このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




満州移民





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
満州移民

一、百勝を知らぬ農業移民
一、満人の労働力に怖る意気地無し
一、机上に美田を描く妄想者
一、濡れ手で粟の投機屋
一、其他一切の我利我利利権屋
右の者、堅く立ち入ることを禁す

今日、満州への移民については引揚者体験談も多く出版され、図書館で読むことが出来ます。さらに当時の時代背景をまとめた論文など多く出版され、インターネットでも見ることができます。
こちらのページでは、他のページ同様に、皆様がこれら満州移民についての書物を読まれる際の挿絵代わりになればと期待し、収集しました戦前の画像を掲載してまいります。

構成としましては、移民の写真、私が収集しました戦前書籍から一部抜粋、その他に様々伺ったお話を盛り込んでまいります。
特に書籍につきましては、移民の失敗事例の紹介をピックアップします。
移民を募集した当時の広告は、満州を " まだ耕されていない沃土だ " と移民を強く煽り勧める内容です。
しかし、一方で、移民の失敗事例は少なからずあり、戦前の、まさに移民が行われていた最中の書籍にも多く紹介されていました。国策としてすすめたものであっても、書籍で早くも失敗事例の取材が行われ記載されていたという点は、私にとって大変に意外でした。

では、まず移民たちの働く姿から。肉体労働に勤しむ姿、小さな子供達も写っております。
○こちら

今日、インターネットでは満洲についても色々と情報が得られます。
ただ、ほとんどが農業の移民、そして現地で既に買い上げられた農地を耕作する内容で書かれています。

また農業移民だけ見てみましても、実際には買い上げられた農地が必ず得られたわけではありません。未開の土地を耕す、木を切り根を取り払い、石を取り除いて畑にした、農業用水を引き水田を作った、というケースも多々あります。
また現地で土地を得ることは、やはり困難がありました。土地取得のトラブルに伴い、日本人逮捕例もありました。日本人にとって、満州の土地は自由に得られるものではなかったんです。

移民をした日本人は、取材や戦前図書から、現地の人との交流に懸命であったことがわかりました。移民側が積極的に友好の姿勢を示すことで、現地の人から信頼を得ようとしたわけです。
そして、移民は少なからず失敗していたのですが、これが戦前の時点で既に紹介され書籍になっています。

今日、これらに言及した資料は少なく感じます。
wikiをはじめインターネットは特に見かけず、今回、当ページ編集にあたり収集した情報と、過去に様々にアップされてきたインターネットの情報は異なっている印象があります。

さて、移民は明治時代から(つまり満州国が出来るはるか以前から)中国の東北部、満洲の地に入っていました。
大正時代にも移民が組織されています。例として愛川村移民が挙げられます。
愛川村については こちら
このページでも紹介しましたとおり、決して順調な開拓ではありませんでした。この愛川村は満洲移民を宣伝するモデルケースとしたかったようですが、思うように開拓は進まず紆余曲折があったことがわかります。成功しなかった例が早くも既に発生していたわけです。

まず大正時代の移民の事例を挙げて見ます。
除隊兵移民です。
『 大正初年、満鉄の計画実行により、鉄等守備隊の除隊者から農場十時希望者を選別し、三十四戸の農業者を選別した。
満鉄は、農家一戸に対し、既墾畑地十二町〜二十町を貸し与えた。
他に農舎の建築、役畜の購入、農具購入などの必要ありと認むれば、金三百円以内を低利子、利子三ヵ年据え置きで貸付し、農業経営の方法については満鉄社員をして指導させることとした。
しかし移住者の中には
 イ) 一攫千金を夢見て真面目に農業に従事せぬ、のあったこと
 ロ) 耕地を支那人に転貸し、小作料の差額を収めようとする者のあったこと
 ハ) 生産物は安価な銀で売り、必要品は高い金で買い入れねばならなかったこと (  )
 二) 副業の選択を誤り家畜の飼育や農産加工製造の如きを主としなかったこと
 ホ) 土地の所有権を有せぬ為、安心して将来の計を樹てるに至らなかったこと等の事があり、
これらは此の満鉄の移民計画をして余り芳しい結果に導かず入植個数も今や半減し現存するものはわずかに十七戸を算うるのみである。』
昭和8年の書籍の記述です。大正は15年、これに昭和の8年を足して22〜23年間で、半分は残っていたともいえますが、すくなくとも移民たちの村は大きくなっていない、尻すぼみであることがわかります。

 ※についてですが、満州や当時の中国は、銀が流通していました。なので、売る際に銀が、という記述では、と想像します。一方、金も流通していないわけではないのですが(砂金がお金の代わりに利用された例もありますので)、この買い入れの" 高い金 "は「きん」ではなく「かね」つまり通貨をさしているものと思われます。

