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一発も撃たずにすんだとが最高の防御やった ?     「長崎県」の目次へ
対馬・要塞遺跡

 対馬空港から南下して、美津島町の鶏知(これば「けち」て読みきるもんはあんまりおらんめぇ)から西へ、ここまでは道もまあまあバッテン、それから狭かカーブばっかしの山道ば約4km。やっと夜明け間近の上見坂(かみざか)公園に着いた。

 標高385mにある
上見坂展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、浅茅湾が箱庭のごと眼下に広がる。

 溺れ谷(おぼれだに)いうたら、海岸線に直角でデコボコの激しか地形が沈水すると、リアス式海岸になって、さらに沈んでいったら、小さな島ばっかりの海になる。

 まさに対馬の浅芽湾がそれタイ。

 鋸の歯のごと複雑に入りくんだ湾は、波が低く水深が深かケン、港としてもってこいのうえ、沿岸漁業や養殖などに向いとる。



上・上見坂展望台から日の出前の浅芽湾。
右・東に面した堡塁跡(ほうるいあと)に対馬海峡からの朝日が射してきた。

 こっから、目と鼻の先に見える「白嶽(ほかにもあるケン、ここんとは正式には州藻白嶽)」は、標高519mで対馬ば代表する霊山。

 なしかいうたら、山頂部分に白嶽神社かあることと、石英斑岩の岩肌が露出した双耳峰で、遠目にも格好良かけんタイ。

 古くか ら信仰の対象として崇められとる山タイ。


上・まだ夜明け前の白嶽
右・左が雄岳で登山がでける。

 またここには、明治34年頃に造られた堡塁跡(ほうるいあと)があって、遊歩道ば奥まで歩いたら、砲座跡やら兵舎の跡やらが残っとる。

 砲座には口径15センチの火砲が4基も据え付けられとったげなバッテン、実戦ではいっぺんも発射されることなく、遺跡は朽ち果ててしもうとる。



左の2枚・粗石モルタル造りの 上見坂堡塁跡(砲座)
下の2枚・兵舎の入口と石モルタル建造物。

 要塞の元祖は、幕末に幕府が異国船打払令ば出して、沿岸の各藩に命じて作らせた台場から始まっとる。有名かとは、いま若もんの街になっとる品川の「お台場」タイ。

 嘉永6年(1853) ペリー艦隊が来航して幕府に開国ば迫ったとき、これにビビッた幕府がクサ、江戸ば守るために洋式の海上砲台ば建設させた。これが
品川台場て呼ばれた。お台場のいわれは、砲台のある場所やケン「台場」やったとバッテン、江戸っ子が幕府に敬意ば払うてか台場に「御」ばつけ、御台場ていうたけんタイ。

 この全国にでけた台場の幾つかは幕末に砲火の洗礼ば受けとる。薩英戦争での鹿児島湾の台場群( 新波止砲台参照 )と、下関戦争での長州下関の台場がそうやった。
 ふたつとも英国艦隊と砲撃戦ば演じたとバッテン、大砲の性能、砲員の能力、全てで欧米艦隊との力に大きな差があったもんやケン、薩長の完敗に終った。

 これが原因でクサ、両藩は攘夷から開国論へと転換することになったし、国防力として海軍の重要性に気付くきっかけにもなったとタイ。そやケン、維新後、海軍が誕生したら、艦隊の整備とともに、沿岸砲台の建設にも力ば入れていくことになったていう訳よ。

 主な建設地点は東京湾やら海峡。国防上重要な半島・島などやった。特に対馬なんかは国境の島やケン、砲台だらけ( 金田城跡棹崎要塞豊砲台 )になったとしても不思議はなか。

 それまでの台場から、洋式要塞への転換ば計った要塞整備が始まり、特に清国やらロシアとの戦争が現実味ば帯びてきた明治20年頃から、その整備が急ピッチで進んでいったと。
 ところが思うように進まんやったとは、要塞の砲台に据え付ける砲そのものば、日本が作りきらんやったけんゲナ。
 大阪の砲兵工廠やら横須賀の海軍工廠がクサ、ようやく大口径の要塞砲ば作りきるごとなったとは明治20年頃やケン、その前後にあった要塞の砲は輸入砲。なんともお寒い状況やった。

 やっと日本で要塞砲が量産されるごとなって、28センチ榴弾砲なんかは総計では約220門も作られたとバッテン、フランスやドイツの砲も買い続けよったらしか。なしかいうたら、当時の国産砲は、技術が未熟やったケン、外国製と比べたら精度が全然違うとったていう訳タイ。

 初期の要塞は、煉瓦作りの丸いアーチのフランス式が主やったらしか。要塞は海から発見されんごと、 山中の樹木に隠れるごと建設され、コンクリートで固めた砲座と、相手からの砲撃にも耐えられるごと頑丈に作られた弾薬庫、砲員の援体壕とその兵舎からなっとった。なかには砲塔だけ地上に出して、ほかの施設は全て地下に隠したていうともある。

 明治20年になって、日清戦争がいよいよ現実味ば帯びて来たら、清国の艦隊に対処するため沿岸各要塞の建設が一層進んでいった。

 もとからあった要塞に近代的な砲座ば建設して、戦力化したもんも多かった。
金田城跡の砲台もそのひとつタイ。開戦までに50ば超える保塁が作られ、砲が備えられとったていう。

