大賀郷
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  八丈島の見所スポット林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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八丈町 大賀郷

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八丈島西南部にあって西南一帯は太平洋に面した、八丈富士(西山)と三原山(東山)の間に形成された平坦地に位置するのが大賀郷です。北東は三根、南東は樫立に接しており、南西の海岸には八重根港があります。






中世の頃から島の中心地であった現在の大賀郷

八重根港は昭和41 (1966) 年の底土港完成以降は漁港とされていますが、 港には八重根港客船待合所があります。底土港が西風が強くて接岸不能の時に限って利用される補助的な港になっているためで、東海汽船の橘丸の到着港が底土港ではなくて八重根港に変更されることがたまにあります。

中世以降、政治・経済・社会・文化の中心地で、隣接する三根と共に店や宿泊施設も多いです。現在も東京都八丈支庁や町役場、八丈島空港、島で唯一の都立は地上高等学校などの施設が集まる八丈島の官庁街となっており、東部の平野部には公共文化施設、自社や史跡が集中します。

江戸時代[安永3年(1774)年]の人口は家屋158軒、人口は1377人。島出生の流人の子10人を含めて流人が32人、ほかに浮田流人が49人いました。さらに家畜の牛が262頭いたそうです。平成24(2012)年の世帯数は1535で人口は2715人。

大賀郷は中世から島の中心地だけあって、八丈島を代表する景観をなす近世の島役所跡に残る玉石垣や、八丈島歴史民俗資料館、宇喜多秀家の墓などの歴史スポットや文化財が多く残されていますが、町役場の北にある宗福寺は関ヶ原の戦いで敗れて八丈島へ流された宇喜多秀家の菩提寺。 承元2(1208)年の創建で、 木造の釈迦如来坐像、 誕生釈迦仏立像、大日如来坐像、応誉霊感坐像などの7体の仏像がありますが、大日如来坐像を除く6体は元禄期 (1688〜1704) に八丈島へと流された仏師菊池民部の作で、 享保14(1729)に作られた黄八丈阿弥陀名号軸と共に都指定文化財にされています。

大賀郷南部には八丈三島(八丈島、八丈小島、青ヶ島)の総鎮守とされる優婆夷命、宝明神などを祀る優婆夷宝(うばいたから)明神社があります。金川(現神奈川県横浜地神奈川区)の領主だった奥山宗林が寄進した木造女神像があるそうです。

さらに優婆夷宝明神社の東の道路沿いには、源為朝にまつわる伝説や遺跡の多い為朝神社および、室町末期から明治末期までの380年間も続いた陣屋跡があります。

また、 宇喜多秀家主従13人が八丈島に流されたのは慶長11 (1606)年のこと。 以後半世紀を過ごした場所が大賀郷で、菩提寺の宗福寺と釈迦堂の中間に墓があります。

主な史跡や文化財としては、 八重根港の近くには明治13 (1880)年頃に掘られ、 以来船舶用の飲料水を補給してきたメットウ井戸があり、大賀郷の八丈島歴史民俗資料館には、 元々近くの釈迦堂にあって作者不明ながらも中国明代 (1368〜1644) の作と推定される木造南蛮風羅漢坐像があります。

八丈町役場には江戸中期〜明治中頃までの島内各村の資料501冊4補および、 島役所に残されていた八丈実記などの八丈島に関する編纂物や流人関係資料105冊が蔵書されていますが、いずれも八丈島民政資料の名称で都指定文化財となっているそうです。

大賀郷は立ち寄りスポットも多くて、南原千畳岩海岸や大坂トンネルの展望などでは素晴らしい景観を眺めることができます。史跡以外にも八丈島の特産品のくさや、アシタバの加工所や八丈焼酎の蔵元、ジャージー牛乳製品の工場などもあり、史民俗資料館や八丈ビジターセンターなどは雨の日の観光スポットとしてもおすすめです。

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