続いて昭和の移民の事例です。まずは募集について紹介、またやはり成功しなかった例についても紹介します。
『 大連農事移民
昭和四年創立の大連農事会社は資本金一千万円(満鉄出資)を持って設立し、専ら関東州内に堅実なる邦人農家を移住土着せしめる目的で、希望者誘致を殆ど原価で年賦 (※) 還法に依り分譲せんとするものである。当初は自作農及小作農各三百戸を移住する計画により渡航費、家屋建築費、土地改良費、児童教育費などの補助をなしたが、三十余戸の移住者を見たるにとどまり、昭和七年迄で移民収容を停止するの結果になった。』
※年賦(ねんぷ、一年払いのローン)

昭和の移民について、移民を募集する立場での書籍からどういう移民の募集例があるかをみてみます。合わせて同じく失敗例を掲載してみます。

ではまず、募集例から。

①満州移民
『 最新満豪移住案内 』 (昭和7年) 最新満蒙移住案内, 安治博道, 東京, 南光社
○こちら
新出という記述になっていますが、進出の誤植かもしれません。
満州へ自費で行く場合の費用で、当時の相場がわかります。視察の案内の記述もあります。
自費では、かなり辛い出費となりそうです。

移民は、農業、つまり農地を耕し作物を得る、というのが知られています。
が、それ以外にも、いろいろな種類の移民の方法や募集がありました。
家畜についての記述を紹介します。具体的な金額の記載もあります(かなり、"取らぬ狸の皮算用"的な印象も受けますが)。
木材、林業の記述もあります。
○こちら

さらに自主的な移民としてユニークなものがありました。
○こちら
薬草についても有望と紹介があります。

この他の移民募集例としまして、国内の国民職業訓練所にて、"巡長募集"という事例がありました。
二十〜三十歳の男性を対象に満州国内で鉄道の警備に当たるもの500名を募集、応募者は作文を提出し選別、さらに面接がありました ( 『 常識ニツイテ考試ヲ行フ 』 )。
募集した人員は、通常、しかるべき訓練を受けて満洲から移住していますので、これもいろいろ訓練をしたものと思われます。

今日の書籍で扱われる満州の移民は、ほぼ農業での内容です。
が、移民募集は幅広い業種で募集されていたことがわかります。

昭和15年に満鉄の周水子駅へ雇われた例を紹介します。
『甲種傭員』に採用で、給与が日給一円六十八銭でした。
仕事は何か、甲種とは何かは不明です( 乙種よりは上? )。鉄道保安のかなり高度な仕事をしたものと思われます ( ある程度のスキルがある人員 )。
月当たり20日稼動だとしてもかなり良い給与に思われます。

先立つものはお金、という紹介をいたしましたが、そうしたニーズに対応し、拓産積金という貯蓄もありました。
残念ながら、その募集広告 ( といっても紙切れ ) を古本収集家に見せてもらっただけで詳細は全く不明です。この拓産積金につきましては、今後の課題とし、まずはその広告を書き写したものを表にしましたので、紹介いたします。
結構、良い利率の様です。銀行など利子にお詳しい方の利率算出などご協力を賜りたく、何卒、宜しくお願いいたします。

毎月、これだけの金額を納められる人は個人では稀だったと思われます。
高給取りの学校の先生も35円程度の給料でした (カツ丼が35銭、つまり0.35円 )。なので、なんらかの団体か、投資がてら国策に貢献、と考える資産家向けにも思えます。

さて、ここで紹介した当時の書籍、『 最新満豪移住案内 』ですが、なるほど満洲に行きさえすれば、いくらでも発展の余地がある様に読み取れます。また、社会が安定し匪賊が減ったこと、水稲への期待も読み取れます。

しかし、実際にはそう簡単ではなかった様です。
佳木斯移民の例でも、入植した土地は痩せていたなど困難な移民でした。
特に、移民団へ与えられた建物が原住民からの買い上げそのままで大変に傷んでいたものであった、極寒の地でもあり建物の断熱は不十分で冬場に窓辺に物を置いておくと凍ってしまっていた(リンゴが凍った)ほどだとか。家の状態がよくない場合は特に、暖房の薪が途絶えれば、即、凍死の危険があります。
またやせた土地から農作物を得るには、土壌改良をはじめ、多くの作業が必要です。
当然、収穫が得られるまでの生活の手段も確保する必要があり、やはり移民は楽ではありませんでした。
高粱、とうもろこし、野菜をつくり生活の糧にするわけですが、その実りが得られるまでの最初の期間がもっとも厳しいとも聞きます。
栄養も十分ではなかった様で、幼い命が肺炎で犠牲になるなど、苦労は耐えませんでした。