 日清戦争が終っても、今度は日露戦に備えて要塞の拡充は続いた。日露開戦までに作られた主な要塞は、広島・佐世保・舞鶴・
長崎・函館などなどが主やった。

 対馬要塞が本格的に整備されはじめたとは、日清戦争後の明治33年頃からで、姫神山、根尾に28センチ榴弾砲ば配備してロシア艦隊に備えとった。戦争中はさらに、郷山・樫岳・多切崎にも28センチ砲ば配備しとったケン、総数は20門ぐらいになっとったらしか。

 ただし、28センチ榴弾砲の射程距離は僅か7800メートルやったケン、港の防衛にはなったろうバッテン、対馬海峡ば突破しょうてする艦隊に対しての戦闘能力はゼロに近かった。

 第一次世界大戦後(大正11年(1922))、ワシントンで海軍軍縮条約がまとまり、日本は既存の2艦ば除いて、建造中の艦船ば全部放棄することになった。また、旧式艦も廃艦することになったもんやケン、それらの浮いた艦砲ば要塞砲として転用することにして、もっとも重要と思われた地域の要塞、東京湾・対馬・壱岐・鎮海湾に装備したていう。

 壱岐黒崎砲台( 黒崎砲台跡 )の戦艦 「土佐」40センチ連装砲がそうタイ。
 昭和14年までに営々と建設された砲台は、龍ヶ崎砲台(30センチ連装砲塔1基、戦艦摂津主砲の転用)・豊砲台(40センチ連装砲台1基)豆酸・ 棹崎 ・海栗島・郷崎・大崎山・西泊・竹崎砲台(それぞれ、15センチ加濃砲)が装備され、この結果、対馬は40センチ砲2門、30センチ砲4門、15センチ砲22門ていうほどの要塞島に化けとった。

 バッテン、対空、対潜能力がゼロやったケン、海峡防衛にはほとんど寄与することはなかったていう。

 作ったバッテン、みーんな撃たずの砲台やった。

 それから100年近う経って、これらの要塞跡は、九州遺産どころじゃのうして、なんクソならん鉄くずとコンクリの残骸だけば晒しとることになってしもうとる。いつの世も、戦争ちゃムダで愚かなもんよ。

 阿比留一族と宗家
 平安時代から対馬の阿比留一族は、交易などの実権ば握っとって、大きな勢力やったらしかバッテン、鎌倉時代になったら大宰府との関係が悪化して、大宰府の命ば受けた宗重尚(そうしげひさ・初代宗知宗の子)が、厳原町豆酘(これも始めてじゃあ「つつ」ては読みきらん)に上陸して軍ば進め、美津島町鶏知にあった阿比留氏の屋形ば攻めた。

 伝説では、この
上見坂一帯の高原で阿比留氏と宗氏が、激しく戦うたとゲナ。で、死闘の末、宗氏が阿比留平太郎国時ば討ち取り、追いかけていって上対馬町の舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊も殺し、対馬の支配者となった、ていわれとる。

 そやケン、上見坂ば
「在庁落しの古戦場」ていうとゲナ。在庁(ざいちょう)いうたら、当時の地方官僚のことタイ。惟宗重尚は伝説上の人物のごたるバッテン、宗氏による阿比留氏追討の伝説は、対馬でずーっと信じられてきとるていう。

 以来、宗氏が対馬国全土ば手中に治め、元寇のときには日本の国境ば防衛して、当主
宗助国(そう すけくに)が討ち死にするやらで頑張った。

 宗氏は朝鮮王朝とのつながりが深かったケン、日本側の外交窓口ていう役割も担うての貴重な存在になっとった。関ヶ原の戦いでは西軍について負けたとバッテン、宗氏が持っとる朝鮮との役割が重視され、徳川から本領ば安堵された(領地ば取りあげられんですんだ)、ていう経緯もあると。

 後年には朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格ば貰うてクサ、朝鮮と独占的に交易することも認められとんなるとタイ。江戸時代以後も改易することなしに、明治維新まで家系は続いとって、維新後は伯爵になって華族にも列せられとんなる。

 宗氏の初代平知宗(たいらのともむね)は、壇ノ浦から脱出した安徳天皇ていう伝承があって、実際、厳原町久根田舎(くねいなか)補陀落山の山中には安徳天皇の陵墓がある。

 しかし、信頼でける歴史書によると、平知宗は
平知盛の三男で寿永3年(1184)年) 平家が都落ちして各地ば転々と逃げ回っとる時期に誕生しとるてなっとるケン、安徳天皇いうとは間違うた言い伝え。

 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、鎮西奉行武藤資頼から庇護されて養子になり、正治2年(1200)に太宰大監(だざいのだいげん・大宰府の役人)に任官して「宗」の姓ば名乗っとる。
 対馬から阿比留氏ば放逐した宗重尚・元寇のとき討ち死にした宗助国は、ともに知宗の子やった。

 宗家が対馬ば治めるごとなってから、宗の姓ば名乗ることがでけたとは藩主だけやったげなケン、いまでも島内に「宗」ば名乗る姓の人はひとりもおらんていう。


 逆に阿比留氏のほうは、上総国安蒜(あびる)庄の出身で、蘇我氏の末裔やったいうとって、子孫やら親戚が多かったとやろう、いまでも対馬で最も多か姓は「
阿比留さん」ゲナ。

場所・対馬市厳原町 対馬空港から国道382号線ば2km南下して、美津島町の「鶏知」信号ば右折、県道24号線ば西へ1km弱で左折、山道4km。厳原からやったら、国道382号線ば1km北上「桟原」信号を左折して県道44号線ば約6kmで上見坂公園に着く。                               取材日 2008.10.15

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