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 ■清洲城の石垣(清洲城跡説明板より)

 石垣を築く位置に溝を掘り、縦方向の枕木を約0.9m(半間)間隔で設置します。胴木の中央には2ヶ所臍(ほぞ)が切られ、この上に横方向の胴木を置き梯子状に組んでいきます。枕木と胴木の間には拳大の礫(れき)を敷き詰め、横方向の胴木の前面には胴木を固定するための杭(くい)が打ち込まれています。石垣は五条川に面する軟弱な地盤の上に築かれており、石垣の崩落を防ぐためにこのような強固な基礎構造が用いられたものです。胴木の上に据えられた根石は地中に埋められ、その上に石を積み上げていきます。石組の裏には水はけをよくし、裏側から石垣が崩れないように、裏込めのグリ(栗)石が詰め込まれています。残存の石組は根石を含め最大で1.8mの高さです。使用されている石は濃飛流紋岩と呼ばれる石材を主とし、ほとんど手を加えることなく自然の石を積み上げ、石と石の間にはやや小さめの礫(艫介石・胴介石)が組み込まれています。いわゆる野面積みと呼ばれている技法です。 

 復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。
[メモ]木材は水に濡れると腐りやすいが、常に水に浸かった状態ではほとんど腐らない。特に松材は樹脂が多く水に強く、折れにくいので堀底の胴木としては最適である。しかし、堀の水が干しあがって胴木が乾燥すればたちどころに腐敗する。陸上の石垣には決して胴木を使ってはならない。
■普請[土木工事](滋賀県立安土城考古博物館展示より)
 
 修羅に大石をのせ、大ぜいの人の力をあわせて引いている。その大石の上では、南蛮風衣装を着た数人が鐘や太鼓で音頭をとっています。普通の石は、牛車やべかぐるまで運びます。石垣の裏につめる小石(裏ごめ石)は、もっこや石負子で運びます。

堀・石垣・土塁・土塀

■中世(鎌倉・室町時代)の城郭は、大部分が山城であったため、堀は水のない空堀であった。山の上では水を溜めることができないので堀切竪堀が主流となった。
堀切(ほりきり)』〜
山上での敵の移動を阻むために、山の尾根筋を横にV字型に掘って分断した空堀。竪堀(たてぼり)〜山中での移動を阻むために、山の斜面に沿って竪に掘った堀。

敵の攻撃から城を守るには、高い城壁を築くか、深い溝を掘るかである。
 石で築いた城壁が石垣土で築けば土塁溝がとなる

※石垣・土塁・堀を築くことを普請(土木工事)といい、門・櫓・御殿などを建てることは作事(建築工事)という。

▼雁木(がんぎ)〜石垣の城内側を階段にしたもの。萩城。

野面積

打込接

■近世(桃山・江戸時代)の平城・平山城では、平地に水を湛えることができるので、水堀が応用された。平地では、堀を掘れば自然と水が湧き出し、また、海や川からも水をひきだすことができる。堀の役割としてみた場合、水堀も空堀も優劣つけがたく、併用している城もある。

切込接

空堀

越前大野城の乱積〜横方向の石の列が乱れる。大小、不規則な形状の石材を積み上げたもので、横目地が通らない。

浜松城の布積〜横方向に石の列がほぼ揃って並んでいれば布積。この石垣は野面積の布積という

鉄砲の普及により、狭い幅の薬研堀から、広い幅の箱堀へと変わっていった

 ひとつひとつの曲輪の周りを、敵の攻撃から守るために掘ったもの。土塁や石垣と並ぶ城の基本的な防御施設。水を湛えた水堀と水のない空堀(からぼり)とがある。水堀は、三重あるいは二重に巡らされていて、三重の場合、城の中心から内堀・中堀・外堀、二重の場合は内堀・外堀と呼ばれている。空堀には、「横堀」「堀切」「竪堀」「障子堀」などがある。 

▼石垣と土塁の併用
土塁の補強と、また、石垣を節約するために、土塁と石垣を併用した例。土塁の上部に築いた石垣を鉢巻石垣、下部に築いた石垣を腰巻石垣という。

◎掘り方によっても下記に分類できる(図は堀の断面)