佳木斯については こちら

『 満州産業体系 』( 昭和8 )でみてみましょう。
満州国設立の1932年 ( 昭和7年 )からすぐに出版された本です。
満州国が設立してからも、失敗した例が多々ある様です。

『 例えば満洲××協会とか、○○会とか、海外△△同盟とか満洲◇◇村建設実行会とか等々々、計画の趣旨も提唱者の努力も相当真面目なる物が沢山あることはあるけれども、せっかくの計画の基礎内容がすざんであったり、その実力が貧弱で実行不能であったりするのがかなり多い様である。
以下、少しく、其等の失敗の実例や成功の実績について簡単に述べてみたい。
 
● ××会という団体移民計画は、主として某県出身の在郷軍人を北満に移住せしめる計画の下に、昨年7月約400名を送り北満方面の鉄道工事を請け負ったのであるが、ハルビンに到着当時、折柄の松花江大水害に会い、一ヶ月間同市に滞在を余儀なくされた間に全隊の指揮は頓に弛緩し、鉄道工事に着手してからも、文化華やかなるハルピンの都会色を思い起こしては地味な作業が手につかずして幹部の涙ぐましき努力にもかかわらず離脱者が出てしまったのである。
それらの脱走者は一敗地に塗れたる不運なる渡満者であってその後の成り行きさえ不明である。
残余のものはその後、相当良好の経過を示し真面目に作業を続けているが、この計画の失敗の原因としては、当初の人選が不十分であったため、新聞記者とか俸給鳥とかいう類の満洲移民者たるに適せざる人が多く、渡満後も裕かなる給料生活を、とでも夢想して応募した者が少なくなかったのに由ると思われるのである。

● 昨年三月下旬、樺太から移住した五十戸ほどの位置集団があった。実はその代表者によって約六百歩の土地が確保されていたはずなのであったが、肝心の土地は十八年も地主と管理人との間に土地の権利の係争が続いており、邦人の利権屋をも交え、益々問題が紛糾、耕作に着手することにはいかなくなってしまった。
このままでは立ち行かなくなるばかりなので、窮余の末、領事館等の世話で、馬丁や大工や電工に一部のものは雇用された。
  
● 某県の某炭鉱では、不景気の為、人員坑夫の削減整理の必要に迫られた為、渡満せしめるとの条件で彼ら工夫を整理した。
ところが満州において坑夫就職の問題は猶予がなく、拓務省でも無謀との判断であった・
現地に乗り込んでも、彼らに職は何も無く、泣き叫ぶ家族を抱えて当局に斡旋を懇願するばかりである。
坑夫諸氏の認識不足、問題と罪はむしろ会社の側にある。
 
● 昨年二月(昭和7年のこと)、真面目な若夫婦が石川県から吉敦線の横泥河子付近に移住し、領事館の斡旋で土地を世話してもらい、もくもくと夫婦が汗水を流し、勤勉力行して耕作に従事し、付近地方民の著目の的となっていたが、汗の結晶たる収穫が見事に出来た十月半ばの頃、匪賊の襲いをウケ、家畜や収穫物は略奪され下僕一名は残滓、夫婦の一人は重傷を負うの惨めな結果を来したことも尚、我々の記憶に生々と残っている事実である。 』

この横泥河子は、当HPの満洲写真館、満洲地方都市その5に一枚だけ掲載しています。内陸の冬寒い地域で、十月であれば一通りの農作業を終了したところです。そのタイミングを狙って襲われたことがわかります。

最初の事例での
『 新聞記者とか俸給鳥とかいう類の満洲移民者たるに適せざる人が多く、 』
は本ページのトップにある、堅く入ることを禁ず、に該当する人ということでしょう。

二番目に挙げられている土地の確保に苦労したという内容については今日、見られる満洲引揚者の体験談などにも、まず記述があることはありません。与えられた土地は既に耕された畑で、土は痩せていた、というのはありますが、確保されていない例は体験談では、いまのところ確認していません。
が、戦前図書からみてみますと、必ずしも全員分の土地が確保された上で移民をしていない例もある様で、大変、乱暴な話だと感じます。


