、気動車急行「みちのく」が設定され、上下2本体制となります。気動車はその特性を生かし、「陸中」との併結列車でデビューとなりました。
従来からの客車急行は、下り201レ「第2みちのく」、上り202レ「第1みちのく」、
新規設定の気動車急行は、下り201D「第1みちのく」、上り202D「第2みちのく」です。
201D 「第1みちのく」 上野[07:40]〜小牛田〜一ノ関〜花巻〜大鰐[21:25]
「みちのく」 小牛田[14:00]〜鳴子[14:51]
「陸中」 一ノ関[14:47]〜盛[17:14]
「陸中」 花巻[15:44]〜宮古[18:53]
下りを例に説明しますと、上野を「第1みちのく」と「陸中」が13連で出発。最初の分割は小牛田で、鳴子行き「みちのく」2連を切り離します。次いで一ノ関で、盛行き「陸中」2連を分割。さらに花巻で、宮古行き「陸中」3連を分割しますが、「陸中」には盛岡発準急「はやちね2号」が連結されます。6連で北上を続け盛岡で、久慈行準急「うみねこ」2連を連結し、8連で再北上しますが、尻内で「うみねこ」を分割、再び6連で北上を続けます。青森到着で4連を切り離し、終着大鰐へは2連が向かいます。
1968(昭和43)年10月、「ヨン・サン・トオ」の大改正で、客車急行は「十和田」へ改称の形で消滅します。「十和田」は1954(昭和29)年10月に、誕生した常磐経由寝台急行で、「みちのく」からすれば弟分の列車ということになりますが、時の流れで致し方なしというところでしょうか。
さらに気動車急行は1970(昭和45)年10月で終了となり、「みちのく」の名前はダイヤ上から消滅してしまいます。
1972(昭和47)年3月、「みちのく」は電車特急として復活します。しかも、かつて自らを吸収した経緯のある急行「十和田」の中から1往復を格上げしてです。
デビュー時の時刻表は次の通りです。
11M 12M
上野 [14:48] 青森 [04:53]
水戸 [16:16] 三沢 [05:41]
日立 [16:39] 八戸 [05:57]
湯本 [17:19] 一戸 [06:26]
平 [17:28] 盛岡 [07:12]
仙台 [19:25] 一ノ関 [08:10]
一ノ関 [20:27] 仙台 [09:16]
盛岡 [21:26] 平 [11:11]
一戸 [22:10] 湯本 [11:18]
八戸 [22:40] 日立 [11:59]
三沢 [22:55] 水戸 [12:23]
青森 [23:45] 上野 [13:48]
1982(昭和57)年11月、東北新幹線の本格稼働に伴い、特急「みちのく」は消滅します。
11M 特急みちのく 常磐線 川尻(現十王)〜小木津 1972.8 |