土塁 土塁は地面を掘って、その土を台形状に盛り、つき固めて造った塁壁。土塁は古くは土居(どい)と呼ばれ、塁は小さな砦を意味する。

▲弘前城追手門の土塁

土塀 塀は柵に板を打ち付けたもの、あるいは楯を並べ立てたものから出発し、「板塀」が主流であったが、着火しやすいので、表面に漆喰を施した「塗り塀」に変わり、やがて、泥を塗りこんだ「土塀」・「築地塀」が出現。当然、土塀の方が防火性に優れ、耐久性も優れていた。
また、壁に丸や三角などの穴をあけ、矢や鉄砲を放つ狭間などが造られるようになった。塀も防御の要であった。

■水堀

▼控柱を垂直に立て、(ぬき)で土塀を支える形式。

▼土塀の転倒防止のため、控柱を斜めに傾けて、土塀の柱を突っ張り支える形式。

 鉄砲が普及する以前の中世の山城では、堀の幅は狭く、五間(約10m)前後のものが多い。
 弓矢の有効射程は十五間以内であった。堀幅を五間とし、その向こうの空き地を十間以内に区画すれば、敵は城内からの弓矢の攻撃をまともにうけることになる。
 ところが、鉄砲の有効射程は三十間に及ぶため、堀の幅は十五間を超えるようになった。したがって、堀の両側の斜面が離れてしまい、平らで広い堀底ができる。この堀を箱堀という

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*城地
*城門
*天守

▽城ガイド(城の見方)へのリンク

城内側を垂直に近づけた場合には、「かたやげんぼり」という。

毛抜きのように底部が丸くなっている堀

■石の積み方によって、布積(ぬのづみ)乱積(らんづみ)、この他に、谷積(たにづみ)亀甲積(きっこうづみ)がある。

南蛮練塀(なんばんねりべい) 名古屋城〜南蛮たたき(石灰・赤土・種油を練りあわせ、たたきあげる工法)で固められた堅固な練塀。屋根を失い、上部が崩れているが、鉄砲狭間が残る

▼山城の土塁
山の斜面を削って土塁を造る。このような土塁を「切岸(きりぎし)」と呼ぶ。

●戦国時代の城の多くは、土塁によって囲まれていた。やがて戦国末期から江戸時代の城には土塁を石で覆った石垣が多用されるようになる。
●防備の主役は土塁のほうであった。石垣は城の中心にあって、敵と直に対峙するのは外側の三の丸や外郭であり、そこに築かれていた防衛線は、ほとんどが土塁であった。
●平地に土塁を築くには、堀を掘り、その土を掻揚げて盛れば、堀に沿った堤防状となる。
石垣に残る矢穴〜割り損ないの矢穴の列が残る石を隠そうともせずに石垣に使っている。

石垣の刻印〜名古屋城の石垣に彫られたもので、「加藤肥後守内小代下総守」とある。諸大名が担当する天下普請の城では、担当箇所の混乱を避けるため、石に家紋などの刻印がされた。

▼石の加工〜鉄製の「矢」(クサビ)を使って割り採る。

▼笑積(わらいづみ)〜巨石(鏡石)の周囲を多くの石で取り巻いて積み、見せ場となる。富山城

▼反りのない石垣。一直線の勾配。伊賀上野城

▼日本一の巨石。大阪城本丸桜門にある「蛸石(たこいし)

松前城の亀甲積六角形に加工した石を隙間なく積む。

五稜郭の谷積〜石の対角線を縦に向けて斜めに積む。

石垣 石垣は近世(桃山・江戸時代)城郭の特色の一つ。中世(鎌倉・室町時代)の城にはほとんど石垣はない

▲姫路城の土塀

▲土塁の構造

▼日本一の高石垣・大阪城。

■堀切
*城を守る仕掛け

▲佐倉城(千葉県)出丸の土塁

■竪堀
*櫓.御殿.庭園

水堀

■さまざまな石垣■

▼反りのある石垣。扇の勾配。熊本城。

鉄砲の普及によって堀の幅は、十五間を超えるようになった。その為、堀の両側の斜面が離れてしまい、平らで広い堀底ができる

薬研堀(やげんぼり)の堀幅は、五間(約10m)前後。堀の斜面の角度は、約45度でうがつため、底部が尖っている。

■積み石の形(加工の程度)によって次の三つに分類できる。
  野面積(のづらづみ)〜自然の石を殆んど加工せずに積み上げた古い時代の城に多い工法。     
  打込接(うちこみはぎ)〜粗く加工した石を積み上げる。
  切込接(きりこみはぎ)〜石と石がきっちり密着するように加工して隙間なく組合わせた工法。                    

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