土地の習得について、もう少し詳しく『 最新満蒙移住案内 』( 昭和7 )をみてみましょう。
『 土地占有方法  満蒙で土地を手に入れるのは困難。
土地は天与のもので、詩人の所有物ではないと言う昔からの観念で私人同士の売買というのは認めていなかった。
共和国政府(満州国政府)でも土地を殊に ( ことに ) 外国人に売り渡すと言うことは至難とされている。
然し乍ら(しかしながら)、土地の所有権は移さないが永代小作権、または永代地上権ともいうべき三十ヵ年を単元とする商租権( しょうそけん )業主権ともいう、地主と商量して同意を得ること、即ち占有収益権は自由に移している。
この土地賃借契約については領事官憲によって契約認證 ( けいやくにんしょう ) すなわち内地で言う裁判所登記がなされる。
この契約認證は至極簡易軽便で、契約ひとつあたり、印紙二〜三円を貼付する。 』

契約認証願いという書類があること、二〜三円の印紙が居ることが、わかります。
移民をするにも、先立つものはお金、ということになります。

もうひとつ、取材で ( 管理人の体験者ヒアリング )土地の確保に契約、という行為に対する現地人と日本人の感覚に差があることがわかりました。
日本人は、契約が結ばれると、その約束は継続する、きちんと継続することは互いの信頼の確立となると考えます。
しかし現地、満州では様子が違います。日本人が土地を買い、肥料や堆肥をまいて土地を肥やし、作物が取れるようになると、土地を売った人がやって来て、もっと土地代を出せというのだとか。
契約に対する意識に日本人と現地人との間に大きな差がある事例だといえます。

さて、満州へ移住した人々、現地の人との交流に懸命でした。

地元民の女児の顔が毒草でただれてしまい、開拓村にある医薬品とメスで簡単な外科処置と軟膏を塗って処置した。
様々な薬を用いて治療に成功した。

不作が続いた為に生活が追い詰められ、満拓公社に金を借りようとしたが、太平洋戦争が始まって以来、融資が困難になって、借りられず、困り果てていた。
すると、日ごろより仲良くしている屯長(地元の地主)が自分の持っている馬を売って金を工面してくれた。

勿論、良い話ばかりではありません。
同じく取材にて以下のお話を伺いました。土地の売り買いで金を得た老婆が隣人に殺害されたというものです。
隣人は老婆の金を奪うために強盗をはたらき、さらに隣人は老婆を井戸に落として溺死させた上で、" 安価で土地を奪われて、嘆く余り井戸に身を投げて自殺した " と言いふらしていたため、入植した日本人が肩身の狭い思いをさせられた、とか。ちなみに隣人は、後に土地の警察に逮捕されています。 

国策として推進していた満州の移民は日本国内の飢饉などが解消するなどして、段々に募集しても人が集まらなくなってしまい、さらに戦争が始まるとさらに募集人数に足らなくなります。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集もこうした移民募集人数の不足に対処するために進められていました。

が、移民は当初、希望しさえすれば誰でもいけた、というわけではなさそうです。
昭和初頭の農業移民のポスターを見ますと
『 農業に夛年(多年)の経験ある者
 移住地はすべて肥沃地
  手続、 申し込みは随時役場へ
 申し込み後、拓務省の詮衡を経て一年以内に渡満できる。 』
と記述があります。ここに経験とありますことから、一応、スキルのある者を募集したかったことがわかります。
ちなみに、すべて肥沃とありますが、これは誇大かもしれません。

さて満州の移民は困難だと当初から認識されていました。その理由を抽出してみます。
先の図書、『満州産業体系』 ( 昭和8年 )をみましても、容易でないとの記述がみられます。

『 移民の障害
イ)現地の農民は文化および生活程度が低い。体力強く勤勉性に富むから日本字に明は到底彼らとの競争は不可能である。
しかし日本人は知識技術組織などを備え、体力のハンディキャップを補って余りあるといわねばならない。

ロ)
 日本人の祖国愛は熱烈なるものであるから満州の地を長らく彼らが墳墓の地となすことは困難である。
心理的原因に対処、移住できる生活状態にし愉快豊富にして有意義なるものたらしめ適当なる組織によりて集団村落を形成しさも郷里にあるがごとき思いを成さしめることは決して難事でない。いわんや移民の第二第三世代に至れば最早、その父兄らの有する里ごころにとらわれることはないであろう。

ハ)
北満の寒気は零下三、四十度の厳しさに及ぶのみならず満目荒涼たる広原の環境は日本人の堪えざる所以であろう。

これは家屋の構造及び暖房設備の問題であって、決して日本人の体質上に基づくものではない。橋梁たる環境に関しても多数の移民者入植とともに文化的施設を豊富ならシムることによって克服するに難くない。

ニ)
満州には馬賊土匪(匪賊)の類が横行し、日本人移民は安んじて農事にいそしむことができないであろうというのである。
なるほど、これは現実的にかなり大きな障害であり、日本人移民に限らず地元の満州人にも等しく降りかかる禍いである。掃討されるに自衛移民のごとき特殊な形式によりさしたる危険とはならない。 』

一応、なんとかなる( 行きさえすれば、あとは努力でなんとかなる? )とは記述されていますが、移民の団員の士気を保つのは大変だったことも読み取れます。

満州開拓館 朝日新聞主催
開拓の機運を高めるためか、開拓を紹介するイベントも開催されたようです。
こちらは朝日新聞主催の満州開拓館ですが、詳細は不明です。建物の入り口に満州開拓館という看板が、画面右端に
「の開拓村」とあります。人々が行列しています。

分村とは
移民、特に農業移民では、分村という言葉が出てくる場合があります。
これは満州農業移民100万戸・500万人計画をもって日本の農村各地からの農業移民を図った際に、満州にできた移民団の村を分村と呼んでいます。

日本国内の村から人を出し、満洲にもうひとつ自分たちの村 ( 分村 ) を作るという発想で、分村が立ち上がればさらに移民を送り出すという形でした。日本国内の村は母村と呼ばれました。
母村からは慰問品を送るなどして応援、分村が立ち上がれば、さらに団員を送る、家族を持たせるために女性を分村へ行かせる、さらに慰問団なども送り込んでいます。
尚、日本国内の、分村を送り出した村を母村と呼ぶと書きましたが、おそらく 「 ぼそん 」という呼び名でよいと思います。
が、「 ははむら 」かもしれない、という情報がありました。現時点で、どちらが正しいかは確認出来ていません。参考まで記すこととします。

補足資料として、インターネット質問掲示板掲載を頂いてきました。
『満州開拓団の土地の取得方法戦後の追剥掲載用』
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3568236.html

ここで
『 開拓団引き揚げ時に満人が襲ったのは、土地を強制的に地上げされた恨みもあったかもしれませんが、単に「物が欲しかった」という追剥ぎ的行為の可能性の方が強いと思います 』
について、実はこれは有り得る話です。

過去、中国では何度も政情不安定になりました。そんななか生き残るための食料などの奪い合いが始まります。そしてたちまち餓死者の山が出来るという歴史を繰り返してきました。
こちらの 『  朝鮮半島移民  』 でも触れましたが、現地の人(中国人)に虐げられ、奪われ殺される様子がわかります。満州国が出来る前は、本来は取り締まるべき官憲が迫害をしていたことがわかります。朝鮮半島からの移住者は心細い思いをしながら土地を耕していたことでしょう。
そうした過去のある地域です。満州国が崩壊という正常不安定になっても尚、奪い合いもせず、というのは古い中国の歴史上、考えにくく思われます。むしろ満州国ができる前に戻ったとも考えられます。

さて明治期から、満州の地へ移民されたひとからは、満州国が設立してからの移民はお膳立ての整ったものだったようです。
こちら民族の緯絲から、紀州村へ訪れた小説家、湯浅克衛のルポルタージュです。

『 民族協和と紀州村 先駆者を訪ねて
90ページ
新京拓殖委員会で、南満に開拓団が三十ヶ村もはいっていることを知った。
 私たちの眼はこれまで北満に注がれていたので、南満は素通りするか休養地であるかだった。南満の開拓団を訪ねた人は未だ殆どいないだろう。
その上、民族協和、原住民との関係からいって漢民族が北満とは比較にならないほど密集している南満は必ず様々な問題が横たわっているに違いない。
 事情あって北満に行けない私は、新京から南へ、鉄嶺縣の新台子紀州村を訪ねることにした。
 新台子には紀州村のほかに二つほど訪ねたいところがあった。
 
一つは今から約三十年も度前、大正三年に当時の鉄道守備代をして後、住み着いた人たちがこの駅の近傍に四名ある。
その一人を訪ねることだった。
 満鉄広報課の千田さんに紹介された人は、駅を出たあたりで、子供連れの日本人の奥さんに訊くと
「あの、味噌屋さんでしょう」
と教えてくれた。
 入っていくと、テーブルに向かい合って、いくらか頭の毛が薄くなってはいるが、赤ら顔の元気そうな人が当の本人だった。
もう一人は若い満洲人の商売人という格好、黒っぽいつめ襟を着てビールを水のようにゴクゴク呑んでいる。
 「そうですなあ、私が満洲に参りましたのは明治四十二年のことです。」
それでは私の生まれる以前だというと、その人もビールを呑んでいる詰襟服も笑った。
 「私もまだ生まれていない」
と、いうところを見ると、客は朝鮮半島出身の人なのかもしれない。
まもなく、その人は集金袋のようなものを下げて帰って行った。
 鉄道守備代で大正三年までその年にここに入植したのだった。
 最初は一箇所当たり三十天地(約十八町歩)を借りて板の画だ、 今の開拓団としがって、借りている土地だから駅付近の市街が発展すればするほど、土地は削られて市街地に繰いれられていく。現在は二百天地(十二町歩)くらいになってしまった。
 自分たちは土地を借りる条件があるきりで、他一切は自分たちの手でなにもかもやらなければならない。それでも今日までこうしてがんばりとおしてきた。資産というほどのものも無いが、とにかく、もう困るということは無いところまできた。
それから比べると、今日の開拓民は領主のお姫様の御降家のようなもので、絹綿ぐるみた。有難いことだがわしたほんとにまだまだもっと手荒に植えて行ってもいいくらいだと思いますよ。
 困ればうんと地に這いつくばってでもやりあげていくものだ。わしらはもう駄目だと思うことが何度あったかもしれないが、その度になにくそと切り抜けてきた。へたばったが最後だからね。
なかなか気炎は尽きない。質朴そうなこの人の二十年の感懐には胸を打つものがある。
 十二町歩の土地は苦力の労力に任せている。近頃は食わせて二円五十銭もする。尾暗示漢民族系の地主になら一円五十銭で雇われる折にでも、二円から二円五十銭ということになるのである。
 苦力二人寄ると立ち話をしているんです。朝の挨拶からして食事は済んだか、というのだから、自然と今朝の食べ物のことになる。俺のところはネギに味噌だ。そうか、俺のところは高粱飯だった。そんな風で食事の事だってなかなか気を配ります。 』
 
『 58ページ
小学生は皆、目を輝かせてシュルツェ君を見た。
整列をして挨拶をしていている小学生たちははじめてみる盟邦ドイツの使臣に日ごろの憧れを確かめるように見入った。
山崎氏の案内で、私たちはまず協同組合に向かった。昨年の秋、丁度、協同組合の提款が出来るころ、私は来合わせていて、その海の悩みを知っているだけに、組合の基礎が確立し、赤レンガの堂々たる会館がたった半年の間に出現していることが大変うれしかった。売店はまだ移動していないが、事務は既にここにあり、組合活動のに奮戦している。 』
 
『 59ページ
このような若い努力家の中から守りたてられていくにちがいないと私は心強かった。
街村制が敷かれて村役場は村公署の黒痕に変わっていた。新しく満州国の機構の中にはひって行ったことと、今後の土地所有権の問題、国籍の問題がすぐに頭にくるのであったが、その問題は未だみなの心理のなかで具体的には解決されていないようであった。
然し早晩解決するのであろう。
小学校を訪ねて、温突式の寄宿舎で元気に暴れまわっている少年少女たちと語らい、美しい夕暮れの中を福島村のS氏宅を田津ねた。柱材を除けば、皆、白楊でで立てた新築家屋で、玄関から中の間まで全部日本風で、壁の多い信州の家を思わせた。
牛小屋も馬小屋も皆、家の中に包容されていて、S氏自慢のものらしく経費も随分安く上がっているそうである。
翌日は来た大営村を訪ねたがここでも新しい事業への試みが、種々の障害にぶつかっているように見受けられた。
新しい土地と、新しい制度、新しい試み、七年たっても、八年たっても新しい試みを験している人たちの努力に敬意を表するのと一緒に、新しい村には新しい陣痛がやはり続くのであろう。陣痛が大きいほど、生まれる子供も大きなものだろう。 』
 
『 122ページ
大陸寸感
南満洲に開拓団が三十いくつもあるということは、新京で出来たばかりの新年度の開拓年鑑を見るまで気がつかなかった。
殆ど、集合開拓団(前の自由移民)で五十戸ほどの単位のものである。皆入植のじきは新しい。
私の行った新台子紀州村も四臺子訓練所も、丁度大豊作の所為だったのか、皆生きいきしていて、落ち着いていて、交々自信ができたといっている。
偶然、私が言ったところだけがそうなのかと思ったが、全満にわたってそうであるらしい、義勇軍の少年たちの逃亡するものはどはなくなったそうである。
これは試練を経た後に行き着いた心境なのだろう。あやふやな考えで渡満するものがすくなくなったためなのだ。
第七次以降の開拓団が成績がいいのは、根本方針が決まり、あやふやな精神主義が無理をしようとせず、科学的に大地への挑戦を始めたことによるものだと思う。
まだまだ充分だとは勿論言えるどころではないが、今後は農業の専門家に家を建てさせるようなことをせず、現地の広さとか労働力の如何を見比べながら家を建てて、設備をして開拓団を待つという風に進んでいるようである。つまり、先遣隊というようなものも無くなり、家族を伴ってやってきて翌日から農耕にすぐかかれるようになるわけである。
こういうことを指して精神の弛緩だとかいうものが居るかもしれないが、そんなことを云う者は片隅で一人いきり立っているようなもので、大きな事業、五百万人の参加というようなことは、そんなことには無関心に科学的な道をつけているものなのだ。
その陣痛期は全く長かったといえば長かったが、よくもこんなに早くとも言えるのである。
批判をすることはたやすいが、道をつけることはそれほど簡単にはいかない。 』

さらに湯浅克衛のルポルタージュです。
四臺子訓練所訪問の内容、満蒙開拓青少年義勇軍と思われます訓練生の記述も見られます。
○こちら

現地の体験談を見ますと、移民を募集し満州へ送り込む役目を担った日本国内のお役所は、実は移民の知識も情報も乏しかったようです。結果、移民に対し、必要な情報を移民に充分に伝えることはしていなかった様です。
結果、移民の苦労は実際に移住してから直面し、またそれらは一歩一歩移民らにより解決していたことがわかります。
特に移民団同士で助け合う為に組合を作り、情報の共有、物流の困難に対して組合でまとめて沢山購入することで入手するなど、活躍した様です。
湯浅克衛のルポにも、そうした組合の運用などが読み取れます。

そして、湯浅克衛ルポで、注目すべきは
『 精神の弛緩だとかいうものが居るかもしれないが、そんなことを云う者は片隅で一人いきり立っているようなもので、大きな事業、五百万人の参加というようなことは、そんなことには無関心に科学的な道をつけているものなのだ 』
という点です。これはつまり、精神主義では駄目だという指摘をしているわけです。
1942年の関東軍による 「 戦時緊急開拓政策 」 では「 移民事業を国民精神総動員運動の一環として強力に推進する 」 という方針が掲げられていました。精神主義ありきの開拓であることがわかります。さらに別途掲載しますが、満蒙開拓青少年義勇軍では特に顕著で、指導者の加藤完治は若人に対する訓練を精神主義一辺倒にします。

一方で、湯浅克衛は開拓移民の現地を歩き、精神主義では駄目である、と結論し、昭和17年の時点で本に書いていました。
ここのルポを書いた湯浅克衛は小説家という、いわば知識階級でもあり、その観察眼を持って現地を実際に見て、このことを見抜いていたと言えます。
が、当時、精神主義で移住・移民の困難を乗り切ればいい、という科学的とは言いがたい発想が指導者側にあったのは確かです。
それでは駄目なんだという意見が民間のルポや書籍にあったという点は、今回の資料収集で初めて判りました。 

オンドル
移民関係で、関連資料として、体験談でよく見かけるオンドルについて記します。
満州では広くオンドル(温突)が広く用いられていました。
街中ではペチカという例を聞きます。一部ではセントラルヒーティング(ボイラーなどで高温高圧の蒸気を沸かしてこれを各部屋に送り熱交換する、アコーディオンの様なパイプから上記の輻射熱で部屋を暖める)もありました。
 
一方、移民団の村での記録をみますと、オンドルの記述を多く見かけます。
建物の片方に半地下の焚口を設け、煙突は床下を潜り、建物の焚口と反対側に煙突を設ける、床下暖房です。
これは高粱の茎などなんでも燃料にしており、無駄がなさそうにも思えます。ただ、周囲が汚れる、煙がうまく回らないと暖まらない、煙が漏れると家中が煙だらけになるなどコツが要る様ですが、夏場の虫除けのために時々使用するとかで(南京虫避け?)それなりに便利なのでしょう。
画像は開拓村の設営で出来上がったオンドルの煙突での記念撮影です。撮影者が立っている場所はこのあとで家が建つ場所です。

オンドル
オンドルの例をもうひとつ。画像は取材を基にした管理人スケッチです。
左側に建物があり、その建物の左に焚口がある配置です。煙突部分だけを描いています。
この煙突部分は、先のオンドルと同じくらいの大きさで、上へまっすぐ伸びる煙突の付け根が大人の頭の位置くらいです。
また煙突は先のオンドルと同じく、焚口の反対側に斜めに開いています。
先のオンドルは、全体が円錐型ですが、こちらは角ばっている特徴があります。

さて、オンドルですが、煙を吐き出す側はご覧の大きな煙突があるはずです。開拓団の建物で、この大きな煙突があればオンドルを持った建物だとわかります。逆にこのオンドルがない場合、暖房は何を使っていたのか、興味があります。ただ、オンドルもここに示すような大きな煙突が建物の外にあるとは限らず、建物と一体化していたり、天井へまっすぐ煙突を出している ( こちらの画像のように大きな煙突ではなく ) 例もある様で、煙突の形状でオンドルの有り無しが判断できるとは限らない様です。

ちなみに、オンドルは中国の東北部が発祥、と中国のインターネット掲示板に記述されていたとのことです。
が、朝鮮半島由来だと聞いたことがあります。中国にあるオンドルは朝鮮半島からの移住者が中国東北部に定着させたとも考えられます。

移民住処間取り
同じく移民団資料として、移民が建てた住処の間取り例を紹介します。
取材を元に管理人にて作画致しました。これはほんの一例で、様々な間取りがありました。土間が設けてある点が概ね共通で、これは国内の農家と同じだといえます。
真ん中のオレンジが土間、その上の黄色が炊事場で左右のグレーと丸がカマド、真ん中の丸が水がめです。
左右の白い部分が6畳間で、明るい緑が押入れです。二世帯、土間と炊事場が共有のスペースになっているわけです。
この図にはオンドルは書き込まれていません。
さらに、この図にはトイレがありません。トイレについては屋外に別の建物にトイレを設ける例が多かった様です。肥料に流用する目的があり、これも当時の日本国内の農家と似ています。冬場は排泄物が凍ってしまうなどで苦労がありました。

移民住処間取り その2
もうひとつ、管理人作図で、長屋が日と世帯あたり4部屋が与えられている例です。
右のオレンジ色が板の間(畳)、左下黄色がオンドル(温突)を配置した部屋、左上のグレーは炊事場で、土間です。事場の土間にオンドルの焚口は土間です。が、室外に設けた例もあります(オンドルから逆流した煙が室内に充満しないように)。屋外とはいえ、通常は屋根をつけてあったそうです。

移民が実際に生活するうえで問題となるものがいくつもあります。
 まず最初に、なんといっても飲料水が問題として挙げられます。当時、生水を飲むことは命にかかわる問題でした。体験談にも、水の苦労の記載は多く見られます。また、当時の移民関係のパンフレット、さらに満蒙開拓青少年開拓義勇軍にもくどいくらいに注意が喚起されています。
  
さらにもうひとつだけ問題点を挙げるなら、なんといっても娯楽が無い点でしょう。当時のパンフレット類には記載が見当たらないのですが、体験談にはいくつも娯楽がなくて辛いことが挙げられています。
 
満蒙開拓青少年開拓義勇軍の体験談の中にも、なんら娯楽がなく、夜はじっとしているだけ、改善を訴えても取り合ってもらえないことから、脱柵(いわゆる脱走)をした話があります。仲良くなった地元の少年少女らが同行、道案内をしてくれて、マムシがうようよいる平原を横断、鉄道駅までたどり着く、というものでした。そこから鉄道で、首都新京を目指し、拓務省へ娯楽慰問について陳情を行う予定でしたが、駅で取り押さえられています。

大人の場合、酒が娯楽で地元の酒場に出かけて飲んでいたという例がありました。酒場には大変強い酒があり ( 老酒など )、地元の満州人はこれを口にくわえてしばらく味わって後、水と一緒に飲み込みますが、日本人はそのままあおる為、胃を痛めるなど健康を損なうケースまでありました。
 
移民団の場合、分村へ母村から慰問品を届けており、本、おもちゃ、嗜好品、なんでも喜ばれた様です。芸人がドサまわりよろしく満州の開拓地へ慰問に出かけたという話もあります。
 
満蒙開拓青少年開拓義勇軍は、軍隊同様に慰問袋があった筈だが指導者らが横取りしてしまうために行き渡っていたかは不明だ、という話を伺いました。

移民というのは様々な問題があり、苦労がありました。

 さて、満鉄も慰問に力を入れた例があります。康徳七年 満映パンフレット記載の開発部実行計画書から巡回映画上映実施の内容についてかいつまんで紹介します。
上映を行う人員は全体で40班、観覧者年間四百万人を目指して活動。
このうち、開拓団慰問の巡回上映に11班を派遣、全国で百四十回の上映実績。
黒龍江、松花江、鴨緑江へは慰安船による巡回上映を実施、四班を派遣。
 
これら満鉄の慰問活動につきましては、 『 満鉄その2 』  でも掲載しております。慰安船(そちらのページではショーボート)の写真は舞踊の披露で映画ではありませんが、盛況の様子がわかります。陸の孤島とも言える満州の内陸へ船でやってくる慰安船は歓迎されたものと思います。この他、在満日本時小中学校、さらに満系小中等学校も巡回していました。
 
少なくとも満鉄については、慰問活動を積極的に行っていたことがわかります。 


→満州写真館へ戻る
 
→歴史資料館 目次へ戻る

→みに・ミーの部屋に戻る







このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください